#2 詐欺
主観でしか物を判断できないのなら、見方を変えれば価値は見出せるかもしれない。
赤土を蹴る無数の足音、嗅いだこともない獣脂と香辛料の混ざった匂い、そして、頭上から降り注ぐ見たこともない色彩の天幕。
ここはどこだ。
見渡す限りの市場の活気と、網の目のように交差する人々の怒号に、胸の奥で冷えていた血が、にわかに熱を帯びていく。理屈ではない。圧倒的な未知が、胃の奥をヒリつくような高揚感で満たしていく。
強い衝撃が右の脇腹に響き、思考が途切れた。身体がわずかに鬖めく。
「もう、邪魔だよどきな」
舌打ちを残して通り過ぎていく男の背には、荒々しい毛皮が括り付けられている。足元は舗装されていない。踏み荒らされた赤土の埃が舞い、着慣れた厚手の上着の裾を薄汚く染めていく。
乱れた息を整えながら、肩に掛けた革紐を握り直した。使い込まれた茶色い革の肩掛け鞄だ。その重みだけが、唯一の現実に思えた。
夢でもみているのか、いや、この感覚は夢ではないだろう。頬をつねったりしたら負けな気がする。
何しろ情報がない。情報がないことには、次の行動すらできない。
そして何よりも金だろう。
これがないことにはどうにもならないだろう。そもそも、この社会はどういう仕組みで動いているのか。貨幣の価値基準すら分からない。
市場の奥へ歩みを進めながら、周囲の数字と価値の基準に意識を尖らせた。基準がなければ、交渉のテーブルにすらつけない。
「あいよ、そこのお兄さん! 一晩羽を伸ばしていきな! 飯が二食ついて、銅貨がたったの五枚さ!」
煤けた木札を掲げた、呼び込みの男のダミ声が耳に飛び込んでくる。足を止めず、横目でその木札に刻まれた歪な文字を凝視した。
一泊、飯付きで銅貨五枚。それがこの街の、最低限の生活水準の底値か。日本の感覚で言えば、およそ五千円くらいか。ならば、銅貨一枚は千円相当。
そういえば言葉はわかるが文字が読めない。数字らしきものとそれ以外がなんとなく判別がつく程度だ。
喧騒の向こう、道端で何やら大道芸のようなことをしている人だかりが見えた。
泥にまみれた子供たちが群がり、キラキラとした、ひどく無防備な目でその中心を見つめている。
シャボン玉──いや、違う。あれは水の塊だ。
どういう原理だ。
直径三十センチほどの水球が、生き物のようにふよふよと空間に浮いている。手品のような透明な糸は見えない。魔法使いを自称する男の手の動きと、水球の軌道には、明確な時間差がある。重力、表面張力、流体力学。自分の知る物理法則とは、明らかに何かが噛み合っていない。
「あんた、上り者かい、?」
不意に、荷物を抱えたふくよかでおばさんが、声をかけてきた。見ない顔だねとも言いたげに目を細めてこちらを見ている。
喉の奥が瞬時に乾き、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。ここで「何も知らない」と露呈すれば、次の瞬間には身ぐるみを剥がされる。胃のあたりを焼くような焦燥を必死で抑え込み、記憶の引き出しをひっくり返した。
「はい。さっきこの街に着いたところで。……こんなもの、見るの初めてです」
嘘はついていない。嘘は必ずどこかで綻びが出る。事実を切り取るのが一番確実だ。
幸いこの街に慣れていないのを察したようだった。
「そうかい。どこから来たかは知らないが、遠いところから命懸けだったろう。最近は物騒だからね。魔王が蘇っただので、街道の魔物も活発になってきた。あんたみたいなシュッとしたお兄さんが、無事に辿り着けてよかったよ」
魔王。本当にそんな絵空事のような存在が、この地では現実として闊歩しているのか。胃の奥に冷たい塊が落ちるのを感じる。
「なんとか。運よく魔物に襲われなくてすみました」
「それは神の思し召しだね、感謝しな。そのおかげか、聖教会で勇者様も選ばれたって話さ。今度は女の子って噂だよ。早く魔王を倒してもらって、真の平和ってやつを噛み締めたいものだねぇ」
「なるほど……」
勇者と魔王。あるいは、教会。この世界の権力構造の片鱗が見える。
「あの子は、駆け出しの魔法使いなんだろう」
おばさんは、いまだに水を浮かべている男を顎で指した。
「魔法の才はあっても、家柄に恵まれなかったんだろうね。こうして見せ物にして日銭を稼ぐしかない。もどかしいだろうにさ」
「魔法か。あれは、どうやっているんですか」
「あたしにわかるわけないじゃないか。魔法っていうのは300人に1人、しかも血筋に才能が芽生えるって話だよ。あたしらみたいな凡人が使えるものじゃないさ」
血統。あるいは遺伝子の不具合。
努力や論理ではなく、生まれた瞬間に決定される不条理。何も持たないものは、最初から何も持てない。冷徹なまでの格差がそこにあった。結局、血筋か。
その瞬間、脳裏にあの一枚の顔がフラッシュバックした。
自分をこの世界へと突き落とした、あの忌々しい老人の顔だ。
『その仕掛けを、知っているか、知らないか。最近の若い者は表面的なものに囚われすぎる。たったそれだけのことで、見えているものは姿を変える。……それを魔法と呼ぶ世界もあるくらいですな』
「なるほどな。あのじじぃが言ってたのはこういう....結局、血筋ですか。……面白いですね」
口元に、自嘲気味な、けれど確かな敵意を孕んだ苦笑が浮かんだ。
「何がだい。あんた、変わったことを言うねぇ」
「いえ、独り言です。ありがとうございました」
「まぁ、楽しんでいきな。ようこそ、ナカレ領ルーミナスへ」
おばさんは荷物を抱え直し、満足したように人混みの奥へと消えていった。
勇者、魔王、魔法、そして血統主義の世界。とんでもないところに放り込まれた。
薄暗い路地裏に入り荷箱に腰掛ける。さてどうしたものか。徐に革の鞄を開いた。
現代日本の、ありふれた生活の残骸。この世界においては、どれも存在しないはずの異物だ。
手帳が1冊。波打つ模様の万年筆。ダーツの矢3本。
身につけているのは、厚手の綾織りのズボン。そこから垂れ下がる、鈍い光を放つ金属の鎖。もはや運動靴よりも動きやすいくるぶし丈のブーツ。
ポケットには、紙巻きタバコが一箱と、使い捨てのライターが一個。
そして、安価な電子式の腕時計。
使い古した革の財布を取り出し、中身をつまみ上げた。
一万円札が一枚。千円札が二枚。あとは、いくつかの小銭。
この世界では何の効力も持たない、ただの紙切れだ。
ふと、その紙切れの細部を見つめた。
日本の最高峰の技術で印刷された、偽造不可能な紙幣。光に透かせば精巧な人物の顔が浮かび上がり、傾ければ怪しく色彩を変える紋様が刻まれている。これほど均一で、狂いのない薄い紙そのものが、この中世のような世界には存在し得ない。
ただの紙切れだが、見方を変えれば、この世界には存在し得ない超絶的な細密画。
口元に、乾いた歪な笑みが浮かんだ。
財布を仕舞い、三枚の紙幣だけをポケットに押し込んで立ち上がる。
狙うなら、あそこか。
少し開けた通りに、乾燥した薬草の束や、出所の怪しい古びた日用品を雑多に並べた露店がある。店番をしているのは、どこか商売に慣れていなさそうな、小賢しそうで若い青年だ。客の足元を見て、少しでも高く売りつけようと目をぎらつかせている。
衣服の埃を払い、大きく息を吸う。青年の前に、あえて静かに歩み寄った。
青年の目はこちらを一瞥した。足元から頭の先まで品定めをするように視線を回し、張り付いた笑みを浮かべる。
「へい、お兄さん。見慣れない格好だね。旅の疲れに効くいい薬草があるよ。安くしとくよ?」
青年の言葉に答えず、ポケットから、千円札を一枚、無造作に机の上に置く。
「これを買い取って欲しい」
青年の目が、机の上の肖像画に落ちる。一瞬、青年の呼吸が止まった。
見たこともない滑らかな手触りの紙。そこに印刷された、あまりにも細密で、生身の人間と見紛うような男の姿。緑と紫が複雑に絡み合う幾何学的な模様。
「……なんだい、この奇妙な絵は。見たことのない細工だが……ただの紙だろ。悪くない出来だが、こんなもの銅貨一枚にもなりゃしないよ」
青年は退屈そうに鼻で笑い、指先で紙を弾いた。声がわずかに上ずっている。あからさまな買い叩きの反応。価値がないと言いながら、その目は紙の端から離れていない。
ーーかかった。
自分の表情は一切変えず、今度は懐から、一万円札をその隣に並べた。
「じゃあ、これはどうだ」
青年の顔から、今度こそ完全に余裕が消えた。
千円札とは比べものにならない、重厚な茶褐色の地。中央に佇む老人の肖像。そして何より、左下に施された、光を反射して不気味に色を変える光沢の紋様。
「なっ……なんだこれ……」
青年は思わず一万円札に手を伸ばそうとし、それを指先で静かに押さえる。
「こっちは、さっきの絵の十倍の価値がある。遠い異国の王宮の絵師が、生涯をかけて編み出した、絶対に真似のできない聖画だ。光に透かしてみろ。紙の裏側に、もう一人の男が隠れている」
青年が言われた通りに一万円札を天幕の光に透かした瞬間、その目が見開かれた。紙の中に、確かに別の顔が浮かび上がっている。
「十倍……!」
青年の頭の中で、教会の司祭や貴族にどれほどの高値で転売できるかという、強欲な計算が火花を散らしているのが見て取れた。
同時に、青年の顔に焦りが混ざる。これほどの代物だ。まともに買い取るとなれば、この小さな露店の全財産をはたいても足りるかどうか分からない。青年はごくりと唾を飲み込み、睨みつけた。
「……おい。お前、これをどこで手に入れた。怪しすぎる。こんなもの、まともな額じゃ引き取れないね。精々、二枚合わせて銅貨三枚ってところだ」
ふっかけ、怯え、そして精いっぱいのハッタリ。青年の手持ちの資金の限界値が、その表情の引きつり方に現れている。
冷ややかな目を崩さないまま、ゆっくりと二枚の紙幣を手元に引き寄せた。
「この絵をどう使うかは知らないが……俺も一刻も早く路銀が欲しい。他の大きな商館に持っていけば、確実に適正な大金になるだろうが、あいにく時間がなくてね」
あえて声音を一段落とし、悪魔のような妥協案を提示した。
「どちらも買い取るなら、本来の価値の八十パーセント──いや、銅貨12枚でいい。お前ににとっては、一生に一度の破格の儲け話のはずだ。どうする?」
青年の視線が、手元の紙幣と、自分の足元の金箱の間を、狂ったように往復し始めた。
放った欲の罠が、青年の脳内で急速に変異していく。
(……待てよ。こいつは妙な格好をしているが、底が知れない。よく見たらあの腰にぶら下げてある鎖、あれは銀じゃないか。それも恐ろしく純度の高い精巧な作り。ここで単に安く買い叩くだけじゃもったいない。こいつを上客として掴んでおけば、今後、さらに凄まじい異国の美術品を持ち込んでくるかもしれない)
青年は、自分が一歩リードしたつもりになって、満面の商売用の笑みを浮かべた。
「銅貨八枚? ……いやいや、お兄さん。俺を誰だと思ってんだ。これほどの『聖画』をそんな端金で引き取ったら、商人の名が廃るよ。──よし、銀貨3枚だ。これで、そっちの二枚とも俺が引き取る」
青年は自慢げに、懐から鈍い銀色の光を放つ大きな銀貨を取り出し、机に置いた。
「その代わり、と言っちゃあなんだけどさ……。またこういういいモノが手に入ったら、真っ先に俺のところに持ってきてくれよ?」
計算通り。いや、それ以上か。カモは向こうから罠に嵌まりにきた。
仕上げだ。表情を変えず、銀貨を指先で回収してポケットに収めた。そして、
「ああ悪いな、約束しよう。……お近づきの印だ。これはお前にやる」
ポケットに残っていた最後の手札──もう一枚の「千円札」を、青年の手の中に無造作に握らせた。
「なっ……なんだこれ、まったく同じ絵……なのか……!?」
青年の手が、興奮と困惑でガタガタと震え出す。
寸分の狂いもない、全く同じ超絶的な細密画が二枚。これが意味する恐ろしい価値に、青年の強欲な頭が完全にバグを起こしていた。この瞬間、青年は持ち込む「紙切れ」という毒の虜になり、完璧な共犯者へと仕立て上げられた。
「いい取引だった。また何かあれば、ここに来る」
遺恨は残したくない。何しろ銀貨3枚がどれほどの価値かあまりわからない。だが、彼なら今まで見たことないものを不用心に使うことはないだろう。
焦ってはいけない。余裕を持った振る舞いで、ゆっくりと雑踏の中へ体を向けた。
「兄さん、名前は。また来てくれるんだろ」
名前か、別になんでもいいが。
「もうあんたとは友達みたいなもんだ。トモとでも呼んでくれ」
我ながら安直な名前をつけたものだ。だがこれでいい。
「トモ、ね。忘れないよ、またな兄さん!」
青年の弾んだ声を背中に浴びながら、人混みの奥へと足を急がせる。
露店たちの天幕が途切れ、周囲の視線が薄くなった路地裏に滑り込んだ瞬間──せき止められていたものが、一気に決壊した。
どっと冷たい汗が噴き出し、視界がわずかに明滅する。指先が、酷く冷たい
ポケットの銀貨を握る手が、自分でも引くほど震えていた。
頭を高速で回し、表情を殺し、精一杯の演技をしてはいたが、中身はただの凡人だ。一歩間違えれば、今頃警察に突き出され泥水をすすっていたかもしれない。心臓が肋骨の裏を狂ったように叩いている。
とにかく、落ち着ける場所が必要だった。この赤土の熱気と怒号から離れ、一人になれる安全な空間が。
震える足に鞭を打ち、先ほど通り過ぎた宿屋の呼び込みの声へと記憶をたどった。
扉を押し開けると、薄暗い受付の奥で、暇そうに包丁を研いでいる無愛想な男がいた。
「あいよ。一泊かい? 飯が二食ついて銅貨五枚さ」
ポケットの銀貨に触れるとポケットの中で軽い金切り音がした。
宿の言い値通りに五千円相当を払うのはもったいなく感じる。欲しいのは、ただ眠る場所。
銀貨を出す前に、静かに男を見据えた。
「──飯はいらない。素泊まりだ。部屋だけなら、銅貨二枚でどうだ」
男は包丁を研ぐ手を止め、あからさまに面倒くさそうな顔でトモを睨みつけた。
「はあ? 冗談言っちゃいけないよお兄さん。うちは美味い飯が売りなんだ。飯を抜いたからって、そんなに安くできるわけ──」
その言葉を遮るように、ポケットからあの銀貨一枚を取り出し、カウンターの木目の上に静かに置いた。
男の視線が、一瞬でその銀色の輝きに吸い付けられ、ゴクリと喉が鳴る。
「銀貨で払う。釣りは銅貨で欲しい。……飯はいらない。部屋だけだ。」
男は銀貨を素早く手元に引き寄せ、露骨に態度を和らげて不敵に笑った。
「……チッ、しょうがねえな。兄さん、商売がお上手だ。部屋は二階の突き当たり、左側だ。勝手に使いな。ほらよ、お釣りの銅貨が十三枚さ。明日の朝、腹が減っても文句言うなよ」
鍵など渡されなかった。そもそもこの手の安宿の扉に、錠前などついてないのだろう。
銅貨十三枚を回収し、ポケットに滑り込ませた。
一階は食堂のようだ。油の爆ぜる音と、大雑把に刻まれた肉が炒められる匂いが立ち込めている。その誘惑を無視し、顔を顰めながら軋む木造の階段を上って二階へと向かう。
案内されたのは、お世辞にも綺麗とは言えない、埃っぽい小さな木賃部屋だ。
内側から木の閂をがちりと閉め、これで物理的に外からは開けられなくなったことを確認する。肩から茶色い革の鞄を下ろした。
すっかり泥を被った革靴を脱ぎ捨て、軋む木製のベッドに仰向けに倒れ込んだ。
──防音性など皆無だった。
一階の食堂から響く荒々しい笑い声やスプーンが皿を叩く音が、床板の隙間を抜けて容赦なく上がってくる。それどころか、薄い板壁一枚を隔てた隣の部屋の、宿泊客が寝返りを打つ衣擦れの音や、低く漏れる吐息までが筒抜けに聞こえてきた。
プライバシーなんてあったものじゃない。あまりに脆弱な木造の箱。
だが、今のトモにとっては、これでも最高の避難に感じられた。
天井の割れた木目を凝視しながら、ゆっくりと、深く息を吐き出す。
ポケットから取り出した十五枚の金属の塊を、胸の上で弄んだ。カチカチと乾いた音が部屋に響く。
ひとまず、最低限は確保した。
だが、手持ちの手札を使い切ればそれまでだ。この金が尽きる前に、この街のことを知らなければならない。
あのふよふよと浮いていた水の塊。
300人に1人しか使えないという、不条理な血統主義の魔法。
そして、魔王と勇者。
じわじわとアドレナリンの興奮が引き、泥のような眠気が意識を塗りつぶしていく。
(……銀貨一枚で、お釣りが十三枚か)
階下の喧騒を遠くに聞きながら、見知らぬ天井の下で、自分は深く、暗い眠りへと落ちていった。
この貨幣が、命の数値のような。
そんな錯覚を覚える




