#1 裏切り
あいつは何を考えている。
そもそも自分は何を期待していたのだろう。
わかるはずもない、自分のことも大してわからないのだから。
「もうあなたには会わないと思うわ。……そんな気がするの」
最愛の人にとって、己が必要なくなった。ただそれだけのことだった。
別れる間際まで自分を「運命の人」と呼んでいた口が、よくもそれほど容易く裏返るものだ。
いっそ子供のように癇癪を起こし、怒りをぶちまけることができたなら、どれほど救われただろうか。
なぜこうなった。どこに至らなさがあった。
生理的な嫌悪か、あるいは、他に何かがあるのか。
ガタゴトと、電車の車体が規則的な音を立てて激しく揺れる。
彼は吊り革に掴まったまま、車窓に映る自分の締まりのない顔を見つめていた。
胸の奥で渦巻いたのは、激しい怒りではなく、不思議なほど冷え切った悲しみだった。
電車の不快な小刻みの揺れのせいか、それとも頭を狂わせんばかりの考えすぎのせいか、自分でも釈然としない。
ただ、胃の底からせり上がってくるような、強烈な気分の悪さだけが彼の身体を支配していた。
だめだ、本当に気分が悪い。降りよう。
彼は目的の駅でもない、名前も知らないホームへ衝動的に滑り込み、逃げるように電車を降りた。
見知らぬ町の改札を抜ける。
ただ、足を動かしていたかった。
知らない道だというのに、不思議と足は前に進む。どこかへ逃げ出したいと思ったのかもしれない。
ただ、すれ違う住人の誰もが自分を知らない。
その事実だけが、今の彼にはかすかな安らぎだった。
歩くにつれて、建物の背が少しずつ低くなっていく。
頭上の案内標識には、見覚えのない地名が並んでいた。
田舎なのか街なのかも判然としない、地方のロードサイドのなれの果てのような景色だ。
──中途半端だな。
誰の記憶にも残らないような曖昧な街並みを眺めながら、彼は自嘲気味に思った。
今の自分も、似たようなものだ。考えのまとまらない
中途半端な存在。
じっとりとした嫌な風が通り抜けた。
それと同時に、雨が降り始める。
遠くの空は晴れているというのに。
自分の上だけに天気雨を降らせる歪な空が、自分を嘲笑っているようにも思えたし、惨めな彼に同情を寄せているようにも見えた。
そう言えば梅雨に入ったと聞いた気もする。
彼は小さく舌打ちを漏らし、錆びれたバス停の軒下に避難し、煙草に火をつけた。
いつもよりまろやかで、湿度のこもった紫煙を吐き出す。
煙は雨粒の間をぬるりと避けるようにして、上へ、上へと昇っていった。
もう会わない、か。
もう会えない、ではなく。
一文字違うだけで、意味が根底から変わる。
言葉とは、なんて雑で、なんて残酷な作りをしているのだろう。
彼女の表情、声のトーン、そのすべてが脳裏に張り付いて剥がれない。
最後の最後まで終わりを切り出される要因は見つからない。
こんなに思考しなければならない、この縛られた感触。これは、呪いだ。
私は魔女に恋をした──。
ふと、三流の恋愛小説のようなタイトルが頭に浮かび、すぐに馬鹿らしくなって彼は小さく鼻で笑った。
自嘲の煙が、雨に濡れたアスファルトに溶けていく。
魔女なものか。あいつは自分を見限ったただの人間だ。
どれだけ頭の中で問いを転がしても、答えが出ないことだけは変わらなかった。
頭の中で、「わからない」という言葉が黒く渦巻く。
思わず、それが掠れた声となって唇から漏れた。
「何が、わからないのですかな?」
不意に声をかけられ、彼の身体が硬直した。
ギョッとして声のした方に視線を向けると、いつの間にか、一人の老人がすぐ傍らでこちらを不思議そうに見上げている。
背が小さい割に、ピンと伸びた背筋。
縦縞の襟付きシャツに、仕立ての良さそうな蝶ネクタイ。
片手には茶色のジャケットを綺麗に畳んで腕にかけている。
どこかの資産家かと思わせるような、仕立ての良い身なりの老人だった。
この雨の中で、傘も差さずに濡れた様子もないのが、少しだけ奇妙に映る。
「……何でもありません。独り言です」
彼は小さく頭を振った。
老人には悪いが、今は他人と口を利く気分ではなかった。
煙草をもう一息深く吸い込み、紫煙を吐き出す。
「迷われているのですか」
何を言い出すかと思えば、どうやら迷子と思われているらしい。
目的地はないが迷子になっているつもりはない。
「見初めた女性と仲違いし、もう会えない、いや、会わない。と言われたってところですかな。なるほど、それは割り切れない」
心臓が嫌な跳ね方をした。
怪訝な目を老人に向ける。
確かにさっき、一文字違うだけで意味が変わる、とは思ったが……「もう会わない」という肝心のワードは、頭の中で反芻していただけで、決して口には出していないはずだ。
「あんた、今──」
「おや、恐ろしい顔をなさる。先ほどあなたが口にされたのですよ。『言葉は雑な作りをしている、わからない』とね。ただの手品のようなものです」
老人は、腕にかけたジャケットの位置を小さく直した。
「まず、あなたはこの街の住人ではないようだ。靴の汚れ方、服装もこの辺りの人とは違う。傘は持たない主義ですか。その上着も油を染み込ませてあるのでしょう、珍しい材質だ。目的もなくただ歩き続け、ここに立ち止まるまで、ずっとその言葉について考えていた。」
老人はこちらを見上げた。
「空間からその表情、面持ちと言ったほうが正しいか。報われない雰囲気を感じたのです。」
彼は無言で煙草をくわえ直した。否定する言葉が見つからなかった。
老人の琥珀色の瞳が、下から上へこちらの輪郭をじっと品定めするように見つめてくる。
「遠方からはるばるやってきて、雨の中で悶々と歩く若い男……となればねえ。この年寄りが『色恋の沙汰』と勘ぐるのは悪い癖ですがね」
老人はしたり顔で、くくくと喉を鳴らした。
彼の胸が跳ねる。なぜそこまで正確に言い当てられる。
「あんた、さっきから何が言いたいんだ」
「私にはあなたが、言葉の呪いにかけられているように見えただけですよ。色恋の沙汰で考え歩くのはよくあること。ここから先は、ただの年寄りの当てずっぽうのようなものですな」
言葉を失った。
心を読まれたわけではない。
この老人は、彼が漏らしたわずかな独り言と、その場にあるいくつかの事実を繋ぎ合わせ、最も触れられたくない傷口に、正確に指を突き立ててみせたのだ。
「……揶揄わないでくれよ」
彼の口から、苦いまじりの、余裕のない言葉が漏れた。
最愛の人に捨てられたばかりのプライドが、年長者の余裕に弄ばれているようで、酷く気分が悪かった。
「おや、滅相もない。揶揄うなどと」
老人は今日初めて、満足そうに口元を歪めた。
その笑みを見た瞬間、彼の背筋に、説明のつかない冷たい粟が立った。
これまで普通の老人にしか見えていなかったはずの存在が、一瞬だけ、計り知れないほど巨大な「何か」の影を落としたような──。
そんな錯覚に襲われ、彼は思わず半歩、後ろに足を引き込んだ。
「その仕掛けを、知っているか、知らないか。最近の若い者は表面的なものに囚われすぎる。今見えているものはたったそれだけで姿を変える。……それを魔法と呼ぶ世界もあるくらいですな。あなたのように、仕掛けの最小単位に立ち止まり、答えの出ない問いに飢えることができる人間は、実に好ましい」
老人は静かに、彼を見据えた。
「道に迷われたのなら、お送りしましょう。あなたのその、乾いた知性に相応しい場所へ」
「そんな世界があれば行ってみたいものですね。でもお気遣いなく。なんの心配もいりませ──」
言いかけた言葉は、唐突な世界の変調にかき消された。
最後に老人は何か笑ったような、何かをしたようにも見えた。
彼の都合などお構いなしに降っていた雨が、いつの間にかピタリと止んでいる。
それどころか、濡れた地面の照り返しが、網膜を焼くほどに眩しかった。
──音が、どんどん大きくなる。
さっきまで静まり返っていたはずの場所が、まるで静寂を維持するのをやめたかのように、ガヤガヤと騒がしい雑音を立て始めた。
隣にいた老人はというと、煙草の煙か、あるいは雨上がりの蒸気のように、いつの間にか姿を消していた。
当然、驚き慌てるべき局面なのだろう。
だが、彼の瞳は、目の前の光景に完全に釘付けにされていた。
「はは、、なんだこれ」
もう何もかもどうでもいい。
そんな場合じゃない。
さっきまで彼の肌を濡らしていた、あのじっとりとした梅雨の湿気は、どこかへ消えた。
肌を撫でるのは、驚くほど乾燥した、どこか果物の甘酸っぱさと獣の匂いが混ざり合う、嗅いだこともない「空気」だった。
音が、鼓膜を激しく揺さぶる。
さっきまで静まり返っていた寂れたバス停の静寂から一転、地鳴りのような怒号と活気が彼を包み込んでいた。
「おい、そこ退け! 邪魔だ!」
「新鮮なルバの果実だよ! 買った買った!」
信じられないほどの音量で耳に飛び込んでくる。
彼がハッと顔を上げると、そこは、色鮮やかな天幕がひしめき合う巨大な市場の喧騒の真ん中だった。
見上げる空には、雲一つない強烈な青。
そこには、日本のものより明らかに巨大で、どこか青白い太陽がぎらぎらと輝いている。
地面はアスファルトではなく、無数の足底に踏み固められた赤土。
行き交う人々の姿に、彼は息を呑んだ。
中世ヨーロッパを思わせる、粗末な麻の服を着た人間たち。
だが、それだけではない。
彼の横を通り過ぎたのは、荷車を引く、体長三メートルはあろうかという巨大な二足歩行のトカゲ。
その背に乗っているのは、長い耳を揺らしながら、豪奢な刺繍のローブをまとった美しい男。
別の露店では、犬のような顔をした小柄な生き物たちが、奇妙な形の刃物を並べて大声で値切り交渉を繰り広げている。
見慣れない人の姿形、建物の造形や構造。
吸い込む空気の、圧倒的な異物感。
アホみたいなタイトルに、今更引き籠る選択肢は持ち合わせない。
世界も一瞬たりとも、その余裕は与えなかった。
誰がなんと言おうと、どう見ても。
そこは、異世界そのものだった。
考えて、考え続ける。
そうしないと生きていけない。そんな気がしていた。




