#0 決別
人を変えるなんぞ、傲慢でしかない。
それでも変えたいと思うのは無意味なことだろうか。
この世界において、他人を理解するなど、最初から不可能なのだ。
神を語る者の手のひらの上で、開け放たれた大扉から吹き込む夜風が、石床の煤をさらさらと払っていく。
高い天井を見上げる余裕は、今の二人にはない。
その神が定めた世界の理を、いちいち呪っている時間すら、今の男には残されていなかった。
男は冷え切った床に立ち尽くし、ただ己の呼吸を殺していた。
かつて、この男が世界の泥をすべて引き受け、喉を血で焼いて今にも倒れそうになっていたあの日。
何の躊躇もなくその泥に膝をつき、ただ笑って水差しを差し出してくれた、少女の細い指を男は忘れたことがない。
その指が今、衣服の擦れるかすかな音を立てて震えている。
彼女は視線を床に落としたまま、動かない。
ただ息を潜め、嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに時間が磨り減るのを望んでいる。
見ればわかる。
何もしなければ、彼女は明日の朝も、何事もかったかのように不格好な笑顔を浮かべて、この日常を続けるのだろう。
それが彼女の選ぶ、もっとも穏やかな諦めだった。
とても見ていられない。
男の喉の奥には、十年の間に積み重なった澱が固着している。
褒めても、突き放しても、彼女は見るも絶え絶えしく小さく丸くなるばかりだった。
同じ地平を見るはずだった。
だが、男の歩幅は彼女の骨を軋ませ、彼女の歩幅は男の焦燥をあおる。
これ以上、この生ぬるい時間を過ごすわけにはいかない。それは許されないことだった。
男は短く、吐き出すように呟いた。
「……もう全て終わりにするか、どう思う?」
それは懇願だった。
『嫌だ』と、その細い腕で衣服を掴んでくれれば、まだこの乾いた喉で戦える。
その言葉さえもらえれば。そう信じていた。
しかし、彼女の首筋は、冷たい月光の下でただ硬くこわばっただけだった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、まるで他人の予定を切り出すように、ひどく綺麗に、静かに笑ってみせた。
「……そうですね。そうしましょうか。」
非の打ち所のない、静謐な諦念。
呆気なかった。十年の時間をその一言が木端微塵に砕いた。
自分たちが血を流して重ねてきた対話は、こんなにも簡単に片付けられてしまうものだったのか。
胸の奥で、黒い熱が爆ぜた。
綺麗に終わらせてなどやれない。やるものか。
こうするしかない。
「どうしたいか聞いている。」
男は一瞥した。彼女の肩が強張る。
「物分かりのいい顔をして、また自分の責を棚に上げて他人のせいにするか。いつまでも怯え、被害者を装い、自分が傷つかない場所に逃げ込む。……お前自身の声はどこにある」
投げつけられた単語のひとつひとつが、彼女の体を物理的な衝撃となって襲った。
言葉の刃が突き刺さるたび、その華奢な肩が小さく、拒絶するように強張る。
あまりの衝撃にか、彼女の指先から一切の力が抜けた。
──チィン、と。
金属音が広間の静寂を打つ。
彼女がいつも、お守りのように、あるいは男に追いつきたくて不格好に帯びていた護身用の細い剣。
それが鞘ごと石床へ滑り落ち、高く虚しい音を立てて転がった。
転がった剣を見つめる彼女の瞳に、絶望の影が差す。
「違います……私は、あなたのことを……」
「お前は何もしていない。ただ、漫然と過ごしているだけだ」
「どうして……そうなるの」
彼女の喉から、鋭い悲鳴が上がった。
綺麗に整えられていた輪郭が、一瞬で歪む。
視線が真っ向から男の瞳を射すくめ、その奥に昏い火が点火した。
「い、いつもそうだ。あなたはいつも、上から私を、し、品定めして、削って、否定して……私はただ、一人の人間として、あなたの隣で笑いたかった、だけなのに!」
堰を切ったように、言葉にならない呪詛が溢れ出す。
「刃物みたいな正論ばかり押し付けて!」
少女の目が見開く。
「あなたなんて大嫌いだ、あなたみたいな冷酷な化け物のそばには、もう一秒だって──」
男は、その怒号を正面から浴びながら、しかし微動だにせず、凍りついた瞳で彼女を見据えていた。
胸の奥は、千切れるほどに叫んでいた。
今すぐにでもその細い肩を抱きしめ、悪かったと頭を下げて、元のぬるい日常に戻れるならどれだけいいだろう。
だが、理性がその腕を鎖で縛りつける。
ここで抱きしめれば、彼女はいつまでも変わらない。
「感情で誤魔化すな。……今日まで何をしてきた。お前のその足元が、すべてを物語っているではないか」
男の声には、一片の情も混ざらない。
「今吐いた言葉はどうだ。自分のことを──」
男の言葉が、彼女の耳の奥で歪んだ音を立てて弾けた。
その瞬間。
彼女の頭の芯が、不気味なほど真っ白に、冷えていく。涙も、感情的な怒りも、すべてが急速に引いていった。
あとに残ったのは、目の前にある「障害」をこの世から消し去りたい。
純粋な殺意。
「──あああああ!!」
悲鳴ではない。
獣のような咆哮と共に、彼女は床の剣へ向かって身を転がした。
さっきまで震えていた指先が、今は嘘のように硬く柄を握りしめている。
鞘を石床に叩きつけるようにして引き剥がすと、剥き出しの白刃が月光をギラリと反射した。
体格差のある男の喉笛は狙わない。そんな大振りの軌道は、一瞬で叩き落とされる。
──頭ではなく、肉体が覚えていた。
十年の間、嫌というほど叩き込まれた、確実に対象を仕留めるための冷徹な技術。
奇しくも男の教えが、今この瞬間に完璧に生きていた。
最短の直線。
一切の躊躇もなく華奢な体重のすべてを乗せた、寸分の狂いもない踏み込み。
狙いは、男の胸元──心臓のわずか下。
金属が擦れ合う嫌な音が響き、男の胸元へ刃が突き刺さる。
肉を裂く鈍い手応え。
男の黒い衣が、じわじわと濃い赤に染まっていく。
(……ああ、やっとだ)
男の胸の奥に、微かな、しかし確かな安堵が広がった。
男の技術を以てしても、完全にその予測を上回る無駄のない一歩。
胸を刺した鋭い痛みの向こう側で、奇妙なほどに男はホッとしていた。
自分への憎悪であれ、何であれ。
彼女は今初めて綺麗に取り繕った諦めを脱ぎ捨て、剥き出しの自分をここに突き出してきた。
その事実が、引き裂かれるような状況の中で、男の心を静かに満たされる。
だが、男は眉一つ動かさず、そのまま立ち尽くしていた。
刃先は浅い。
技術も、筋力も、その覚悟すらも、目の前の男には遠く及ばなかった。
──その残酷な現実が、彼女の掌を激しく震わせた。
自分ではどうにもならない。
この男を打ち破る術を、自分は何も持っていない。
剣を持つ手がガタガタと震えた。
すべてを失った彼女の顔に、先ほどの烈火のような怒りは消えていた。
彼女は、血のついた手のひらを見つめ、それから、冷え切った、誰も通さない大人の顔を、もう一度無理やり顔に張り付ける。
「……そうですね。あなたの言う通り私がおかしかった。愚かで、臆病なんでしょう」
感情の死んだ、乾いた声。
男の胸から、かすかに血が滴り落ちる。
男はその変わり果てた彼女の表情に、言葉を失った。
「……行くのか」
「無情ですね」
彼女は、静かに笑った。
「あなたのことは、愛していましたよ。……でも、もう無理なようだ」
彼女は男の胸からゆっくりと剣を引き抜いた。
溢れる血が彼女の指を赤く汚したが、それを拭おうともせず鞘へ収めた。
カチリ、と。
硬い金属音が、静寂を両断した。
「さようなら」
彼女は二度と振り返らなかった。
重い足取りのまま大扉の向こうへ、夜の闇へと消えていく。
その背中には、もう怒りも、未練も、何も残っていなかった。
長い余韻を残して、扉が重たい音を立てた。
その瞬間、男の膝からすべての力が抜け、不格好に床へ手をつく。
先程までの威厳など、微塵も残ってなどいない。
胸の傷から流れる血が石床を汚していくが、そんな痛みは知覚すらできなかった。
男は頭を抱えた。
これでいい。あのまま停滞を許せば、いつか二人で共倒れになる。
そもそもあのままでは自分も壊れてしまう。
彼女が最後に被った、あの冷徹な表情が、男の胸を内側から抉り続ける。
(別の道は、なかったのか)
もしも、あの最初の謝罪を受け入れて、ぬるい嘘の中で、手を繋いだまま腐っていく道を選んでいたら。
いや、どちらにせよこうなることは見えていた。
どうすれば、かわいいあの子を壊さずに済んだのだろうか。
答えのない、あり得たはずの未来の景色が、男の脳裏を何度も、何度も、壊れた機械のように巻き戻る。
男は一人、血と埃に汚れた床を見つめたまま、二度と戻らない光景のなかに沈み込んでいった。
男はポツリと、誰もいない空間に向けて、血を吐き出すように呟いた。
「……結局、こんなものだったか」
そう言って、誰もいない闇を傲然と見下ろしてみせる。
そうしなければ、今すぐ涙が溢れてしまいそうだった。
冷たい風が、嘲笑うかのように吹き抜けていた。
これを読んでいるあなたは今、世の中がどう見えてるでしょうか。
男と少女をどう捉えるのでしょうか。




