【第七話】門前の影
空の色が、少しずつ赤く染まり始めていた。
「……見えてきたな」
ムス・ロッジーニが前を見据える。
その視線の先。
遠くに、巨大な壁が見えた。
「……あれが、王都か」
ハルが呟く。
地平線に沿って広がる、圧倒的な規模。
高い外壁。
その内側に、さらにいくつもの建物が見える。
街というより、一つの国みたいだった。
「でけぇだろ」
「想像以上だな……」
思わず、言葉を失う。
あそこに入るのかと思うと、少しだけ現実味がなくなる。
「……人、多い」
リーフィアがぽつりと呟く。
確かに、門の前には行列ができていた。
商人らしき荷馬車、旅人、武装した連中。
様々な人間が集まっている。
「正面から入るぞ。面倒だがな」
ロッジーニが高度を下げる。
地面に降りる。
人のざわめきが、一気に近くなる。
空とは違う、密度のある空気。
「……なんか、落ち着かねぇな」
「そういうもんだ」
ロッジーニが軽く肩をすくめる。
列の最後尾に並ぶ。
周囲の視線が、少しだけこちらに向く。
見慣れない顔。
見慣れない装い。
仕方のないことだ。
そのとき。
——カチッ。
小さな音が、頭の奥で鳴った。
「……?」
ハルは、無意識に顔を上げた。
違和感。
空気が、ほんの少しだけ重い。
でも——
今までとは、違う。
“歪んでいる”んじゃない。
“削られている”。
「……なんだこれ」
「どうした」
ロッジーニが気づく。
「いや……なんか変だ」
言葉にしづらい感覚。
でも、確実におかしい。
そのとき。
前の方で、ざわめきが広がった。
「おい、なんだあれ……」
「魔物か?」
「いや……人、か?」
ざわつきが大きくなる。
列が崩れる。
門の近く。
一人の男が、立っていた。
黒い服。
顔はよく見えない。
ただ。
そこにいるだけで。
空気が、歪んでいた。
「……おい」
ロッジーニの声が、低くなる。
「下がれハル」
「なんだあいつ」
「分からん。だが——」
言葉が止まる。
その男が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。
周囲の空気が、消えた。
音が消える。
風が止まる。
呼吸すら、重くなる。
「……っ」
ハルの胸が締め付けられる。
何かが、“削られている”。
さっき感じた違和感の正体。
——魔力。
この場の魔力が、少しずつ消えている。
「……逃げろ」
誰かが叫ぶ。
群衆が、一斉に崩れる。
パニック。
押し合い、叫び声。
その中で。
その男だけが、動かない。
「……面倒だな」
低い声が、聞こえた。
男のものだった。
次の瞬間。
前方にいた人間が、崩れ落ちる。
何もされていない。
ただ、立っていただけで。
「……なんだよ、それ」
ハルの声が、震える。
ロッジーニが前に出る。
「下がってろ」
「いや、あれ……」
「いいから下がれ」
いつもと違う声だった。
本気の声。
リーフィアが、ハルの腕を掴む。
「……ダメ」
小さな声。
でも、はっきりしている。
「……あれ、危ない」
「分かってる。でも——」
放っておけない。
理由は分からない。
でも、体が動く。
ポケットに手を入れる。
鍵を握る。
——カチッ。
音が鳴る。
男の視線が、こちらに向いた。
「……ほう」
興味を持ったような声。
ハルの体が、ゾクリと震える。
やばい。
本能が警告している。
でも。
足は止まらなかった。
一歩、前へ。
「ハル!」
ロッジーニの声。
それでも止まらない。
近づく。
空気が、どんどん削られていく。
息が苦しい。
でも。
“見える”。
削られている流れ。
消されている何か。
「……そこか」
鍵を構える。
男の目が、わずかに細くなる。
踏み込む。
距離を詰める。
そして——
鍵を、振る。
——カチッ。
音が鳴る。
一瞬。
世界が、戻る。
空気が、戻る。
音が、戻る。
「……なるほど」
男が、小さく呟く。
その声には、明確な興味があった。
「面白いな」
次の瞬間。
圧が、消えた。
男の姿も。
「……は?」
消えた。
完全に。
そこにいたはずなのに。
「……逃げた、か」
ロッジーニが低く言う。
周囲は混乱していた。
倒れていた人間が、少しずつ意識を取り戻す。
さっきの出来事が、嘘みたいに。
「……今の、なんだよ」
ハルが呟く。
答えはない。
ただ。
確かなことが一つ。
あれは——
“人間じゃない”。
「……あれ」
リーフィアの声。
少しだけ震えている。
「……知ってるのか?」
問いかける。
リーフィアは、少しだけ間を置いて。
「……たぶん」
小さく、頷いた。
「……同じ」
「同じ?」
「……壊す側」
静かな言葉。
でも、その意味は重かった。
ロッジーニが空を見上げる。
「……面倒なのに目ぇつけられたかもしれんな」
「軽く言うなよ」
「軽くねぇよ」
真顔だった。
門の方を見る。
何事もなかったかのように、列が再形成されていく。
だが。
さっきまでとは、明らかに空気が違う。
「……行くぞ」
ロッジーニが言う。
「ここで止まっても仕方ねぇ」
「……ああ」
ハルは鍵を握る。
さっきの感覚。
あれは、今までと違う。
止めたというより。
“ぶつかった”。
あの男と。
そして。
あの視線。
確実に、こちらを見ていた。
——面白いな。
その言葉が、頭に残る。
王都の門が、目の前に迫る。
中に入れば、安全なのか。
そんな保証はどこにもない。
むしろ。
ここからが、本番だ。




