003
屋敷の外は夜に覆われていた。
異世界だからといって、月と星は変わらない。真っ暗な黒の中に点々と光る粒が散りばめられ、丸く大きな天体が白い光を反射する。屋敷の窓からでは角度が足りず見上げることはできなかったが、外で眺める夜空は雄大で、どこまでも広がっている。
自由を奪われた、首輪付きの僕とは反対に。
「おっ、ピューレさん。準備できてるすっよ」
「ありがと。それじゃあ、早いところ帰りましょうか」
僕の購入者、ピューレさんに連れられて、屋敷の敷居を跨ぐ。
待ち望んでいたはずの外出。しかし、爪先が鉛になったみたいに足が上がらない。舗装された石畳を踏んでも姿勢が安定せず、夜の闇と自分の体の境界が曖昧だ。
「へぇ~、それが落札した子っすか。可愛いっすね」
「あら。覗いてたの?」
「いやいや。出てくる人たちが話してたの聞いただけっすよ。……でも、なんか具合悪そうっすね。大丈夫っすか?」
「うーん。男のことってよく知らないのよね。ま、何とかなるでしょう」
ぐい、と手を引かれる。ピューレさんにとっては些細な動きでも、僕の短躯では耐えられない。全身がジェットコースター並みの急加速で引きつけられ、ぶつかる寸前で踏み止まれたものの、至近距離で見る彼女の体は濃密な筋肉の気配を放っている。生物としての格の違いが恐怖となり、悪寒がじっとりと背筋を伝う。
「ささ、乗ってくだせえ」
連れられるまま、馬車のキャビンのような箱に乗せられる。二人並べるくらいの座椅子が向い合わせに備えられたシンプルな造りだが、ふかふかの赤い絨毯が敷かれ、座面は革張りだ。フレームも滑らかに加工された木製で、艶のある黒塗りが高級感を与える。この世界でも最高級の客車だろう。
しかし、肝心の馬が見当たらない。本来は繋がれているであろう軛の部分が、手押し車みたいな長い棒に差し替えられている。構造的にエンジンを積んでもいなさそうだし、何が動力なのか。
「あっしの運転は帝都イチっすから。安心してな、かわい子ちゃん」
先ほどまでピューレさんと話していた御者らしき女性がウィンクをして、客車の扉を閉めた。壁が厚く作られているからか風の音が完全に遮断され、車内がしんと静まり返る。
奴隷と主人の二人きり。
怯え、流され、いつの間にかここにいるが、一旦腰を落ち着けると、自分の置かれた状況をあらためて認識してしまう。
僕は買われた。ピューレという、今日初めて会った女性に。
この女性は、一体なんの目的で僕を購入したのだろう。あのオークションで言われたように、ストレス解消用のサンドバッグにするつもりか。それとも、犬猫のようなペットにするつもりなのか。僕の運命は、この女性の匙加減一つで決まってしまう。
だが、対面に座るピューレさんは頬杖をついて外を眺めるばかりで、僕には目もくれない。1億という明らかな大金を注ぎ込んだにもかかわらず、まるで興味がないみたいだ。
もしかして、逃げるチャンスではないか。
奴隷同然の格好ではあるが、首輪以外の拘束はされていない。体格差があるとはいえ車室内にはピューレさん一人、扉一枚開けばすぐにでも飛び出せる。それに、オークションが終わってから、あまり時間は経っていない。花潜さんはまだ近くにいるはずだ。彼女の元に辿り着きさえすれば、匿ってもらえるのではないか。
ごくりと固い生唾を飲み込む。ゆっくり、ゆっくりと、最大限に警戒しながら車室の壁に腕を沿わせ、指先が扉の持ち手に触れた瞬間──
「ぐえっ」
車が突然動き出した。強烈な慣性に体が後ろに引っ張られ、椅子に磔にされる。
おかしい。エンジンの音も、馬が繋がれた気配もなかった。それがどうして唐突に動き始めたのか。
椅子に半分埋まった体を何とか起こして、車窓から前方を覗き見る。
「嘘だろ……」
家畜でも機械でもない。動力は人だった。
ピューレさんと話していた御者らしき女性。彼女が支木に手を掛けて、猛然と爆走している。
構図で言えば人力車だが、車窓を通り過ぎる景色は自動車と同じ速さだ。時速40キロは出てるんじゃないか。
化け物じみた身体能力である。逃げるチャンスだなんて自惚れていた。これが職業として成り立つ人々を相手に、逃げ切れるはずがない。
「く、くくっ」
椅子にへたり込んで動けないでいると、ピューレさんが喉を鳴らすように嗤った。僕の絶望した表情が面白かったのか。しかし彼女の視線は依然、外に向けられている。
「くふっ、あははははは!!」
ピューレさんはとうとう、お腹を抑えて笑い出した。大きく口を開けて、瞳には薄っすら涙を滲ませながら。魔女を彷彿とさせるミステリアスな風貌からはまったく想像できない笑い姿だ。
「見た!? オペラの顔! あの鉄仮面のデカゴリラ、半ベソかいてやがんの! もう最っ高! 1億でもお釣りがくるわ! はー、おっかしい。……あら、ごめんなさいね。アイツがあんまりにも惨めだから、もう我慢できなくって。ぷっ、くくく」
どうやらピューレさんとオペラさんの間には因縁があるらしい。初対面の僕相手に矢継ぎ早に話すくらいだから、よほど根深いようだ。
とはいえ、ピューレさんが見た目よりも親しみやすい女性ということは分かった。笑いが落ち着くのを待って、気を損ねないよう話しかける。
「あ、あの、ピューレさん」
「ん? なに?」
「どうして僕を購入したんですか?」
「ああ、説明してなかったわね。えーっと、アタシとオペラ
は過去に色々あってね。何とか復讐してやろうと思ってたんだけど、あの鉄仮面、弱味が全然なくてさ。中々手が出せないでいたの」
「は、はあ」
「そこでキミよ。オペラが唯一執着してる男の子。それがジパングからの転移者で、近々売りに出されるっていうじゃない。そこで思いついたのよ。大事な大事な男の子が目の前でアタシに買われたら、どんな顔するだろうなって」
ピューレさんは話しているうちにオペラさんの表情を思い出したのか、またしてもくつくつと笑い出した。
たしかにオペラさんは良くしてくれた。しかし、僕と彼女は出会ってひと月の関係だ。いずれ僕の存在は忘れるだろう。ピューレさんは一時の爽快感のために大金をはたいたことになり、小市民にすぎない僕には彼女の感性が理解できない。
けれど代わりに、はっきりしたことがある。
ピューレさんは僕に興味がない。僕はあくまで復讐の道具で、彼女の目はずっとオペラさんに向けられている。
では、役目を終えた道具はどうなるのだろうか。飼い殺されるくらいならまだいい。用無しとばかりに即日殺処分されるか、オペラさんにより大きなショックを与えるため、残酷な拷問にかけられるかもしれない。
次々と浮かぶ最悪な妄想に、またしても背筋が凍る。しかし車が動いているうちにピューレさんの意思を確認しておかなければ、飛び降りて自死する選択肢も選べない。
「到着しましたー」
もたもたしているうちに車は止まってしまった。最後の選択肢を失い、ピューレさんに続いて降車するしかなくなる。
「相変わらず早いわね。ありがとう」
「こちらこそっす。自分で走った方が速いって、利用してくれる人少ないっすから。ってことで、あっしはここらで失礼しますね。奴隷との初夜、存分にお楽しみくだせえ」
ピューレさんが料金を支払うと、御者は猛スピードで走り去っていった。一陣の夜風に横面を呷られ、緊張に震える瞳で正面を見上げる。
広大な芝生の庭の中に、大きな洋館が聳え立っている。印象としては、西部劇に出てくる地主の豪邸といったところか。夜の暗がりで朧げにしか見えないが、磨かれた白木の外装と十人くらい横に並べそうな立派な門構えが印象的な、人を招き入れるための家だ。
この世界の女性達を前にしたような威圧感に立ち尽くしていると、ピューレさんはさっさと歩き出していた。僕には枷も鎖もない。犬に嵌めるような首輪だけされている状態だ。それでも彼女が前を行くのは、お前のことなぞ容易に捕まえられると暗に示しているのか。どちらにせよ、ここまでついてきてしまった僕に逃げる手段はなく、大人しくピューレさんの後に続く。
長い芝生の庭を抜け、ようやく家の玄関に着いた。ピューレさんは当然に手提げの鞄から鍵を取り出し、自分の手で解錠する。
「入って」
こんなに豪華な家なのに、出迎える使用人はいないのだろうか。開いた玄関扉の先は、僕の疑問に答えるみたいに真っ暗だった。
どこも灯りが点いていない。二階の窓から差し込む月明かりだけが、濃紺色に屋内を照らしている。
「ん? 何か気になる? ……ああ、使用人がいないこと。アタシ、プライベートな空間に男を置きたくないのよね。うちで雇ってるのは通いの女の子だけだから、みんな定時で上がるのよ」
「は、はあ」
それじゃあ僕を家にあげるのはまずいんじゃあないか。
ピューレさんも同じ矛盾を覚えたようだが、小さく首を傾げるに留まり言及はしない。
「とりあえず、ご飯にしましょう。お腹空いてるでしょ?」
そういえば、起きてから何も食べていない。丁度お腹がぐうと鳴り、ピューレさんが薄く笑う。
「キッチンはこっち。暗いから気をつけて」
ピューレさんは勝手知ったる足取りで歩きながら、通り際に壁掛けの照明に火を灯していく。
火を灯すといっても、マッチで点けて回るのではない。ランタンのような照明器具の上部についたボタンを押し込むと、電球みたいに明るい炎が辺りを照らしていく。どうやらボタンを押す力で着火する仕組みのようだ。ピューレさんは親指の先だけで事もなげに熟しているが、火花を生じさせるとなれば相当な力が必要だろう。この世界の女性の筋力を前提とした照明器具である。
「さて、今日は何かな~」
些細な家の造りから、あらためて転移した世界の有り様を噛み締めていると、いつの間にか食堂に到着していた。
屋敷のものより二回り小さい、しかし個人の家には充分大きいダイニングテーブルに、併設された調理場がカウンター越しに見えるようになっている。ちょっとしたレストランのような構造だ。
ピューレさんは小走りで調理場に向かうと僕の下半身が丸々収まりそうな寸胴を軽々と持ち上げ、コンロの上に置いた。
「温め直すからちょっと待ってね」
ちちち、と聞き慣れた音のあとに、ぼっと火が点く。電気は通っていないが、ガスは普及しているらしい。
異世界な見た目に惑わされがちだが、ここの人々は僕らの世界から知識を得て発展してきた。見た目とはちぐはぐな文明に早く順応しないと、長くは生きられない。
「時間かかりそうだし、ここで今後の話を済ませちゃいましょうか。ほら、そこ座って」
ピューレさんは椅子を指差した。彼女の中には、奴隷を地べたに座らせる感覚はないらしい。恐る恐る腰掛けると、ピューレさんはテーブルを挟んだ対面に座る。
「まずは自己紹介かしら。アタシはピューレ。女神の実を加工してる会社の社長。自慢じゃないけど、帝国ではお金持ちな方かな」
簡単に1億を払える人だ。大富豪であることに間違いない。しかし、女神の実というのはなんだろう。実とつくくらいなので果物の一種だと思うが、食べ物の加工だけでそんなに儲かるのか。
「で、キミは?」
「はい?」
「キミの自己紹介」
「あっ、ごめんなさい。ええっと、僕の名前は蚕蛾蓬です。大体ひと月前に、日本という国から転移してきました」
「日本ってジパングのことでしょ? 魚とか卵を生で食べるっていう」
ピューレさんは嫌そうに舌を出し、ふりふりと首を振る。屋敷で振る舞われた料理は東ヨーロッパ方面の雰囲気があったので感じてはいたが、日本食の文化は浸透していないようだ。
「それにしても、転移って大変よね。急に知らない世界に飛ばされるわけでしょ? 一人で心細かったんじゃない?」
「僕はクラスのみんなと一緒でしたから。三十人くらいで一斉に、だったので、びっくりはしましたけど、なんとかは」
「クラス?」
「ええっと、学校って分かりますか? 同じ歳の子供を集めて、勉強する建物があるんです。その中のグループ分けの単位を、クラスって呼んでます」
「あー、ガッコウ。そんな文化もあったわね……ちょっと待って。そしたらキミ、いくつなの?」
「十五歳です」
「十五!?」
僕は童顔でちびだから、よく年下に間違われる。けれどピューレさんは別の意味で驚いたらしく、若い若いと近所のおばさんじみた仕草で手団扇を仰ぎながら慄いていた。ピューレさんは二十代後半か三十代前半くらいに見えるが、本当はもっと年上なのかもしれない。
「それじゃあオペラは、こんな年下の子相手に発情してたのね。イカれてるとは思ってたけど、ここまで常識がないとは思わなかったわ」
「……あの、もしよければなんですけど、オペラさんとの間に何があったのか、聞いてもいいですか?」
「そういえば、まだ話してなかったわね。えーっと、キミはこの国の歴史は知っているかしら」
この世界には、大きく二つの国が存在している。
広大な領土を誇り資源も豊かなゲベック帝国と、砂漠地帯にあるデセールト共和国だ。二国はもともと一つであり、国という概念自体がなかったが、数百年前に分たれたらしい。
この国の成り立ちで面白いところは、帝国から共和国が生まれたのではなく、共和国から帝国が生まれた点だ。
権力者に民衆が反発し、民主主義の共和国が生まれるというのはよくある話だが、共和国から帝王を名乗る者が現れ、それが元の国より強大になるほどのカリスマを携えているのは聞いたことがない。しかも、建国に最も貢献したのは僕と同じ転移者というのだから、惹かれない方が難しい。
「それじゃあ帝国と共和国が長い間戦争してたのも知ってるわね? その末期、アタシとオペラは同じ連隊に所属していたの」
そうなると、ピューレさんも元は軍人だったということか。彼女は当然マッチョだが、オペラさんと比べると一回りほど小さく、あのオークション会場の客の中でも細っそりして見えた。戦地に赴くような殺伐とした印象は受けない。もっとも、ピューレさんの首元にすら届かない背丈の僕に、彼女の体格を批評する権利はないのだけれど。
「アタシは補給の担当だった。地味に思えるかもだけど、工夫甲斐のある仕事でね。デセールトは砂漠が多いでしょ? 女神の実もすぐに腐っちゃうから、保存性を高めるために色々試したものよ」
女神の実の正体ははっきりしないが、兵糧に使われるほど栄養価の高いものではあるらしい。ピューレさんの語りにも熱が入る。
「そういうアタシの工夫が連隊長の目に留まってね。アタシの技術は本部にも伝わった。一兵士の意見が軍の基準を変えるなんて凄いことなのよ? ……でもアイツ、オペラだけはアタシを認めなかった」
一転して、ピューレさんの表情に陰が落ちた。テーブルの上に置いた手が握り拳に変わり、噛み締めた奥歯で口の端が引き攣る。
「保存期間を延ばして何の意味がある、って。オペラは単騎でデセールトの拠点を次々落として、女神樹を確保していった。そうなれば補給隊なんて惨めなものよ。英雄オペラ様の後ろについてくだけの金魚のフン。だからアタシは終戦後、すぐに会社を立ち上げた。オペラがバカにしたアタシの技術が、どれだけ優れているかを証明するために」
「は、はあ」
「なに? なにか言いたいことあるの?」
「ええっと、オペラさんが虐めとかをするイメージができなくて。ごめんなさい」
「……別に、虐められてたわけじゃないわよ。ただアイツの、アタシなんて眼中にないって態度がムカつくというか──」
大金を叩いて復讐を敢行したのだから、よほど殺伐とした関係なのだろうと思っていた。しかし、ピューレさんの口ごもる様子から察するに、オペラさんが頑張りを褒めてくれなかったから、なんていう可愛らしい動機のようだ。僕より大きく年上であろう女性が、友達の気を引きたいがためにちょっかいをかける姿は、何だかとても微笑ましく思える。
「──とにかく! アタシはオペラが謝まってくるまでキミを手放すつもりはないから! ご飯もあったまったし、食べたらすぐ寝るよ!」
ピューレさんは大袈裟に立ち上がり、ぷりぷりと怒りながら調理場に向かう。オークション会場でのミステリアスな雰囲気はなく、親しみやすいお姉さんの背中があるだけだ。
もしかしたら、そんなに酷い目には遭わないかもしれない。
奴隷の立場であることも忘れ、僕は薄笑いを浮かべながら、怒り顔で味見するピューレさんを眺めていた。




