ネガティブモード
空原理素はコミュニケーションが苦手な女の子だ。
そういう子はネットを憎むのかもしれない。
ネットは情報収集と情報発信の場である。
多方面といつでも交流できるので、場合によってはリアル以上に重要な人間関係のプラットフォームだ。
しかし、理素がSNSで何かを発信したのを見たことはない。
なんにもやっていないわけではない。エックスだのインスタ、フェイスブックだのを意外とよく見ている。でも自分から何かを発信したことはない。見る専だ。
さすがにラインは使っているが、俺と家族以外とはつながっていない。
徹底的に他者との交流を拒んでいる。
実は理素の情報はネットの中にありふれている。
俺と彼女と彼女の姉は、五歳と六歳のときに誘拐された。
犯人グループは自分たちの行動を動画で実況しながら、犯罪を進行させた。
犯人たちのアカウントはバンされたが、一度拡散され、非常に注目された情報を完全に消去することは不可能。
コピーされた動画はいまだに出回っている。
恐怖に泣き叫ぶ幼い理素の顔を見ることはたやすい。
理素の姉と俺の泣き顔も同様だ。
たいていの日本人が空原愛素と理素姉妹の名前を知っている。
白根井鍵よりも圧倒的に有名。
あたりまえのことだ。同じ犯罪被害者でも、可愛い姉妹の方が平凡な男子より注目される。
いまでもたまに「愛素ちゃんと理素ちゃんって生きてんの」みたいな無頓着なナイフがタイムラインを流れることがある。
そういうのを理素はまったく光のない瞳で眺めている。
ネットってどうしようもない。
罪のない少女たちを、保護するべき被害者を、安全な場所から刺す無責任で無自覚な加害者を殺してやりたい。
俺ですらそんなふうに思うことがある。
屋上から教室に戻って、午後の授業を受ける。
ネットなんていらないと思うんです。世界をぐちゃぐちゃにするだけです。
理素のことばが繰り返し脳裏をめぐる。
教師の話に集中できない。
フェイクニュースがはびこってる。ネット詐欺が横行してる。なによりも理素を傷つける輩が多すぎるのが我慢ならない……。
放課後、俺と理素は旧校舎二階にある歴史研究会の部屋へ行く。
歴史好きな愛素さんが会長をしている。
俺も理素も帰宅部になりたかったのだが、高校入学直後に愛素さんから必死の形相で土下座され、入らざるを得なかった。
会員はその三人だけだ。
旧校舎は数年前に改修・耐震工事されていて、音楽室や美術室などの特別教室があり、運動部や文化部の部室も入っている。
弱小同好会である歴史研究会も部屋をあてがわれている。
会室の居心地は悪くない。
古いソファーがふたつあり、愛素さんが持ち込んだ新しい電気ケトルや彼女が用意してくれる各種の飲み物やお菓子がある。
古書店員も真っ青になるような黴臭い歴史の本が詰まった本棚もある。かつて歴史部だった時代にたくわえられた蔵書らしい。
会室にはまだ愛素さんはいなかった。
俺は熱いコーヒーを淹れた。
理素はココアパウダーをカップに入れた。
飲み物を用意し、ふたり並んでソファーに腰掛けてくつろぐ。
ソファーの前には折りたたみ式のテーブルがあって、コーヒーカップを置くことができる。
理素と一緒にのんびりできる。歴史研究会に入ってよかったと思えるひととき。
「マッコウクジラの立ち寝姿が美しいです」
理素はスマホで鯨の動画を見ている。
「鯨の脳は半分眠って、半分起きるという芸当ができるそうです。半球睡眠と呼ばれています」
「渡り鳥にもできるらしいよ」
「私は眠れるときはぐっすり眠りたいです。夢のない熟睡ほどのしあわせはありません」
彼女はよく悪夢を見るそうだ。
俺も鯨動画を見始めたとき、扉がバンッと音を立てて勢いよく開けられた。
「やあやあ会員諸君、こんにちは。今日も元気に歴史研究をしようじゃないか」
愛素さんが入ってきて言う。
俺と理素はいま鯨の研究をしている。
実を言うと、俺は歴史にはあまり興味がない。たぶん理素も。
「こんにちは、姉さん」
「今朝ぶりだな、妹よ」
愛素さんは理素に向かってにっこりと笑う。妹とちがって表情が豊かだ。
「キーちゃん、鍵はあるかね」
愛素さんが右手の人さし指を俺に向かって突き立てる。
「鍵はありませんが、俺ならいます」
「よしよし。キーちゃんがいればそれでいいや」
このやりとりは俺と愛素さんのあいさつのようなものだ。
歴史研究会の会長は肩にかかった長い金髪をさっと払って、颯爽と歩き、対面のソファーに座った。
愛素さんは派手なルックスの人だ。俺たちの高校の校則はゆるく、髪をどんな色に染めようとお咎めはない。
理素と同じく背は高い。百七十五センチ以上ある。妹より少し低い程度。
胸は理素より大きい。巨乳と言ってもまちがいではない。
顔は整っていて、ちゃんと瞳に光があるので、まごうことなき美人。
空原愛素さんはうちの高校の三年生のアイドルだ(そして二年生のアイドルは白根井美舟である)。
「ちょっと遅かったですね」
愛素さんはたいてい俺と理素より先に会室にいる。
彼女は日本茶を愛している。俺は緑茶を淹れて、茶碗を愛素さんの前に置いた。
「バスケットボール部がアタシに助っ人を頼んできてね。ことわるのに難儀した」
愛素さんは美人で成績優秀で運動も得意だ。
完璧超人みたいだが、実は大きな欠陥がある。メンタルよわよわなのだ。
「試合に出るなんて嫌だ……」
彼女の表情がみるみるうちに陰っていく。
「試合なんて嫌だあプレッシャーすごいもんおしっこちびっちゃう決めるべきときにゴールに決められなかったらどうするんだよ」
涙ぐむ愛素さん。
「あああああ怖い怖い怖い試合なんて絶対ヤダ」
ものすごい早口で否定的なことを言い連ねる。
俺はこれを秘かに「愛素さんのネガティブモード」と呼んでいる。ときどきこうなる。
彼女の豹変を初めて見る人は必ずぎょっとするが、俺と理素は慣れたものだ。
「姉さん、ことわれたのならいいじゃないですか」
「愛素さん、まあお茶でも飲んでください」
俺たちが落ち着かせようとしても、一度発動したネガティブモードは簡単にはおさまらない。
「きみたちはスポーツの試合は好きかい?」
俺は首を横に振る。試合どころかスポーツは好きじゃない。俺は読書が好きなインドア系。
「競うのは好きじゃないです」
理素は運動があまり得意ではない。
「そうだろうそうだろう何を好き好んで球遊びなんかで争わなくてはならないんだあっ!」
ついに絶叫する愛素さん。
「なんでアタシなんか呼ぶんだよキャプテンが怪我したのは可哀想だとは思うよだからって歴史研究会の会長に声かけんなっ!」
はーっ、はーっ、はーっ、と彼女は荒い息をした。
「愛素さん、どうぞ」
俺は彼女に茶碗を差し出した。
会長は受け取り、緑茶をすすった。
「熱いな。石田三成の三献茶が飲みたかった。最初はぬるいお茶を出してくれ、キーちゃん」
「いつもは熱いお茶が好きって言ってるじゃないですか」
「そうだったね。すまない。ちょっと取り乱してしまったようだ」
ちょっとどころではなく異常に乱れていたが、そのことは言わないでおく。
突如豹変する愛素さんと並はずれて人見知りな理素。
俺はかつて、その姉妹の誘拐事件に巻き込まれた。




