暗い瞳の幼馴染
高校の最寄り駅で下車して、美舟と話しながら歩く。
義妹はきらきらと目を輝かせて、駅前に新しくできたパン屋さんを指さした。
「あそこのクリームパン、異様に美味しいの。すごく上品な生クリームを使ってて」
「異様に?」
「でもかなり高いのよ~。なかなか買えない。相当な勇気が必要なの」
「俺買って帰ろうかな。家族四人分」
「キーくん、無理しなくていいよ」
「無理はしない。財布と相談するね」
いくら高価だろうと、パンの値段なんてたかが知れている。それで義妹の歓心を買えるなら安いものだ。
俺はクリームパンを購入して帰ろうと決心した。
「美舟さん、パンが好きなの?」
「甘い物全般が好きなの。一番好きなのはぜんざいかな」
美舟が笑う。
彼女の笑顔は天使かと思うほど可愛くて、並んで歩くのが怖くなるレベルだ。
ありふれたデザインの濃紺ブレザーの制服も、彼女が着るとおしゃれに見える。
美舟の隣にいていいのか、俺はまた不安になる。
学校に近づくと、道に同じ高校の生徒が増えてきて、思ったとおり多くの視線を感じるようになった。
校内トップクラスぴかぴかの美少女は黙っていても注目を集めるし、その横に平凡な容姿でとりたてて取り柄があるわけでもない俺がいたら、そうなるのはあたりまえだ。
あまりにも釣り合っていない。
やっかみを受けてしまう。興味本位なおしゃべりが聞こえてくる。
「なんであんなやつが明日葉さんの隣にいるんだ」
「あの人確か、なんとかキーとかっていう子だよね。どうして美舟さんと一緒にいるの」
「まさか付き合ってるわけじゃないよね」
ただ単に義兄妹になっただけですよ。俺は心の中でつぶやく。
だが、義兄と義妹という関係を羨ましがる男もいるかもしれない。
美舟と同じ屋根の下で暮らしていると知ったら、怒り狂うやつだっているだろう。
やっぱり嫌だな。義妹と離れて歩きたい。
そう思ったが、俺たちはさらに注目されることになった。美舟が声をあげたのだ。
「わたしはもう明日葉じゃないよ。それは旧姓。いまは白根井なの」
さして大きな声ではなかったが、トーンが高くてよく通る。
周囲にいる生徒たちは、いっせいに美舟を見た。
「わたしの義兄をあんなやつだなんて言わないでほしいなあ」
ざわざわとした騒ぎはますます広がっていった。
「あに?」
「あ、義理のお兄さんか」
「明日葉さんのおかあさん、再婚したの?」
「あいつが美舟さんの義兄なのかよ」
「えーっ、白根井、明日葉さんと一緒に暮らしてんの?」
「白根井美舟なのか……」
俺はかつてとある事件で衆目を集めたことがある。とてつもなく嫌な事件だった。
もう注目は浴びたくないのだが、しかたない。どうしても通らなければならない道だと思ってあきらめよう。
あの事件よりは遥かにマシだ。美舟と義兄妹になったことは一時的に噂になるだろうが、どうせみんなすぐに慣れる。
校舎三階の廊下で義妹と別れ、俺は自分の教室に入った。
扉の上に「2年A組」というプレートが設置されている。美舟はB組だ。
俺は窓際の前から五番目の席に座った。校庭を見下ろせる好位置。
俺の後ろにはとても背の高い女子生徒が腰を下ろしていて、俺の顔をじっと見つめている。
彼女の身長は百八十センチ。俺より十センチ近く高い。クラスの女子で一番の高身長。
今年の身体測定後、「また背が伸びてしまいました」と暗い瞳をして嘆いていた。
目が暗いのはそのときだけでなく、常に暗い。瞳に光というものがない女、空原理素。
理素は幼馴染だ。
幼稚園時代からの長い付き合いがある。
顔立ちは悪くない。ていうかかなり整っている。
左目の下に碁盤の星のようなくっきりしたほくろがある。いわゆる泣きぼくろというやつだ。黒い宝石のようにも見える。
腰まで伸ばしているストレートの黒髪は、義妹に負けず劣らず艶があって美しい。
俺の幼馴染はまちがいなく美人なのだが、残念ながら表情はとぼしい。圧倒的に無表情。まるで能面だ。
彼女の顔には、ほとんど感情表現というものがない。
綺麗な女の子なのに、暗い瞳のせいで可愛げがまったくない。
もし理素の目が明るく、高校生らしい豊かな表情があったら、美舟と肩を並べるほどモテていただろう。
まことに残念ながら、彼女はそうではない。
「鍵をください」
理素が言って、おずおずと左手の小指を突き出す。
「鍵はないけど、俺ならあげるよ」
俺は答えて小指を出し、指と指を絡ませる。
そうすると暗い瞳の理素は、口角を少しだけ上げて笑う。
微かな、ほんのわずかな笑みだ。
微笑にもほど遠い微々笑。
たぶん俺にしかわからない笑み。
その微々笑のために、俺はこの変わったあいさつに応じている。
教室の中で女の子と小指を絡ませるなんて、正直言って恥ずかしい。でもかつて一度応じなかったら、理素は明らかに落ち込んだ。だからやらないわけにはいかないのだ。
このやりとりは、あの事件のあった日からずっとつづいている。
俺と理素は仲のよい幼馴染であり、同じ凶悪事件の被害者でもある。
「『サービス終了のお知らせ』のこと、知ってる?」
「知ってます」
理素は気心が知れた俺にも敬語を使う。誰にでも敬語で話す子なのだ。
彼女は森の小動物のように臆病で、対人関係が苦手だ。
人見知りすぎて、校内でまともにしゃべれる相手はふたりしかいない。
そのうちのひとりは俺で、もうひとりは彼女の姉の愛素さんだ。
「サービス終了って、なんだと思う? あらゆるスマホとパソコンで表示されたって、わけわからん」
「アメリカの超巨大情報企業の仕業です。彼らがインターネットに介入しました。陰謀の始まりですよ」
理素は語る。その表情は微動だにしない。
「その情報の出どころは?」
「SVR」
SVRはロシアの情報機関だ。
「MI6、中国サイバー軍、モサドにも裏を取りました」
「嘘だろ……?」
「もちろんジョークです」
彼女は暗い瞳のまま淡々と言う。
普通の女の子ならてへぺろと舌を出すところ。
実は理素はかなり面白い子なのだが、慣れないとその話が本気なのか冗談なのか区別できない。
「冗談抜きでどう思う?」
「なんにもわかるわけないじゃないですか。私は一介のミジンコ女子ですよ」
「ミジンコというには背が高すぎるけどな」
理素は黙り込み、うつむいた。
繊細な心をぐさりと傷つけてしまったようだ。
女子にしては非常に背が高いことを、彼女は常々気にしている。
俺はすらっとした理素の姿をかっこいいと思っているが、本人は小柄で可愛らしい女の子に憧れているのだ。
「ごめん」
「許します。鍵くんを許さないと、私の友達はひとりもいなくなってしまいます」
理素は俺の名前を漢字で聞こえるように呼ぶ。
軽さがなく、どことなく厳かさを感じさせる響きがある。そういう人は珍しい。
友達は本当に俺しかいない。その原因はおそらく理素自身にある。
問題は彼女の閉鎖性だ。自分からは絶対に他人に話しかけようとしない。
交流を拒絶する孤高の雰囲気。見えない壁をつくり、クラスメイトを遠ざけている。
理素は夜明けの雪景色のようにけがれなく美しい。話にも独特の面白さがある。
心を開きさえすれば、友達はおろか彼氏をつくることだってできると思うんだけど。
俺の見立てにまちがいはないはずだ。
その証拠に、俺と話す理素を気にして、ちらちらと黒目を向けてくる男子がいる。
彼は俺を邪魔者のように見て、理素には切ない視線を投げかけている。
話しかけてみたらいいのに。
できれば親しく付き合ってあげてほしい。
理素にはあまりにも友達が少ない。俺以外の友人が必要だ。
そう思ったとき、まるで俺の願いを読み取ったみたいに、彼が近づいてきた。
「おはよう」その男子が言う。
「えっ?」俺の幼馴染はびくっと全身を震わせる。
彼は理素の横に立って、彼女の目を見つめた。
すばらしく勇気ある行為だ。
こんな機会はめったにない。
理素は極端な人見知りで、俺以外の同級生とは話さない。
だが、そのままでいいはずはない。
彼女のよりよい人生のために、殻を破るべきだ。
理素しっかりしろ。彼と話してみるんだ。クラスメイトと普通に会話できるようになれ。
俺は胸の内で叫び、理素と男子を見守った。
教室の壁に掛けられた時計の秒針が、正確に時を刻む。
期待と不安が、彼と理素の間で交錯する。
俺はごくりとつばを飲む。
数秒後、理素は俺の陰に隠れ、「おはようございます……」と蚊の鳴くような声で答えた。
「空原さんと白根井くん、仲がいいんだね」
男子がなんとか会話をつづけようとして言う。
「あ、はい……」
理素のことばは短くて弱々しい。
俺は迷う。間に入ってしゃべった方がいいのだろうか。だけど、彼は明らかに理素と話したがっている。俺はぐっと堪えた。
「邪魔してしまったかな」
彼は小首を傾げて、理素の返事を待っている。
涙ぐましい努力だ。
すごくいい人みたいじゃないか。理素、返事してあげたらどうなんだ。
しかし、彼女は口を開かず、俺の顔を見たり、机に視線を落としたりした。しゃべらない。
ふう、と男子はため息をつく。
がっかりと頭を落とし、彼は席に戻ってしまった。
もったいなかったが、しょうがない。これが理素という女の子なのだ。
俺はまた彼女に話しかける。
「一時間目は物理だっけ?」
「そうです」
「むずかしいよね」
「確かにむずかしいけど、興味深い科目です」
「俺、宇宙物理学に関心があるんだけど、よくわかんないんだよね」
「教えてあげますよ」
理素は俺が相手だと饒舌だ。
微かに、ほんのわずかに笑っている。その表情変化はたぶん俺にしかわからない。




