第七話 迎えまでの時間
10月の最後の日曜に、直人が荷物を運び出した。
段ボールは12箱と、スーツを掛けたままのハンガーラック。
和枝さんは朝から来て、台所の棚の上のほうを片づけていた。踏み台に乗って、下ろしたものを新聞紙で包む。
「お義母さん、それは私がやります」
「残りは直人にさせましょう。紗季さんは座っていて」
「お茶、いれますね」
「上の段だけ済ませてから。あと二つです」
新聞紙の音が続いて、それから止まった。
「この土鍋、うちのだったかしら」
「結婚したときに、お義母さんがくださったものです。……すみません。お義母さんにまで、こんなことをさせて」
「自分でしたことですから、自分で片をつけさせます。紗季さんが私に遠慮することは、何一つありません」
和枝さんは土鍋を箱から出して、シンクの下の元の場所に戻した。扉を閉めるとき、取っ手を一度、指で確かめている。
昼前に、直人が玄関で靴を履いて、下駄箱の上に鍵を3本置いた。玄関の分と、部屋の分と、集合ポストの分。
キーホルダーは外されていた。美緒の写真が入っていた、透明の小さいやつだ。
「ポストの鍵、番号も変えておいてください」
管理会社に連絡する、と返ってきた。
扉が閉まった。オートロックが下で2度鳴って、それきり。
和枝さんが包み終えた皿を箱に入れて、顔を上げた。私のほうを見る。
私の顔ではなく、少し上を見ていた。2秒か、3秒。
お義母さんも見えているんですか、とは聞かなかった。和枝さんは、次の棚に手を伸ばした。
「迎えに行けない日は、私に連絡してね。私も、行けない日は先に言います」
「助かります」
「それと、玄関の電球。ゆうべから切れてるでしょう」
「替えを、まだ買ってなくて」
水曜に、森田さんから電話があった。
「お忙しいところすみません。一つだけ、お伝えしておきます」
「はい」
「佐伯さんは辞任されています。その後の勤め先までは確認していません」
言い直しではなかった。その呼び方で、最初から話していた。
「会社が、管理と職務の範囲について説明を求めていました。届が出たのは、そのあとです」
*
証人の欄は、和枝さんが台所のテーブルで書いた。生年月日のところで一度、指を折って数えている。
佳奈のぶんは郵送で送り返してきた。封筒に、ゼリーが二つ入っていた。
「住所、あれでよかった? 引っ越してないけど、一応」
「合ってた。ゼリー、美緒が二つとも食べた」
「二つとも?」
「一つは私のだったはずなんだけどね」
「じゃあ次は3つ送る」
「二つでいい」
11月の水曜日、桐浜市役所の1階の窓口に行った。直人は先に来ていて、番号札を持って待っていた。
待合の椅子は5列。その2列目の端だ。
頭の上に、90と出ていた。
3日前は87。公正証書を作った日から、また上がっている。
認めて、払うと決めて、そのあとで上がった3点だ。罪悪感、と私は読む。
番号が呼ばれた。職員が用紙を上から順に指でたどって、本籍地の表記を一箇所だけ確認した。
「こちらは、このままで大丈夫です。お預かりします」
「戸籍のほうは、いつ頃反映されますか」
「本籍地が市内ですので、1週間ほど見ていただければ」
「受理証明書をお願いします」
「ご本人確認ができるものを一点。それと、350円になります」
「婚姻のときの氏を、そのまま使う届も一緒に出します」
「はい、こちらの用紙です。3か月以内であればいつでも出せますが、今日でよろしいですか」
「今日で」
証明書が出てくるまでの15分、直人は2列目の端から動かなかった。受け取った紙は、書類入れの厚紙のあいだにはさむ。
出口の自動ドアの前で、元夫が立ち止まった。
「10年、あったのにな。……いつから、決めてた」
「美緒の誕生日の夜から」
頭の上のことは言わない。この先も、言わない。
直人の口が、一度開いて閉じた。
「……あの夜、俺はまだ、何も――」
そこで、止まった。
自動ドアが開いて、誰も通らないまま閉まる。直人が半歩下がると、もう一度開いて、閉まった。
「42番の番号札をお持ちの方、2番窓口へどうぞ」
「すまなかった」
私は先に外へ出て、駐輪場のほうへ歩いた。前かごに鞄を入れて、スタンドを蹴る。
*
12月に一度だけ、千尋さんから電話があった。
「近況を、一度だけお伝えしておこうと思って。これで最後にします」
「はい」
「10月の相原さんの投稿を、社内でも見た人がいて。それで、いろいろ話が出ました」
「はい」
「『奥さんのこと、好きなんだと思ってた』と言った人がいました。私が聞いた範囲です」
「専務の件で、社内で専務の側に立つ人は、私の知る限りいません」
「市外の会社の面接に落ちたことは、ご本人から聞きました。書類のことで、一度お電話があったので」
「市外に出るおつもりだとか、相原さんがそれに反対して揉めたとか。そちらは人づてです」
「今、一枚お送りしました。相原さんの公開の投稿です」
段ボールが3つ積まれた、空の台所。流しの上には何もない。
写真には、文字が一行ついていた。大人って、最後は責任取らないんだ、と。
「相原さんは、先月で部屋を出たと聞いています。家賃の残りがどうなったかは、知りません」
「聞き取りのことで、私が知っているのは一言だけです」
「『専務が全部やってくれると思っていました』と言ったそうです」
「これは会社の話ではなく、私の意見ですが――当然の結果だと思います」
私は何も言わなかった。電話の向こうで、千尋さんが2秒ほど待っていた。
「以上です」
電話を切って、10月の写真を呼び出した。アルバムの中で隣に並べて、3秒見る。
2枚いっしょに選んで、削除した。
玄関の電球は、切れたままになっている。引き出しから先週買った電球を出して、踏み台に乗って付け替えた。
*
美緒を園に送るのは、8時40分。
門のところで手を振って、角を曲がるまで振り返らないのが、最近のこの子のやり方だ。
そこから自転車で10分のところに、ジムがある。2か月分をまとめて払った。
更衣室のベンチは木で、座面を留めているねじの頭が丸い。着替えるたびに、太ももの裏でその出っぱりを探す。
走るのは25分。あとは下半身の器具を三種類。
金曜の午前だけ、ヨガのクラスに入れてもらった。前から2列目の右端が空いている。
肩甲骨のあいだが、10年ぶんくらい固まっていた。
帰りに買い物をして、3時に迎えに行く。週に2日は、和枝さんが行ってくれる。
美緒は満3歳児クラスの発表会で、りんごの役をやることになった。赤い布を胴に巻く。
自宅の名義は、年内に変わる予定だ。司法書士に頼んである。
養育費は毎月10日に入る。今のところ、一度も遅れていない。
今日は金曜で、ヨガのあとにシャワーを浴びた。
髪を乾かして、更衣室を出る。壁の時計は2時10分。
迎えまでに、50分ある。
入口の横の自動販売機の前に立った。
一番上の段の右から3つ目。ボタンを押すと、下で2度、音がした。
かがんで、取り出し口の蓋を押し上げる。
指先に、冷たい缶が当たった。




