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夫の頭の上の「忠誠度」が、十年ぶりに100を割った  作者: 空の異変


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第六話 先に書かれた名前

3日後の午前に、代理人から電話がきた。


「相手方から連絡がありました。離婚には応じる、条件はご自分から出す、とのことです」


「分与の対象のうち、ご自分の取り分は求めない。ご自宅と、一覧に挙げた預金は佐伯さんに。そのうえで慰謝料を払う、と」


「……すみません。もう一度、お願いします」


同じ言葉が、同じ順番で繰り返された。


「向こうの弁護士は」


「まだ立てていないようです。ご本人が電話をかけてこられました」


「それって、あとで無効だとか言い出せるものですか」


「内容を確認したうえで、書面にして、公正証書にしておけば、そういう主張は通りにくくなります」


「じゃあ、そこまでやってください」


「一度、ご本人と直接お会いになりますか。書面だけで進めることもできます」


「会います。自宅に戻るので、そのついでに」


「わかりました。当日の確認事項を、先に箇条書きでお送りします」


電話を切ってから、佳奈に話した。佳奈は出勤前で、ヘアゴムを口にくわえたまま聞いていた。


ゴムを手に持ち替えて、髪をひとつに結ぶ。


「会うなら日中がいい。帰りの新幹線、決めてから行って」


「今日は戻らない。美緒と、そのまま家に帰る」


「そっか」


「18日、世話になった」


「数えてたんだ」


「洗濯した回数も数えてる」


佳奈は玄関で靴べらを使って、それから振り返った。


「じゃあ、洗濯かごは置いていって。そのうちまた使うでしょ」


「使わないと思う」


「置いていって」


借りた緑のかごは、あの部屋の壁に立てかけたままにしてきた。


園には前の日に電話をして、明後日から戻りますと伝える。持ち物の書き換えは、来たときにやりましょう、と言われた。


    *


家に着いたのは、日が落ちてからだ。


玄関の鍵を回して、扉を開けたところで手が止まった。煙草のにおいがした。


直人は5年前にやめている。美緒ができたときにやめて、それきりだった。


居間の電気はついていない。スイッチを入れると、ローテーブルのマグカップに、吸い殻が7本立っていた。


「窓、開けるね」


返事を待たずに、ベランダの戸を半分開けた。


和枝さんが次の間から出てきて、美緒に手を伸ばした。


「おかえりなさい。美緒、靴を履こうか。おばあちゃんちでプリン食べよう」


「お義母さん、すみません。2時間くらいで」


「何時でもいいですよ。泊めてもかまわないから、そのときは電話して」


美緒は玄関を振り返って、それから直人を見た。走っていかなかった。


低い声でパパ、と言って、それきりだ。


和枝さんは息子のほうを見なかった。美緒のかかとを片手で押さえて、靴の後ろを直している。


扉が閉まって、廊下のセンサーライトが消える音がした。私は直人を見た。


87。あの誕生日の夜と、同じ数字だ。


    *


直人はひげをそっていなかった。髪の分け目がなくなって、シャツの第二ボタンが外れている。


ローテーブルに、書類が3つ重ねてあった。いちばん上が離婚届、その下に離婚協議書、いちばん下に資産の一覧。


離婚協議書の夫の欄には、もう署名と押印がある。日付は、昨日だ。


「座って」


自分の家で、私はそう言った。直人は座らずに、マグカップの横に立っている。


台所で麦茶を二つ注いで、ローテーブルに置いた。私はソファの端に腰を下ろす。


「どうして急に」


直人は、吸い殻の立ったマグカップを見下ろしていた。


「署名はしない、って言ってたよね」


「あの晩、相原さんと関係を持った」


私は自分の指を見た。爪の横のささくれが、朝より広がっている。


「いつの晩」


粥を作った晩だ、と言った。


「写真の日ね」


直人の肩が上がって、下りた。知っていたのか、と聞かれて、写真を見た、とだけ答える。


誰から、とは聞かれなかった。聞かれても言うつもりはない。


長い説明が始まりそうになるのが、息の吸い方でわかる。魔が差した、と言いかけて、それから相原さんのほうから、と言いかけた。


「経緯はいい」


直人の口が閉じた。


「相原さんの家賃、あと何か月ぶん残ってる」


残りは8か月だと言った。全部、自分の口座から出している、とも。


「それは、私が受け取る財産とは別の、あなたのお金ということでいいのね」


そうだ、と返事があった。


「わかった。なら、そこには触らない」


直人は手のひらで目のあたりをこすって、その手を下ろした。目の縁が赤い。


「やり直す目は、もうないか」


私は答えなかった。直人の頭の上を見ていた。


87。


直人の頭が下がる。分け目のなくなった髪のてっぺんが、こちらを向いた。


「全部、俺のせいだ。新しいものに目が行った。人を見る目もなかった。――すまない」


87は、動かなかった。


頭は下がったまま、上がってこない。冷蔵庫のコンプレッサーが動きはじめた。


麦茶は二つとも、注いだときの高さのままだ。


外れた第二ボタンの奥に、肌着の襟がのぞいていた。このシャツにアイロンをかけたのは、たぶん私が最後だ。


「分与の取り分は、全部いらない。慰謝料も払う」


床に向かってそう言い終えると、直人は署名のあるページを指先で私のほうへ押した。紙がローテーブルの木目を擦る音がする。


「わかった。受け取る」


私はそのページを、自分のほうへ向け直した。


「代理人の先生は、この中身を知ってるのね」


知っている、と床のほうから声がした。


「判は、これで全部?」


下がったままの頭が、小さく縦に動いた。


名前、判、日付。読み終えてから、ペンのキャップを外す。


妻の欄に、名前を書いた。判は、書類入れに入れて持ち歩いていたものを使う。


「機会をつくったのは、あなた」


直人の背中が一度だけ上下して、頭はそれでも上がらなかった。


    *


一口も減っていないコップを二つ下げて、出しっぱなしのポットに青いふたをした。代理人の箇条書きを携帯に開いて、条文と一項目ずつ突き合わせる。


自宅は私に。名義を移すのは、離婚が成立してから。


預金は、一覧に挙げた口座のぶん。


「お金の部分は、公正証書にする。日にちは、代理人から連絡が行くから」


慰謝料は500万。相場より上だと、代理人は言った。


親権は私ひとり。養育費と面会交流は、財産とは別の見出しに分けてある。


「養育費は、財産をこっちに寄せたことの見返りじゃない。だから減らさない」


減らさない、と直人が言った。頭は、まだ半分しか上がっていない。


「支払日は、毎月10日でいい?」


うなずきが返ってきた。


「面会も、払ったから会える、にはしない。美緒の予定を先に見る」


離婚届の妻の欄を埋めて、証人の欄は二つとも空けておいた。和枝さんと佳奈に、あとで頼む。


「届を出す日までに、鍵を返してもらえる?」


荷物は今月中に出す、と直人が言った。


「日にちを決めて、代理人に連絡して。私が家にいる日を合わせる」


協議書の写しを封筒に入れて、資産の一覧をその上に重ねる。封をする前に、もう一度、口座の数を数えた。


4つあった。

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