第五話 一年分の家賃
直人が水杜に来たのは、家を出て2日後の夕方だった。
私はベビーカーを押して、マンションのエントランスに入ろうとしていた。ハンドルにはスーパーの袋が二つ、中では美緒が昼寝の続きをしている。
名前を呼ばれて振り返ると、植え込みの横に直人が立っている。ジャケットの肩に、雨でもないのに湿った色がついていた。
頭の上に、60と出ていた。
「どうやって、ここ」
前に一度来たことがある、水野さんの家だ——直人はそう言って、ベビーカーの中を一度のぞいた。相原さんのことはもう片づいた、引っ越しも終わった、と続ける。
「家賃はもう払ったから、あとは一人で大丈夫だよ」
「払った、って」
直人が携帯を出して、画面をこちらへ向けた。振込先は不動産の管理会社。
金額は、24万円。指で下へたどると、同じ金額の行が12行並んでいた。
288万円。
あの子の手取りは16万くらいだから、自分では払えない。だから1年ぶん先に入れておいた——直人はそう説明した。
手取りの、一倍半。私はその12行を、上から2度数えた。
「直人。テーブルに置いてきた紙、見た?」
見た、と短い返事があった。
「署名のことを聞いてる。返事はいつもらえる?」
「署名はしない。離婚する理由が、俺にはわからない」
「わかったら、してくれるの」
「意地になってるだけだろう」
「私は、署名の話をしてる」
直人が鼻から短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「若い子に妬くような人だったか」
ハンドルに提げた牛乳の袋が、結露で濡れはじめている。私はそれを掛け直した。
「専業主婦で外を知らないから、不安になるのはわかるけど。俺の立場も考えろ」
私はベビーカーの向きを変えて、ガラス扉の前に立つ。カードキーをかざすと、内側の扉が開いた。
直人は開かないほうのガラスの前に立っている。この建物の鍵を、彼は持っていない。
扉が閉まる直前に、一度だけ振り返った。
63になっていた。3点、上がっている。
*
ベビーカーを郵便受けの横に寄せて、佳奈に打つ。
【下に直人が来てる。家賃、1年ぶん先に払ったって。月24万円を12回。明細は向こうから見せてきた】
【あと5分で着く。上がってていいよ】
5分より少し早く、佳奈が植え込みの角を曲がってきた。直人が一歩出て、何か言う。
ガラスを2枚挟むと、声は口の形しか届かない。佳奈が一度だけ、首を横に振った。
上の階の住人が一人、私の横を抜けて外へ出ていく。扉が2枚とも開いた。
「水野さん、紗季を説得してくれないか」
「佐伯さん、頼む相手を間違えてます。説得してほしいなら、家賃を払ってあげた人に頼んでください」
直人の口が開きかける。佳奈のほうが早かった。
「体面が残っているうちに、判を押したほうがいいですよ」
直人の肩が、ジャケットの中で一段下がった。
扉が閉まって、また口の形だけになる。佳奈はカードキーを出して、直人のほうを見ずにかざした。
「おかえり」
「外、寒かった」
それだけ言って、私の手からベビーカーのハンドルを取る。エレベーターが来るまで、佳奈は美緒の寝顔ばかり見ていた。
*
その夜、佳奈がローテーブルにノートパソコンを置いて、検索の窓を開いた。
「相談できる弁護士、一緒に探そうか」
「うん」
「ここからだと、水杜の事務所のほうが行きやすいけど」
「申し立てるのは、向こうの住所の家庭裁判所になると思う」
「じゃあ、桐浜で3つ。電話で一次相談ができるところを選ぶね」
「お金のこと、先に聞いておきたい」
「着手金と、実費と、成功報酬。そこは最初に聞いていい項目だよ」
佳奈はノートに3つの事務所名と、電話の受付時間を書いた。書き終えてから、最初の一つにペンで丸をつける。
「ここ、女性の先生がいる。それだけの理由だけど」
「それでいい」
3日後、私は一人で新幹線に乗って、桐浜の事務所へ行った。美緒は佳奈が半日休んで見てくれた。
「この髪の写真は、それ自体では何も証明しません」
「不貞を立証しないと申し立てられない、というものではありません」
「はい」
「今うかがっているのは、佐伯さんご自身が、この結婚を続ける意思がないということです。それでよろしいですか」
「はい」
委任状に判を押した。夫婦関係調整調停の申立書は事務所で作ってもらい、申立先は桐浜家庭裁判所になる。
連絡先は代理人へ、と直人にも伝えた。美緒のことと、急ぎの用のための番号だけは残してある。
事務所を出て、駅までの道でコンビニに寄る。ホットのお茶を買って、蓋を開けて、飲まずに持って歩いた。
*
9月の終わりに、森田さんから電話があった。美緒の靴下を、膝の上で畳んでいるときだ。
「佐伯さん、お伝えしておいたほうがいいことがあって」
「はい」
「裁判所からの封筒の件です。専務のご自宅に届いたものを、専務がそのままかばんに入れて出社されて」
「机に置いたまま席を外されて、そのあいだに、郵便の仕分けをしていた相原さんが開けました」
「本人宛のものは、誰でも開けていいわけではないので。封筒を開けた件は、窓口に報告しました」
「相原さんは、何て」
「会社の書類だと思った、と。事情は窓口が聞き取っています。私が処分を決める立場ではありませんから、言えるのはそこまでです」
「それと、契約は9月末で満了です。更新しないことは、会社が決めました」
「森田さんが決めたことではない、ということですね」
「はい。私は報告をしただけです」
千尋さんは、自分が見ていない場面のことを一つも言わなかった。5月に菓子折りを持ってきたときも、上がってくださいと言って上がらない人だった。
電話を切る前に、一度だけ間があく。
「ここからは、仕事の話ではありません」
「はい」
「5月のご恩は、専務個人にではなく、ご夫婦にいただいたものだと思っています」
畳みかけの靴下を持ったまま、私の手はしばらく動かなかった。
「……失礼します」
*
10月の最初の土曜、直人がまた来た。美緒に会いたいという連絡が、前もって代理人を通して入っていた上でのことだ。
エントランスの外のベンチで待っていた。
頭の上は63。あの日と同じ数字だ。
美緒が私の手を離して、走っていった。
「パパ!」
直人が膝を折って、美緒を受け止めた。頬に口をつけて、肩で一つ息をする。
契約はもう終わった、相原さんとはこれきり連絡を取らない——美緒を抱いたまま、直人はそう言った。
「会社が決めたことだよね」
直人の手が、美緒の背中で止まった。
「森田さんから聞いた。窓口に報告が上がって、会社が更新しないと決めた。直人が切ったわけじゃない」
自分の手柄にするつもりはなかった、と直人は言った。美緒を抱き直して、立ち上がる。
「もう一回だけ、機会をくれないか。この半月、ずっと紗季のことを考えてた」
63のまま、動かない。口と数字が、合ってない。
もう一回、と言ったところで、美緒が直人の腕の中から手を伸ばしていた。小さい指が、私の人差し指をつかんでいる。
私は答えなかった。美緒を下ろしてもらって、しゃがむ。
靴のマジックテープのかかとが浮いていたので、一度外して留め直した。
「これから、屋内の遊び場に行く約束をしてる。予約も取ってある」
何時までいるのか、と聞かれた。
「4時まで」
直人は美緒の頭に手を置いて、それから引いた。
遊び場の壁には、キリンの絵が描いてあった。首のところがボールプールの縁で切れていて、顔だけがこちらを向いている。
*
帰ってくると、ベンチには誰もいなかった。吸い殻も、紙コップも落ちていない。
美緒を風呂に入れて、8時半に寝かせた。10時過ぎに、千尋さんから画像が一枚届いた。
【写真を送ります。今夜の投稿ですが、詳しい事情まではわかりません】
相原さんの公開の投稿を、そのまま画面ごと撮ったものだ。
見慣れない台所で、直人が紺のエプロンをつけて、片手で鍋をかき混ぜている。鍋の中は白い。
粥だ。結婚してから私が熱を出した4回のうち、2回は直人がこれを作った。
米から炊くと30分かかる。その30分のあいだ、彼は台所から離れない人だった。
写真には、文字が一行ついていた。だれかに甘やかされるって、こんなに楽なんだ、と。
これきり、と直人が言ったのは、今日の昼だ。
写っているのは、鍋と、前掛けと、その人の手。それ以上のことは、この一枚からはわからない。
私は画像を保存して、日付の出る形でもう一枚、画面ごと撮った。それから代理人に転送して、短く事情を添えた。
台所に立って、うどんのゆで汁を流しに捨てる。湯気が顔に当たって、しばらく前が白くなった。




