第三話 署名だけの離婚届
桐浜中央病院の夜間救急の待合は、長椅子の緑がくすんでいた。
座面の端が擦れて、下地の色が出ている。そこばかり見ていた。
家には、和枝さんが来てくれている。直人が電話をして、15分で上がってきた。
同じマンションの、3つ下の階に住んでいる。
美緒のことは心配しなくていい、と玄関先で言われたのを覚えている。
車の中では、助手席を倒してもらって横になっていた。信号で止まるたび、直人が片手を私の肩に置く。
受付の問診票は直人が書いた。いつから、何を食べたか、通院歴。
字が右上がりに詰まっていく癖は、10年前と変わらない。
「お名前、佐伯紗季さんですね。付き添いの方、こちらにお座りください」
順番が来るまでに40分かかった。触診、採血、それから点滴。
急性の胃腸炎だと言われた。吐き気止めと整腸剤を入れて、しばらく様子を見ましょう、と。
「水分は、ちょっとずつなら。無理に飲まなくていいですよ」
点滴が始まってすぐ、直人が給湯室から紙コップに白湯を汲んできた。
一口ずつ、時間をかけて飲んだ。空にして、枕元の台に置いた。
処置室のベッドは硬くて、毛布が薄い。
看護師が点滴の速さを直した。カーテンが半分だけ引かれる。
私は目を閉じた。
直人はパイプ椅子に座って、携帯を伏せて膝の上に置いていた。それが、この夜に私が見た最後の直人だ。
*
目が覚めたとき、時計は2時半だった。
右手の甲にテープの跡がある。点滴はもう外されていた。
枕元の台に、紙コップが一つ。倒れないように、縁が少しつぶしてある。
つぶしたのは私ではない。
カーテンの向こうで、別の患者の付き添いが看護師と話している声がした。
直人はいない。
携帯を開いて、短く打った。
【どこにいる?】
返事はこない。
電話をかけた。2回、呼び出しだけで切れた。
3回目で、つながった。押し殺した低い声で、どうした、と聞かれる。
「どこにいるの。家に帰った?」
向こうが少し黙った。
相原さんから電話があって、部屋の前に知らない男が立っていたと言っている、それで様子を見に来た——直人はそう説明した。
こわがって眠れないと言うので、ずっとついていた、やっと寝たところだ、と。
「……で、紗季は、何か用だった?」
私は紙コップの縁を、指で押した。少しへこんで、戻らなかった。
「私、まだ病院にいる」
部下のことで、放っておくわけにいかなかった、と直人は言った。点滴が終わるのを見届けてから出たのだ、とも。
「終わってない。さっき自分で外されたのを見た」
管理会社にも、警察にも、相談する先はあるよね、と私は言った。
向こうの声が硬くなる。知らない土地で、頼れる人間が俺しかいないんだ、と。
タクシーを呼ぶから先に帰っていてほしい、彼女が寝入ったら戻る——そう言って、電話は切れた。
私はナースステーションへ行って、帰ってもいいかを聞いた。
「吐き気はどうですか。ふらつきは」
「吐き気はないです。立てます」
血圧を測ってもらった。上も下も、いつもの値に近かった。
「水分は、少しずつ何回にも分けて。今日いっぱいは、油と辛いものはやめてくださいね」
「はい」
「明日、かかりつけがあれば受診してください。付き添いの方は」
「タクシーを呼びます」
看護師は伝票を書く手を止めなかった。それ以上、何も聞かれない。
タクシーが家の前に着いたのは、3時半だった。
*
鍵を回すと、次の間の戸が細く開いた。
和枝さんが廊下に出てきて、私一人なのを見て、足を止めた。
「直人は」
「女性の部下のところに行きました」
「……そう」
それ以上は聞かれなかった。
「美緒は寝ているから、紗季さんも先に横になって」
台所に麦茶が出してあった。コップの下に、折りたたんだ布巾が敷いてある。
*
5月に、千尋さんが急性の虫垂炎で倒れたことがある。
その日は朝から雨で、道路の何本かが冠水していた。私は直人に、美緒の迎えを頼んでいた。
直人は千尋さんを自分の車で病院へ運んだ。救急車を待つと30分かかると言われて、自分なら15分だと判断した。
判断そのものは、たぶん間違っていない。
美緒は1時間半、園に残された。職員室で待たせてもらって、先生が折ってくれた折り紙が3つ。
私が着いたとき、美緒は私の首に腕を回して、しばらく離さなかった。
その夜、私は直人と大喧嘩をした。玄関先で声を張り上げたのは、あれが最初で最後だ。
翌週、千尋さんが菓子折りを持って家に来た。玄関で3回頭を下げて、上がってくださいと言っても上がらなかった。
あのとき、直人の頭の上は100のまま。
喧嘩をしている最中も、100だった。
だから私は、怒りながら彼を信じていられた。
*
直人が帰ってきたのは、7時前だ。
目の下に影があって、あごにひげが出ていた。シャツの襟が寝癖のようにつぶれている。
私と和枝さんは、食卓で朝食を食べていた。
入ってきた直人が、鼻の頭を指でこする。
その上に、67と出ていた。
昨日の朝は77で、夜には何もなかった。一晩で10点。
和枝さんが箸を置いて、息子の顔を見た。それから、私のほうへ顔を向ける。
何も言わずに、味噌汁のお椀を持ち上げた。
直人は寝室で着替えて、出てくるときに私を見ている。
「管理会社だの警察だの、ゆうべはずいぶん計算高いことを言うと思った。点滴一本で、大げさなんだよ」
和枝さんが、持ち上げていたお椀を卓に戻した。音は立たない。
相原さんの引っ越しが片づいたら、もう関わらない——出がけに、そう言った。
玄関の戸が閉まってから、和枝さんが自分の食器を流しへ運んだ。
「お茶碗はそのままでいいから。紗季さん、横になっていて」
「大丈夫です。お義母さん、昨日はありがとうございました」
「直人のことで、紗季さんが私に気を遣うことはないですからね」
和枝さんは8時過ぎに帰った。
帰りぎわ、玄関で美緒の靴を並べ直してから出ていった。
*
美緒を園に送ってから、押し入れを開けた。
大きいほうのスーツケースに、美緒の着替えを1週間ぶん。私のぶんは、その半分。
通園バッグ、母子手帳、保険証、印鑑。通帳は封筒に入れて、いちばん下に入れた。
園には電話で、今日は休ませると伝える。
それから、水野佳奈に電話をした。大学のときからの友達で、水杜市に住んでいる。
「今日、そっちに行っていい。美緒と二人」
「何時の新幹線」
「まだ取ってない。昼までには出られる」
「じゃあ、駅まで迎えに行く。着く時間が決まったら送って」
「泊めてもらうの、何日になるかまだわからない」
「わかったら教えて。それまでは考えなくていいよ」
佳奈は理由を聞かなかった。
12時40分の指定席を2枚取った。
離婚届は、市役所の窓口でもらってきたものが、去年から書類入れに入っている。父の一件があってから、私はこの用紙を切らしたことがない。
妻になる人の欄に、住所と本籍と名前を書いた。判を押した。
夫になる人の欄は、白いままだ。
書き終えた紙を、居間のローテーブルの上に置いた。上にリモコンを重しに乗せて、それから写真を一枚撮った。
美緒を迎えに行って、そのまま駅へ向かう。
玄関で、美緒に赤い靴を履かせた。かかとに指を入れて、左右を確かめた。
「おでかけだよ。電車に乗ろうね」
鍵を閉めて、廊下の突き当たりのエレベーターのボタンを押した。




