第二話 二人分の弁当
翌朝も、6時に起きた。
3人ぶんの朝食を作って、直人が今日着るシャツとネクタイをベッドの足元に並べて、それから美緒を起こす。
顔を洗わせて、着替えさせて、髪を二つに結ぶ。園のバッグに、水筒とタオルを入れた。
10年やってきた順番なので、手のほうが先に動く。
11時に、弁当を詰めた。二人ぶん。
海老は直人が好きだから、多めに入れた。卵焼きは、砂糖を控えめにした。
*
凪杜商事の受付は、1階の奥にある。
「佐伯です。専務に、お弁当を届けに来ました」
「伺っております。エレベーターは右手をお使いください」
記帳用のペン立てに、社名の入った黒いペンが何本か。そこに一本だけ、赤いボールペンが混じって立っていた。
家族同伴の創立記念行事に何度か出ているので、廊下ですれ違う人が立ち止まる。
「佐伯さん、お久しぶりです」
「ご無沙汰してます。娘が3つになりました」
「早いですねえ。あのとき抱っこされてましたよね」
11階で降りると、突き当たりが専務室になる。
ノックをして、開けた。
社長椅子に、知らない若い女性が座っていた。髪が背中まである。
直人は椅子の背に片手をついて、もう片方の手で画面のどこかを指していた。
二人とも、同じ角度で顔を上げる。
私は直人の頭の上を見た。
79。
昨日の夜から、15時間ほどしか経っていない。
直人が、来てたのか、と言った。驚いたというより、予定にないものを見た顔だった。
「こちらは」
森田さんの下についてもらっている相原さんだ、と直人が名前を言った。
千尋さんは専務秘書で、私と同い年だ。先週から結婚休暇に入っていて、戻るのは中旬だと聞いている。
若い女性が立ち上がって、両手を体の前で重ねた。
「相原夏帆です。佐伯さん、はじめまして」
「佐伯です。いつも主人がお世話になっています」
「いえ、私のほうが教えていただいてばかりで」
デスクの端に、社名入りの封筒が10通ほど、端を揃えて重ねてある。横に、刃の短いペーパーナイフ。
「それ、相原さんが分けてくださったんですか」
「はい。日程と、入力と、あとは郵便の仕分けを」
「助かりますね」
「森田さんは、いつ戻られるんですか」
「来週の水曜だと聞いています。それまでは、専務に見ていただいていて」
「そう」
「わからないことが多くて、その都度、聞いてしまっていて。すみません」
昨日の残業もこの子が数字を一組取り違えたせいだ、と直人が言い足した。
取り違え、という言葉の軽さが、昨日の8時までの2時間と釣り合わない。
「佐伯さん、いつもお弁当を作っていらっしゃるんですか」
「たまにです」
直人が私の手元の保温バッグを見た。
弁当箱を出して、蓋を開ける。海老、卵焼き、青菜。
箸は2膳。
直人はその一膳を、相原さんのほうへ差し出した。
「相原さん、先に食べよう。うまいんだ、これ」
相原さんが箸を受け取って、頭を下げた。
私が口を開く前に、二人ぶんの席が決まっていた。
この習慣を始めてから、弁当を分けた相手は千尋さんが一度だけだ。あのときは、私が3人ぶん詰めていった。
相原さんが海老を一つ取って、口に入れた。
「おいしい。専務、毎日こんなの食べられるんですね」
直人の顔に、得意そうなものが出た。
その上の数字が、77になった。
昨日から数えて、3度目の変化になる。
私は向かいの椅子に座って、二人が食べるのを見ていた。
話は仕事から、駅前に新しくできた店のことへ移る。私は一度も話しかけられなかった。
弁当箱の底の白いご飯が、端から減っていく。
海老は4つ入れて、4つともなくなった。
*
二人が箸を置いた。
片づけたら戻っていい、午後は外に出るから——直人が相原さんにそう言って、椅子を引いた。
相原さんが空の弁当箱に布巾をかけようとする。
私はそのとき、口を開いた。
「私、まだお昼を食べてない」
布巾が、相原さんの手から落ちた。
「すみません、佐伯さんの分だと思わなくて」
そのとおりだと思う。箸を渡したのは彼女ではない。
「今から買ってきます。何がいいですか」
「いいです。片づけるので、そのままで」
「でも」
「ほんとうに、いいです」
私は弁当箱を重ねて、蓋を閉め、保温バッグに戻した。
直人がようやくこちらを向いた。上着の内ポケットから、財布が出てくる。
「紗季、食べてないなら先に言ってくれればよかったのに。ほら、これで下で何か食べて」
差し出されたのは、1万円札が一枚。
私はそれを受け取って二つに折り、直人のシャツの胸ポケットに差し入れた。
ファスナーを閉じる音が、部屋の中でいちばん大きかった。
「そうですね」
エレベーターの前まで、直人がついてきた。手首をつかまれて、悪かった、と言われた。
「知ってる」
今日は早く帰る、と続けた。
「手、離して。ボタンが押せない」
指がほどけた。下りの矢印がともって、扉が開いた。
家に帰って、弁当箱を洗う。ゴムのパッキンを外して、熱い湯をかけて、伏せて乾かした。
乾いてから、保温バッグごと食器棚のいちばん上に上げた。
そこは、年に一度しか使わない重箱を置く場所だ。
*
自分の昼食は、1時を過ぎてから食べた。
四川料理の店で、麻婆豆腐の定食をご飯大盛りで頼んだ。辛いのは得意ではない。
水を3杯飲みながら、全部食べる。
それから駅ビルで、美緒の長袖を2枚買った。サイズは一つ上を選んだ。
4時に園へ迎えに行って、そのまま同じ店にもう一度入った。
「美緒はこっち。熱いから、ふうふうしてね」
美緒には玉子のスープと白いご飯。私は同じものをもう一度頼んだ。
7時前に、直人から電話がきた。家に誰もいない、と。
「外で食べてる」
どうして待っていてくれないのか、と聞かれた。
「お昼、待ってもらえなかったから」
向こうが黙った。それから、気をつけて帰れよ、とだけ言って切れた。
*
腹が動きはじめたのは、11時を回ってからだ。
トイレに立った回数は、途中から数えるのをやめた。
4度目か5度目で、便座に座ったまま壁にもたれた。膝が冷たい。
12時半には、廊下を歩けなくなっていた。
直人が湯たんぽに湯を入れて、私の背中に押し当てる。薬を持ってきて、上半身を起こしてくれた。
胃腸が弱いのを知っていて辛いものを食べるからだ、と直人が言う。
飲み込んだ薬は、30秒ももたなかった。
洗面器を抱えて、全部戻した。喉の奥が焼けた。
直人が私の背中をさすって、手を止めて、それから立ち上がる。
玄関のフックから車のキーを外す音がする。
コートをパジャマの上から着るように言って、直人は保険証を自分の鞄に入れた。
私は洗面器を膝に抱えたまま、動かない足を片方ずつ床に下ろした。




