第一話 三本のろうそく
ケーキの箱を開けて、真ん中にろうそくを3本立てた。
本数を数えて買ったわけではない。4本だと、美緒は吹ききれない。
ケーキは昼のうちに駅前の店で受け取ってきた。箱の底に、保冷剤が二つ入っていた。
台所の窓の外はもう暗い。9月に入ってから、日の落ちるのが少しずつ早くなっている。
美緒はテーブルの角にあごを乗せて、箱の高さからケーキをのぞいている。朝からかぶったままの紙の帽子のゴムが、耳の下に細い跡をつけていた。
「もうすぐ帰ってくるからね」
その頭の上に、100と出ている。
0から100までの数字が、人の頭の上に見える。私にだけ見える。
その人が今、私のことをどれだけ気にかけているか。私は勝手に、それを忠誠度と呼んでいる。
父の数字が69から23に落ちた日、母が父の鞄から知らない部屋の鍵を出した。
姉が家を出た日、姉の数字は7だった。7という数字が姉を責めていると、私は思っていない。
恋愛のときは、60を切る前に離れた。そうやって離れたのが、3回。
佐伯直人の数字だけが、動かなかった。
付き合って5年、結婚して5年。夫の頭の上は、顔を合わせるたびに100だった。
結婚してから私が熱を出したのは4回ある。4回とも、薬を買いに行ったのは直人のほうだ。
このマンションを買った年、内見に5回つきあってくれた。私が日当たりを気にしているのを覚えていて、午前と午後、同じ部屋を2度ずつ見に行った。
そのとき直人の頭の上は100。私が気にしていたのは、日当たりのほうだ。
*
美緒の誕生日を3人で過ごす約束は、1か月前にした。
1週間前にもう一度、念を押した。去年は仕事で来られなかったから今年は必ず、というのが直人の返事だ。
昨日の夜は、美緒のほうが直人の手を引いて、明日は遅れないでねと言っていた。直人は美緒の鼻を指の背でつついて、うなずいていた。
6時を回ったころ、会社で急ぎの用ができたという連絡が入る。
用の中身は書いていなかった。私も聞かなかった。
できるだけ早く帰ってきて、とだけ返す。
6時半に、美緒が椅子によじ登って座った。
「お腹すいた? から揚げ、先に食べちゃう?」
美緒は首を横に振って、両手をテーブルの下に隠した。
「じゃあ、もう少し待とうね」
「先にスープだけ飲む? これなら冷めてもいいよ」
美緒は口をとがらせて、皿のほうへ手も出さなかった。
7時に、から揚げを電子レンジにかけ直す。
7時半、美緒は床に下りて、テーブルの脚のあいだから人形の箱の写真をのぞいていた。私はもう一度、から揚げを温める。
湯気の上がり方が、2回目より弱い。
8時を少し過ぎて、玄関の鍵が回る音がした。
「おかえり」
片手に紙袋、もう片手に平たい箱。紙袋から、ミルクティーの甘い匂いがした。
「これ、好きだったよな。帰りに買ってきた」
焼き菓子の箱と、美緒に約束していた着せ替え人形のセットも出てきた。
直人は私の額に口をつけてから、美緒を抱き上げて頬にも口をつけた。
「ママ、パパがくれたの!」
美緒が箱を両手で持ち上げる。透明な窓の向こうで、人形の髪が斜めに寝ている。
私はその手元を見ていて、それから顔を上げた。
直人の頭の上の数字が、87になっていた。
ライターを2回、押し損ねる。3回目で、やっと火がついた。
ろうそくは3本とも燃えて、美緒が息を吹きかけて、一本だけ残る。直人が横から吹いて消した。
紙ナプキンには、小さなレモンの絵が並んでいる。去年も同じ柄だったかどうか、思い出せない。
「手を洗ってきて。切り分けるから」
ケーキを皿に分けているあいだ、直人はネクタイを緩めて、少し疲れたと言った。
87は動かない。いちごの乗った側を美緒のほうへ寄せて、私は自分の皿を最後に置いた。
「ミルクティー、冷蔵庫に入れとくね」
直人は上着をソファの背に放って、風呂場へ行った。
*
美緒を寝かせてから、ソファの上着を取り上げた。
いつもなら、埃取りをかけてハンガーに戻して終わる。
襟の内側に、髪が一本のっていた。
つまみ上げると、指を広げた長さよりまだ長い。私の髪は耳が出るところで切ってあって、去年から変えていない。
この髪が誰のものかは、わからない。近くにいた人がいる、ということしか言えない。
上着を椅子の背にかけ直して、襟のところを写真に撮った。
天井の灯りだと髪が白く飛んだので、手元のスタンドをつけて、もう一度撮る。画面を広げて、襟のステッチと一緒に写っているのを確かめた。
風呂場からは、水の音が続いている。
換気扇の音に混じって、直人が鼻歌を歌っているのが聞こえた。曲の名前は出てこない。
鼻歌は途中で切れて、シャワーの音だけになった。それから、また同じところから始まる。
撮った写真をしまってから、私は予定表を開いた。
美緒の園の行事が、今月は二つ。歯科健診が来週。
満3歳児クラスの持ち物の書き換えは、月末までに出せばいい。
先月までは、この予定表に直人の出張と帰宅時刻も書き込んでいた。今月のぶんは、まだ一行も書いていない。
私名義の口座は一つしかない。残高は、自分でも覚えている額だ。
結婚してから振り込まれたぶんと、結婚前に働いて貯めたぶんが、同じ通帳の中で混ざったままになっている。
通帳を引き出しに戻して、上に印鑑のケースを置いた。
冷蔵庫を開けて、切り分けたケーキにラップをかけ直す。いちごが二つ、皿の縁に寄っていた。
美緒の紙の帽子は、テーブルに置いたままになっていた。ゴムが片方、留め具から外れている。
明日の朝に直せばいい。帽子を棚の上に移した。
「タオル、新しいの出してあるから」
風呂場の戸の向こうで、直人が返事の代わりに一度、咳をした。
上着の肩に埃取りを二往復かける。取れたのは白い糸くずが一本だけで、ハンガーに戻してクローゼットの扉を閉めた。
髪はティッシュに包んで、化粧台の引き出しに入れた。
この引き出しは、最後まで押し込まないと閉まらない。




