第20話 理解されなくても選べる人生
第20話 理解されなくても選べる人生
治癒制度改革法の公布から一年後、辺境には治癒師養成院が完成した。白い石造りの三階建てで、正面の花壇には赤、黄、紫のチューリップが並んでいる。建物の裏には薬草園と学生寮があり、寮の窓からは洗った白衣や靴下が風に揺れていた。食堂の煙突からは朝食の麦粥を炊く煙が上がり、焼いた玉葱の匂いが校庭まで流れていた。
開院式を前に、エレノアは一階の実習室を見て回った。淡い若草色のドレスに白い上着を重ね、髪は銀色の留め具で一つにまとめている。実習台には包帯、木製の添え木、消毒用の薬草水が人数分並べられていた。端の台だけ椅子の脚ががたついていたため、エレノアはしゃがんで床との隙間を確かめた。
「エレノア先生、私が直します。今日は式典がありますから、ドレスを汚してしまいますよ。木片を一枚挟めば大丈夫だと思います」
声をかけたのは、第一期生のリタだった。十七歳の平民で、村の診療所で働きながら入学試験に合格した少女である。栗色の髪を短く切り、支給された灰色の制服の袖を二度折っていた。腰の布袋からは、朝食で食べきれなかった黒パンが半分のぞいている。
「一時的に木片を挟むだけでは、誰かが動かしたときにまたがたつきます。修繕係へ連絡して、脚の長さを合わせてもらいましょう。今日の実習では、別の台を使ってください」
「これくらいなら、我慢できます。私の村では、椅子の脚が三本でも使っていました。新しいものを頼むなんて、申し訳ありません」
「我慢できることと、我慢しなければならないことは違います。備品の不具合を知らせるのも、養成院で学ぶことの一つです。申し訳ないと思う代わりに、報告書を書いてください」
リタは返事をし、壁に貼られた備品管理表を取りに行った。報告書には故障した場所だけでなく、見つけた時刻と使用を中止した理由を書く欄がある。文字を書くことに慣れていないリタは、「がたつく」という言葉を二度書き直した。エレノアは横から答えを教えず、彼女が自分で書き終えるまで待った。
養成院の学生には、身分に関係なく奨学金が用意されていた。卒業後に王国の治療院で三年間働けば、授業料の返済は免除される。ただし、結婚や出産を禁じる条件はなく、勤務先を辞める場合も正規の給与から無理のない額を返せばよい。契約書は入学前に本人と家族へ読み上げられ、断るための期間も設けられていた。
「エレノア様、開院式の演説原稿をお持ちしました。十枚ありますが、このままでよろしいでしょうか。国王陛下からのお祝いの言葉も届いております」
事務長が差し出した原稿は、金色の紐で綴じられていた。エレノアは最初の二枚を読み、残りを事務長へ返した。養成院設立までの経緯、王家への感謝、議会への感謝が何度も繰り返されている。学生へ向けた言葉は、最後の半頁しかなかった。
「三枚に減らしてください。王家への感謝は一度で十分です。それから、学生の昼食時間が近づいたら、私の演説が途中でも終わりにします」
「しかし、来賓には長い演説を期待する方もおられます。養成院の理念を理解していただくためにも、丁寧に説明したほうがよいのではありませんか」
「食事を待たせる演説で休息の大切さを説明しても、誰も信じません。理解しない方のために、学生の昼食を冷たくする必要はありません」
開院式には、王都から国王の代理人と議員が訪れた。魔力を失った元治癒師のクララと、結婚を禁じられていたナディアも来賓席に座っている。クララは薄紫色の上着を自分で仕立て、胸元へ白い山茶花の布飾りをつけていた。ナディアは学生たちへの土産として、籠いっぱいの林檎を持ってきていた。
アルベルトは濃紺の正装を着て、来賓の案内を担当していた。首元が窮屈らしく、誰も見ていない場所で襟へ指を入れて何度も引っ張っている。エレノアがそれに気づくと、無理をせず留め具を一つ外せばよいと言った。彼は式が終わるまでは我慢できると答えたが、エレノアは首元へ手を伸ばさなかった。
「外したいなら、自分で外してください。私はあなたの服装係ではありません。でも、顔が赤くなる前に外したほうがよいと思います」
「分かった。忠告として受け取る。外してくれとは頼まない」
「それで結構です。留め具をなくした場合も、ご自分で探してくださいね」
アルベルトは一番上の留め具を外し、息を吐いた。外した留め具は紛失しないよう内ポケットへ入れる。以前の彼なら、正装の規則だからと式が終わるまで耐えたかもしれない。しかし今日は、誰にも許可を求めず、自分で襟元を緩めた。
式典が始まると、エレノアは三枚に減らした原稿を持って演壇へ立った。前方には四十人の学生が座り、後ろには養成院で働く教師、医師、薬師、調理人、清掃員が並んでいる。壁には勤務表と授業日程が掲示され、休日には赤い丸がつけられていた。誰かの善意によって空欄を埋めることがないよう、代理を担当する者の名前まで決められている。
「この養成院では、治癒の技術だけを教えるのではありません。患者の命を守ることと同じように、自分の体を守る方法も学んでください。休むこと、断ること、助けを求めることは、治癒師に欠けてはならない技術です」
学生たちは前を向き、エレノアの話を聞いていた。リタは制服の袖を引っ張り、折り目をそろえようとしている。その足元には、修繕を終えた実習台の椅子が置かれていた。四本の脚はすべて床につき、もうがたついていない。
「患者が治療費を払えない場合は、支援制度を利用してください。治癒師が代わりに負担してはいけません。助けたいと思うことと、自分の食事や生活を差し出すことは別です」
後方にいた王都の議員が小さく咳払いをした。支援制度の維持には多くの税金が必要であり、いまだに反対する者もいる。それでも今年、生活困窮者三百二十七人が無料または減額で治療を受けた。費用は治癒師の無給労働ではなく、王国と各領地が分担して支払っていた。
エレノアの演説が終わると、昼食の鐘が鳴った。国王代理の挨拶がまだ残っていたが、予定どおり一時間の休憩に入る。学生たちは食堂へ向かい、麦粥、焼いた鶏肉、春キャベツの酢漬けを受け取った。クララは固い物が噛みにくいため、料理人が鶏肉を細かく刻んでいた。
「式典の途中で本当に昼食にするとは思いませんでした。王都なら、来賓の挨拶が終わるまで待たせたでしょうね」
「だから、ここでは待たせません。ナディアさんも林檎を置いたら座ってください。配るのは学生たちが手伝います」
「では、一つだけエレノア様へ差し上げます。少し形は悪いですが、煮れば甘くなりますよ」
開院式の翌日は、エレノアの休日だった。朝になっても診療着へ着替えず、柔らかな薄黄色のワンピースを着て食堂へ下りた。髪も簡単に一本の紐で結んだだけで、何本かが頬へ落ちている。食卓には少し焦げたパン、山羊乳のチーズ、林檎の煮物が並んでいた。
エレノアは焦げた部分を削らず、その上へ蜂蜜を塗った。香ばしい匂いと蜂蜜の甘さが混ざり、指へ少し垂れてくる。向かいに座るアルベルトは、苦い薬草茶を一口飲み、眉間へ深い皺を作った。昨夜食べ過ぎたため、料理人が胃に効く茶を用意したのだった。
「これは、いつ飲んでも苦い。蜂蜜を入れれば、薬の効果はなくなるのか?」
「少しくらいなら変わりません。入れたいなら、蜂蜜はあなたの右手側にあります」
「君が入れてくれたほうが、適量になると思うのだが」
「自分で入れてください。私は今、パンを食べています」
アルベルトは蜂蜜の壺を取り、一匙だけ薬草茶へ入れた。それでも苦かったらしく、二口目にも顔をしかめる。エレノアは笑いながら林檎の煮物を一切れ彼の皿へ置いた。頼まれたからではなく、自分がそうしたいと思ったからだった。
「今日は治療院へ行かないのか? 養成院の学生が、午後に薬草園を見学すると聞いたが」
「休日です。何もしません。見学には教師が同行します。私がいなくても、養成院は動きます」
「そうか。では、私も午前中は何もしない。昼から執務室へ行く」
「私に合わせなくてもよいのですよ。仕事があるなら行ってください。庭にいるからといって、付き合う義務はありません」
「義務ではない。私も庭へ出たい。昨日から、黄色い薔薇が咲きそうなのだ」
朝食を終えると、エレノアは窓を開けた。春の風が食堂へ入り、カーテンと卓上の紙ナプキンを揺らす。誰かに休日を理解してもらえなくても、自分で決めた休日はなくならない。彼女は空になった皿を台所まで運んだが、洗おうとはせず、当番の使用人へ任せた。
庭には、昨年植えたチューリップと勿忘草が咲いていた。その奥では、アルベルトが気にしていた黄色い薔薇が一輪だけ開いている。エレノアは倉庫から木の椅子を二脚出し、花壇の前へ並べた。一脚の座面には、昔の公開会でついた茶の染みが薄く残っていた。
以前のエレノアなら、空いた椅子を見ると誰かを呼びに行った。相手が寒くないか、飲み物が必要ではないか、自分が隣へ座ってよいのかまで考えた。今日は椅子を置くと、一人で先に腰を下ろした。膝へ落ちた花びらを一枚拾い、指の間で裏返した。
やがてアルベルトが、台所から胡桃パンの入った籠を持ってきた。彼はエレノアに座ってよいかと尋ねず、空いている椅子へ腰を下ろした。ただし籠は二人の間へ置き、自分の分だけを取った。エレノアも食べたくなったとき、自分で一つ取った。
「黄色い薔薇は咲いたが、虫に少し食われているな。薬をまいたほうがよいだろうか」
「明日、庭師に聞きます。今日は何もしない日です」
「では、今日は食われたままにしておこう。薔薇も一日くらい、自分で虫と話し合えばいい」
「虫は話し合いませんよ。でも、今日はそれで構いません」
二人は焼きたての胡桃パンを食べながら、花壇を眺めた。洗濯場からは、使用人たちがシーツを干しながら笑う声が聞こえる。台所の窓からは焼いたパンと林檎の匂いが流れ、養成院の鐘が遠くで鳴った。それでもエレノアは立ち上がらなかった。
誰かに頼まれなくても、何かをしてよい日がある。誰かに理解されなくても、何もしなくてよい日もある。エレノアは隣に座るアルベルトへ言い訳をせず、椅子の背にもたれた。二人は何も頼まず、何も我慢せず、焼きたてのパンの匂いが消えるまで庭を眺めていた。




