第六話 通夜
土曜と日曜は、分析室が閉まっている。
俺は自分の部屋で、録音を文字に起こしたものを何度も読んだ。読むたびに同じところで止まる。軽い、のところだ。
アルバムは祖母に返した。同じ順に戻したかどうかは、自信がない。
日曜の夜、母が部屋に入ってきた。
「火曜、何時に出る?」
「父さんたちと一緒でいい」
「ごはん、下りて食べて。持ってくると食べないでしょ」
「……食べるよ」
「昨日の残ってるから」
母はそれだけ言って、ドアを閉めた。閉めるまでに、少し間があった。
月曜日に、続きを書いた。
佳帆姉のアカウントには入れない。パスワードを知らないし、知っていても入らない。
自分のアカウントで新しく一本立てて、前書きに、これは瀬倉佳帆の連載の続きを従弟が勝手に書いたものだ、と書いた。勝手に、という言葉を3回書き直して、結局そのままにした。
書き終わったのは火曜日の朝だった。
予約をした。通夜が始まる時間に合わせて、午後6時。
なぜその時間なのか、自分でもうまく言えない。いちばん読まれる時間だから、と佳帆姉なら言う。
報告書はまだ届いていない。届く前に書き終えたほうがいいと思った。結果を見てから書いたものは、結果に合わせて書いたものになる。
*
火曜日の午後2時すぎに、メールが届いた。
枝守素材分析室。件名に受付番号が入っている。
添付を開いた。
「毛髪状試料の形態分析報告書」
結果の欄は短かった。
『提出試料は、ヒトの毛髪に該当しない。』
『由来の特定には至らない。』
その下に、小さい字でもう一行あった。
『採取元は依頼者の申告による。』
俺はその一行を、声に出して読んだ。
読んでから、上の2行に戻った。
ヒトの毛髪ではない。由来はわからない。この紙が言えるのはそこまでだ。伯母が何であるかは、一文字も書いていない。
書いていないことを、俺はもう自分の中で足していた。足したとわかっていて、引き算をしなかった。
スーツを出した。去年の法事で着たやつだ。袖に埃がついていた。
*
『猿人の話――残った皮』
夢の中で、二人は近づいた。
男は客の顔を見ていた。鼻が一つ、目が二つ、口。数えたものは全部そろっている。
客が、自分の体から出てきた。
外にいたのは、寝床を借りた客だった。中から出てきたほうは、別のものだ。
男はその顔を知っていた。昼に草の中で見た顔だ。目が開いたままで、風が渡っても閉じなかった、あの男の顔だった。
死んだものが歩いている。外の皮は、どこから来たのか。
男の頭で追えるのはそこまでだった。その先を考えるための言葉が、まだどこにもない。だから走った。
別の群れで、長が顔を寄せたとき、男はもう一度それを見た。
「見ろ。よく考えて、どう言う」
長の顔の横、耳の手前を通る線の後ろに、同じ向きの線がもう一本あった。
ここにもいる。長がそうだった。
男の心臓は、そこで止まった。
森に置かれた男の体は、翌朝にはなくなっていた。誰も探しに行かなかった。
数日後、一頭の豹が洞穴へ入った。
獣は人の匂いを探した。積んである獲物の残りにも、石器にも、匂いはついていない。
壁の暗いところから、顔が出た。
逃げて死んだ、あの男の顔だった。
男が戻ってきたのではない。戻ってきたのは、男の外側だけだ。
中には、別のものが入っていた。
人とヒトに似たものの見た目が同じなのは、同じ皮を使っているからだった。皮は、中身がいなくなったところから取れる。
ただ、同じ葉は二枚ない。
二つ並んでいるとき、どちらかは人で、どちらかは――中に何かが入った、皮だ。
だから見た目では見分けられない。見分けられるのは、外と中がずれる、その動きのあいだだけだ。
*
斎場は駅から2つ目のバス停の正面にあって、外から見ると白いだけの建物だった。
受付に記帳の台があり、ペン立てに黒いボールペンが4本刺さっていた。一本はインクが出なかった。
記帳の台に瀬倉直人と書いていると、後ろから声をかけられた。
「直人くん、大きくなったね」
顔は知っている。名前が出てこない。伯父のほうの親戚だ。
「……どうも」
「お姉ちゃんと仲よかったもんね」
「はい」
それ以上は続かなかった。向こうも続けるつもりがなかったのだと思う。
中に入った。
親族席の前のほうに、伯父と伯母が並んで座っていた。伯父は膝の上で両手を組んでいる。伯母は来た人に頭を下げていた。何度も、同じ角度で。
祖母は2列目の端にいた。父と母がその隣だ。
祖母が俺のほうを見て、隣の座布団を叩いた。
「ここ、空いてる」
「……後ろで座ります」
「そう」
祖母はそれ以上言わなかった。
写真の佳帆姉は、2年ほど前に撮ったやつだ。笑っている。髪が今より短い。
焼香の列に並んだ。前の人がやることを見て、同じようにやった。指から粉が落ちて、熱くない煙が上がった。
席に戻ると、父が小さい声で聞いた。
「飯、食ったか」
「食った」
「そうか」
時計を見た。6時を過ぎている。
俺の書いたものは、もう出ているはずだった。
読経のあいだに、誰かが伯母のところへ来て、小さい声で何か言った。
伯母が振り返った。体ごと、後ろの席のほうへ。
振り返る動きは速かった。首が先に行って、体があとから追いついた。
そのあいだに、見えた。
顔の横、耳の手前を通る線。その後ろに、同じ向きの、同じ形の線がもう一本。
水曜日の廊下と同じだった。違うのは、今度は誰のものかわかることだ。
一本ではなかった。二本あった。
俺は立ち上がっていた。
立ち上がったことに、自分でも遅れて気づいた。父が何か言った。聞こえたのに、言葉として入ってこない。
畳の縁を踏んで、親族席の前へ出た。誰かが俺の名前を呼んだ。
伯母がこちらを向いた。
「直人」
いつもの声だった。取り皿はそこ、と言うときの声だ。
俺は伯母の胸に刃を入れた。
「……あ」
伯母の口から出たのは、それだけだった。
黒い生地の上で、濡れたところだけが赤かった。
後ろから腕を掴まれた。
「直人、やめろ。手を離せ」
父の声だった。
「救急車を呼んでくれ。俺はここを離れられない」
伯父の声が、席の向こうから飛んだ。
「見て」
俺は言った。言いながら、腕を後ろへ回されていた。
「よく見て。中に、もう一人いる」
*
腕は動かなくなっていた。父と、顔を知らない親戚と、二人がかりだ。畳に膝をつかされて、顔だけ上げていた。
伯母が横向きに倒れた。
倒れた胸のところが、内側から押された。押されて、開いた。
出てきたものに、腕があった。
手が畳についた。肘が曲がって、体が起き上がる。
伯母だったものは、顔のほうを床に残したまま、薄く、たたまれていた。
誰かの喉から音が出た。誰のかはわからない。
俺は畳に押さえつけられたまま、それを見ていた。




