第五話 同じ顔の姉妹
金曜日の朝、父は仕事を休んでいた。
台所で二人ぶんの食パンを焼いた。父はいつもバターを塗りすぎる。
「父さん」
「ん」
「佳帆姉の8歳の誕生日って、覚えてる」
父はトースターの口を見たまま、少し考えた。
「……あったな。兄さんとこで、みんなで飯食った」
「俺、6歳だっけ」
「そうだ」
「そのとき、佳帆姉が一人で泣き出したことってあった?」
「泣いたな。書斎のほうで」
「なんで泣いたのか、わかった?」
「わからん。聞いても答えなかった」
「覚えてるところだけでいい。何て言ってた?」
父はバターナイフを皿の縁に置いた。
「『お母さん』って、何度も呼んでたよ。それは覚えてる。何を見たかは聞いてない」
パンが上がった。俺は自分のぶんを皿に載せた。
「兄さんが、8つにもなって泣くなって怒ってな。あれは今でも言い過ぎだったと思う」
「……うん」
「どうした、急に」
「アルバム、おばあちゃんちから借りてきていい?」
父はそれ以上聞かなかった。
祖母の家に寄ったら、上がれとも言われずに棚を指された。
「写真なら、そこの棚。見終わったら同じ順に戻してね」
「はい」
「順番が変わると、私がわからなくなるから」
*
商店街は金曜の昼で、平日にしては人が出ていた。
出店の区画では、年配の男の人が風船を売っていた。ピエロはいない。曜日で替わるのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
占い館のガラス戸に、10分 1000円の紙がそのまま貼ってあった。
中に入ると、机の向こうに人が座っていた。
髪が下りている。前は上でまとめていた。服も違って、長袖のシャツだった。
「こんにちは。この前の続き、いいですか」
「……はい?」
「あの、人の見分け方の話で」
女の人は、机に置いた手を少し引いた。
「私、千夏です。由依は姉です」
「え」
「前のお話は、姉に聞いてもらえますか。私は伺っていないので」
壁を見た。名札が2枚、前と同じようにかかっている。「折坂由依」「折坂千夏」。
読んではいた。読んで、店の名前のようなものだと思っていた。
「……すみません。てっきり」
「よく間違えられます。名札はこちらです。見分けにくかったら、聞いてください」
ガラス戸が開いて、もう一人入ってきた。
コンビニの袋を提げている。髪を上でまとめていて、半袖だった。
「あ、お客さん」
「由依さん」
「はい」
二人が並んだ。
そこで声が出なくなった。
顔は同じだった。輪郭も、目と目の距離も、笑うときに鼻の脇にできる線も。違うのは髪と、袖の長さと、袋を提げている手だけだ。
「交代の時間なんです」
千夏さんが立って、椅子を引いた。由依さんが座り、袋を足元に置いた。
「前にお話ししたのは私です。今日はどこが気になりました?」
「……前に、座り方まで揃ってたらどうするか、って聞きましたよね」
「聞かれました。困る、ってお答えしました」
「今、俺が困りました」
由依さんが笑った。
「私と姉ですか」
「顔だけ見てたら、一人だと思ってました。実際は二人いた」
「いますよ、ちゃんと二人」
「顔が同じだと、何人いるか数えられないんですね」
「たとえば、3年通ってくださってる方で、まだ姉と私を一人だと思ってる人がいます」
「言わないんですか」
「言うと気まずそうにされるので。今日みたいに、間違えたときだけ」
10分で1000円を払った。おつりはない。
外に出て、商店街のベンチに座った。
同じ葉は二枚ない、と佳帆姉は言った。似すぎているほうが変だ、と。
俺がさっきやったのは、その逆だ。二人いるのに、一人だと思った。
水曜日の廊下で見た線を思い出した。耳の手前の線の、すぐ後ろのもう一本。
あれは、二人だったのか。
並んでいたのではない。並んでいたなら、さすがに気づく。
そこで止まった。
*
そのまま伯父の家へ行った。
伯母が出てきて、上がって、と言った。居間には誰もいない。伯父は会場の下見に出ているらしい。
「佳帆姉の部屋、入ってもいいですか」
「いいよ。触っても大丈夫だから」
部屋は水曜日のままだった。低いテーブルに皿はもうない。パソコンは机の上の、同じ位置にある。
木の人形も同じ場所にあった。いちばん小さいのがキーボードの横に立っていて、残りは合わさって一体になっている。
俺はその大きいほうを持ち上げた。
胴に継ぎ目があった。捻ると、上半分が外れた。
中から、ひとまわり小さいのが出てきた。
同じ顔だった。目の描き方も、頬の丸も、同じ型で写したみたいに揃っている。違うのは大きさだけだ。
3つ目が出てきた。4つ目も出てきた。
机の上に同じ顔が4つ並んだ。キーボードの横のいちばん小さいのを入れれば5つになる。
階下から声がした。
「直人、お茶置いとくね」
「……はい」
俺は、空になったいちばん外の1体を持ち上げた。
軽い。
中身が出ていったぶんだけ、軽い。
外側は、形を保ったまま机の上に立っている。中に入っていたものを一度も見せずに、ずっとここに立っていた。
軽い、と佳帆姉は言った。
俺は人形を戻せなかった。椅子に座って、机の縁を握っていた。
水曜日の廊下が、もう一度出てきた。
二人が並んでいたのではない。一人の外側にもう一人が入っていて、動いたときに外と中がずれた。
証明にはならない。木でできたおみやげが、人にも同じ構造があることを示すわけがない。
わかっている。わかっていて、手を離せなかった。
*
1階の書斎に降りた。
伯父の家の書斎は、居間の奥にある。本棚と、伯父が使う机と、それだけだ。窓の外はベランダで、物干し竿が2本渡してある。
8歳の佳帆姉は、ここでおもちゃを探していて、窓の外を顔が通るのを見た。
窓の下の縁は、俺の胸のあたりにある。8歳なら、ちょうど顔の高さだ。
改築はしていないと、前に伯母が言っていた。壁紙は替えたけれど、間取りは俺が小さいころと同じだと。
窓に額をつけた。ベランダには竿と、物干しの台と、乾いたサンダルが片方だけあった。
後ろで足音がした。
「何か探してる?」
「……いえ。ベランダ、使ってないんですね」
「竿だけ残してあるの。洗濯は2階でしてるから」
伯母は居間のほうへ戻っていった。
居間に戻って、借りてきたアルバムを開いた。
正月の写真が多い。祖母の家の、あの部屋だ。同じ並び方で、毎年少しずつ人が大きくなっていく。
伯母は、どの年も伯母だった。
髪型は変わっている。太った年も痩せた年もある。顔の線も増えている。写真の中の伯母は、ちゃんと年を取っていた。
佳帆姉が8歳の年の写真は2枚あった。2枚とも、伯母が佳帆姉の後ろに立っている。
俺はそのページで手を止めた。顔が二つあるようには見えない。写真は、そういうものを写さない。
それでも、俺の中では順番が決まっていた。
家にずっといるもの。佳帆姉が家に帰ってからまた始まったと言ったもの。水曜日の廊下で、俺の目が引っかかった場所にいた人。
伯母だ、と俺は思った。
思った、というだけだ。俺が持っているのは、録音と、木の人形と、間違えた2回の見え方しかない。
洗面所で手を洗っているときに、伯母が入ってきた。
「タオル、そっちの新しいの使って」
「はい」
伯母は鏡の前で髪を直した。後ろでまとめて、ゴムを2回巻いて、それで終わりだった。
俺が手を拭いているあいだに、伯母は出ていった。
洗面台の縁に、髪が何本か落ちていた。
長い。まとめたときに落ちたのだと思う。思う、でしかない。この家に伯母のほかに女の人がいないとも言えない。母も来ている。
俺はポケットからレシートを出して、折り目に髪を挟んだ。
3本だった。
帰りの電車で調べた。毛髪や繊維の材料分析を受けている民間の分析室が、市内に一つある。枝守素材分析室。駅から二つ入った通りの、小さいビルの2階だった。
受付の人は、レシートごと出した俺に、封筒を一枚くれた。
「試料はこちらへ。袋のほうが状態が保てますので」
「すみません」
「ご依頼は、毛髪状試料の分類分析でよろしいですか」
「……人の髪かどうか、わかりますか」
「形態の観察と、手元の資料との比較になります。ヒトの毛髪の範囲に入るかどうか、そこまではお答えできます」
「それでお願いします」
「採取元は、依頼者さまのご申告として記載します。こちらでは確認できませんので」
「……わかりました」
費用は税込1万6500円だった。バイト代の残りで足りた。
「本日が金曜ですので、2営業日いただきます。火曜日の日中にお渡しです。報告書は電子でお送りします」
「火曜日」
「はい。土日は動いておりませんので」
火曜日は、通夜の日だった。
受付の人が受理票を印刷して寄越した。受付番号と、試料の名前と、交付予定日。火曜日、と印字されている。
何が書いてあっても、俺はこれを人に見せられる。見せるまでは、何も言わない。
「火曜日」
階段の途中で、そう読み上げた。




