第四話 八歳のとき
水曜日の昼前に、父から電話がかかってきた。
平日の昼に父が電話をよこすことはない。俺は画面を2秒見てから出た。
「もしもし」
「直人か」
「うん」
「……佳帆が亡くなった。さっき、病院で」
聞こえていた。意味も取れていた。取れているのに、次に出す言葉がない。
「直人」
「……うん」
「家にいるか。母さんと先に行く。お前は――」
「行く」
「……そうか。じゃあ、駅で」
電話を切ってから、俺は立ち上がって、椅子を机の下に入れた。入れてから、なぜそれをしたのかわからなくなった。
靴下を履き替え、財布を持って、階段を降りた。途中で一段踏み外して、手すりを掴んだ。
駅までの道で、父が知っていることを聞いた。
朝、伯母が台所から呼んでも返事がなかったこと。2階で倒れていたこと。救急車が来て、病院で確認されたこと。
「心不全だと聞いた。それ以上は、俺にもわからない」
「佳帆姉、心臓とか」
「聞いたことがないな」
「……うん」
父は改札の前で立ち止まって、切符を買い直した。さっき買ったほうを、どこかに落としたらしい。
*
伯父の家は、玄関に靴が入りきっていなかった。
居間のテーブルに書類が広げてあって、伯父が葬儀社の人と何か話している。斎場が取れるのが来週の火曜になる、という話だった。
伯母は台所と居間を往復していた。誰が来ても座布団を出して、お茶を出していた。
佳帆姉は家にいなかった。業者が預かって、冷やして安置しているのだと、あとで父から聞いた。
親戚の一人が、伯父に小さい声で聞いていた。
「調べてはもらったのか。その、原因を」
「警察の人は来た。ひととおり見て、帰った」
「それだけか」
「解剖はしない。こっちで同意しないと進められないやつがあって、それは断った」
伯母が湯呑みを盆に載せながら、そこだけはっきり言った。
「あの子の体に、これ以上手を入れないでほしい」
伯父がうなずいた。
「俺も、解剖には同意できない」
親戚は、それ以上聞かなかった。
台所では、母が伯母に何か言っていた。伯母は首を振って、それからうなずいた。何の相談かは聞こえない。
俺にできることは何もなかった。座布団はもう出ている。お茶も出ている。玄関の靴も、誰かが揃え直していた。
線香の匂いがしないのが、いちばん落ち着かなかった。この家にはまだ何も届いていない。用意は明日以降になると、葬儀社の人が言っている。
心不全、と書類のどこかに書いてあるのだと思う。俺はその紙を見ていない。読んだ人から聞いた人の話を、また聞いている。
佳帆姉が病院に行ったところを、俺は一度も見たことがない。22年ぶん、一度もだ。それは、心臓が悪くなかったという意味にはならない。誰も調べていないのだから。
廊下に出た。座る場所がなかった。
突き当たりで、誰かが誰かに頭を下げていた。何人かが立ち上がって、場所を空ける。
その動きのどこかで、目が引っかかった。
引っかかった、としか言えない。顔の横――耳の手前を通る線の、すぐ後ろに、もう一本あった。同じ向きの、同じ形の線が。
見直したときには、廊下に5、6人しか残っていなくて、全員こちらを向いていなかった。
誰のことだったのかわからない。どこを見ていたのかも、もうわからない。
どこかで湯呑みが触れ合う音がした。
喉のあたりまで心臓が上がっていて、息が短くなっていた。走ったあとの呼吸だ。走っていないのに。
俺は壁に手をついて、しばらくそこにいた。
父が廊下の奥から来て、俺の背中を一度叩いた。
「外の空気吸ってこい」
「……うん」
庭に出た。物干しに洗濯ばさみが6つ並んでいて、洗濯物はかかっていなかった。
*
夕方に、病院に持っていったものが戻ってきた。
紙袋が一つ。持ち手のところに、折り癖が斜めについていた。誰かが片手で長く提げていたのだと思う。
中は上着とスニーカーと、携帯だけだった。
パソコンは家に残っていた。机の上の、昨日と同じ場所に。
伯母が紙袋を受け取った。佳帆姉の部屋へ持って上がった。上がって、すぐ降りてきた。
「直人、お茶飲んだ?」
「……あ、はい」
「そう」
それだけ言って、台所へ入っていった。
伯父は居間で電話をしていた。会場のほうに連絡する、と誰かに言っている。途中で声が低くなって、また戻った。
帰り道、父も母も何も喋らなかった。俺も喋らない。コンビニの前で母が立ち止まって、何か買うか、と聞いた。3人とも何も買わなかった。
家に帰ってから、俺は投稿サイトを開いた。
昨日の6時に『逃げた猿人』が出ていた。予約したとおりの時間だ。
感想が4つついていた。3つは続きを待つという内容で、一つは「毎回ここで切るのずるい」だった。
次の更新はない。次の予約もない。豹は洞穴で顔と向かい合ったまま、そこで止まっている。
俺は画面を閉じた。閉じてから、もう一度開いた。
*
木曜日の朝、メールが一通届いた。
差出人は佳帆姉だった。
件名はなく、本文もなく、音声ファイルが一つ添付されている。送信日時は今日の朝8時。予約送信になっていた。
夜中に書いたやつは朝届くようにしてる、と言っていた。
俺はベッドに座ったまま、再生を押した。
「直人。これを聞いてるってことは、私はたぶん、もう自分で話せない」
息の音が近かった。口元に寄せて喋っている。
「順番に言う。ちゃんと言うから、途中で止めないで」
「ヒトに似たもの。あれ、作り話じゃない」
「あの賢い猿人、あれは私。小さいころの私を書いてる」
「8歳のとき、見た。家の書斎から」
「誕生日だった。みんな居間にいて、私は一人で書斎におもちゃを取りに行った。書斎の窓の外、ベランダでしょ。そこを、顔が通った」
「落ちるんじゃなくて、横に流れた。風で持っていかれるみたいに」
「知ってる顔だった。知ってる顔なのに、声が出た」
「大人が走ってきたときには、もう何を見たか言えなかった。思い出せなかったの。今も、どんな顔だったかは出てこない」
「そのあとずっと、家にいると心臓が変になる日があった。誰を見ても、どこか違う気がして。でも全員、ちゃんと普通だった」
「大学で家を出たら止まった。土地が変わったからだと思ってた」
「戻ってきたら、また始まった」
俺は再生を止めた。止めて、窓を見た。カーテンが半分開いていて、外は普通の朝だ。
もう一度押した。
「直人。落ち着いて聞いて」
「あれは、たぶん、ずっとうちにいる」
「答えは、もう出てる気がするの。出てるけど、認めたくない」
「話の終わりは書きたい。誰かが同じことになったとき、読めるものがあったほうがいいから」
「でも直人を入れたくない。両方本当だから、ずっと書けなかった」
「そろそろ時間だから、二つだけ」
「同じ葉は二枚ない。これ、覚えてて」
「もうひとつ。あれの特徴、たぶん――軽い」
そこで切れた。
音声は3分12秒あって、最後の5秒には何も入っていない。
俺は最初から再生し直して、聞こえたとおりに書き写した。書き写してから、また聞いた。
聞き間違いではなかった。
軽い。




