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不気味の谷――従姉が最後に書いた話  作者: 空の異変


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第三話 更新のあとで

伯父の家までは、自転車で15分かかる。


昼前に着くと、伯母が玄関先で植木に水をやっていた。


「直人、お昼は?」


「まだです」


「じゃあ二人分ね。佳帆は上にいるから」


佳帆姉の部屋は2階の南側で、ベッドと机と、積んだままの本があるだけの部屋だ。机の上でノートパソコンが開いていた。


「早い」


「呼んだの佳帆姉だろ」


「そうだった」


しばらくして伯母が盆を持って上がってきたので、俺が受け取って、床の低いテーブルに並べた。冷やし中華だった。錦糸卵の量が、俺の皿のほうが明らかに少ない。


「交換して」


「却下」


「盛ったのはおばさんだろ。佳帆姉に拒否権はない」


「取り皿の配り方を根に持ってるの」


一昨日の話だった。


食べながら、佳帆姉は片手でマウスを動かしていた。画面には昨日の続きが出ている。


「今日上げるの」


「もう書けてる。予約してあるだけ」


「予約」


「夕方の6時。その時間がいちばん読まれるから」


「書けてるなら出せばいいのに」


「出したあと直したくなるの。一回寝かせる」


箸を置いて、佳帆姉は別のタブを開いた。感想の欄だった。


「更新はやい、って書かれてる」


「よかったじゃん」


「『続きが気になって仕事に手がつきません』。この人、毎回これ書いてる」


「毎回仕事してないんだ」


「あと『一話が短い』。これは正しい」


「直せば」


「短いほうが毎日出せる。毎日出すほうが読まれる」


「身も蓋もないな」


「メールも同じだよ。夜中に書いたやつは、朝届くように予約する」


「なんで」


「夜中のテンションで送ると、だいたい後悔するから。予約って、そのためにある機能だと思ってる」


俺は皿を重ねながら、机の端を見た。


木の人形が置いてある。いちばん小さいのがキーボードの横に一つだけ立っていて、残りは合わさって大きい一体になっていた。


「それ、前からあったっけ」


「もらいもの。旅行のおみやげ。5つ入り」


「ちっちゃいの、なんで出してんの」


「なんとなく。戻すの忘れた」


それだけの話だった。俺は皿を盆に載せた。


「で、破れ目のほうは」


「よく覚えてたね、そっちの言い方」


「決まったの」


佳帆姉はマウスから手を離した。離してから、画面の端のあたりを見ていた。


「……書ける気はする」


「するんだ」


「書ける気はするの。でも書いたら、たぶん戻れなくなる」


「戻るって、どこに」


返事がなかった。一昨日の無言とは違う。あのときは俺を見ていた。今は画面を見ている。


「佳帆姉」


「んー」


「それ、誰かに聞いた話とか、そういうのが混ざってたりする?」


佳帆姉はマウスを持ち直して、スクロールバーを一番下まで落とした。


「冷やし中華、のびるよ」


「もう食べ終わってる」


「じゃ、皿下げて」


下げた。


盆を持って立ったとき、佳帆姉が画面をこちらへ回した。


「6時に出るやつ。先に読んでいい」


「文句言うからな」


「どうぞ」


    *


『猿人の話――逃げた猿人』


別の群れが男を見つけたとき、男はもう話が通じなくなっていた。


泥だらけで、腕にも脚にも切り傷があった。歩いてきた距離だけが、体に残っていた。


その時代に、気が触れるという考えはない。見つけた者たちは、悪いものが入ったのだと思った。蔓で縛り、輪の真ん中に置いて、地面に額をつけた。


「もう来ている。おれたちの中にいる」


男は同じことを繰り返した。声は嗄れて、途中から音だけになる。


輪は広がった。誰も近づかない。


「秘密を教える。あれのことだ」


群れの長が立ち上がり、輪を割って、男の前まで歩いた。


「あれとは誰だ。何を言う」


男は体をねじり、跳ねた。


「来た。おれたちのところに来た。あれは人ではない。見た目は同じだ、だが――」


続きは出なかった。長が顔を寄せたからだ。


「見ろ。よく考えて、どう言う」


男は長を見た。見て、動かなくなった。


その時代、人が死ぬのは珍しくない。理由は誰にもわからなかったので、死体は森に置いてきた。


長を疑う者はいなかった。疑った男は、森に置いてきたところだ。


同じころ、一頭の豹が洞穴へ入った。客が泊まった、あの洞穴だ。


獣は人のいる場所を避ける。人の匂いがわかるからだ。この豹は、そこに人の匂いを見つけなかった。


壁際に獲物の残りと石器が積んであった。豹は鼻を近づけ、それから顔を上げた。


人が使う場所のはずだった。人はいない。匂いもない。


豹の頭でわかるのはそこまでで、あとは食うことだけを考えた。肉に口をつけようとしたとき、壁の暗いところから顔が出た。


「わたしを探しているのか」


    *


読み終わってから、俺は自転車で商店街へ出た。母に頼まれた乾電池と味噌を買うついでだ。


家に帰って一人で考えても、出てくるのは宇宙人と地底人くらいだった。人を見分ける話をしたいなら、人がいるところへ行ったほうがいい。


平日の午後の枝守(えだもり)中央商店街は、思ったより人がいた。買い物袋、自転車、学校帰りの制服。


出店の区画で、ピエロの格好をした人が風船を売っていた。子どもが3人、台の前に張りついている。そのうちの一人が犬の形の風船を受け取って、紐を手首に巻いてもらっていた。


誰もピエロを怖がっていない。顔は白塗りで、口は耳のあたりまで描いてあるのに。


ここまで違うと、谷の手前で止まるらしい。


金物屋と美容室のあいだに、占い館があった。ガラス戸に「10分 1000円」と貼ってある。


中は細長くて、机が一つ、椅子が二つ。壁の小さな棚に、名札が2枚かかっていた。「折坂由依」「折坂千夏」。名字が同じだ。


座っていたのは、上の名札のほうだった。


「いらっしゃいませ。ご相談ですか」


「占いじゃなくても大丈夫ですか」


「内容によります」


「人の見分け方の話なんですけど」


折坂由依(おりさか ゆい)さんは、机の上の札を片側へ寄せた。


「どんなときに、そう思いました? その場面だけ聞かせてもらえますか」


「……知ってる人の顔が、急に知らない人の顔に見えたこと、ありますか」


「ありますよ」


「あるんですか」


「たとえば、お客さんが髪を切ってきた日。同じ人だとわかっていても、最初の3秒くらい、どこを見ればいいかわからなくなります」


「それ、顔を見てるからですよね」


「顔は、あんまり見ていません」


「え」


「たとえば、座り方とか、荷物をどこに置くかとか。同じ服を着ていても、椅子の座り方までは揃わないので」


由依さんは、俺の膝の上の袋をちらっと見た。買い物袋の持ち手を握ったままだった。


「じゃあ、座り方まで揃ってたら」


「揃いませんよ」


「揃ってたら、の話です」


由依さんは少し考えて、机の札を一枚だけ裏返した。


「そうしたら、私は困ると思います。困ったまま、いつも通りにお茶を出すんじゃないかな」


10分で1000円を払った。おつりはなかった。


「今日は私が当番なので、また来られたら、たぶん話の続きができます」


「たぶん、ですか」


「当番じゃない日もあるので」


    *


家に着いて、かごから袋を出した。


単3の電池を引き出しに入れ、味噌を冷蔵庫の下の段に押し込んだ。牛乳の奥が狭い。


レシートを財布から抜いて、袋と一緒に丸めた。台所のごみ箱は紙で一杯だったので、押し込んでから口を縛って、玄関の横に出した。


手を洗って、2階へ上がった。

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