第9話 沖田さんがいない日(後編)
八木家。
盥を持つ手が震えている。本日のどきどきが最高潮に達していた。
できあがった葛餅の皿は、井戸水を張った盥に浮かべてある。少しでも冷やして食べて欲しい。
いるよな、部屋に。いや、寝ているってこともありうる。夕稽古が迫っているので、再訪はできない。頼みます沖田さん、起きていてください。
暑いせいか、沖田さんの部屋の襖は開いていた。廊下から部屋の様子が窺える。
「……うげ」
窺えたのはよかったが、土方副長がいた。そりゃ、沖田さんの部屋は四人部屋なのでこういう誰かいることもある。だが、まったく考えていなかった。
副長は難しい顔をして机に向かい、書類に目を落としていた。
……恰好いいなあ。こういうおとなの男になりたい。
息を詰めてもう一歩進む。
誰かの蒲団が敷いてある。沖田さんの?
わあ、沖田さん寝ているし! 浴衣を着ているんだろうか、薄着だ。蒲団の代わりに誰かの羽織をかけている。まあ、状況からいって、副長のものだろう。
か、かわいい……ねがお……子どもみたいだ。
寝ている沖田さんと一緒にいて、副長の心身はだいじょうぶなのか? いろいろもやもやしないのか? おれなんて、全身がざわついているのに。
早く渡さないと、おれの手熱でせっかくの葛餅がぬるくなってしまう。どうする?
副長に預けるという手がある。
と、そこまで考え及んだとき、副長が動いた。
まっすぐ、沖田さんに近寄った。
とても愛おしそうなやさしいまなざしで、見つめている。やわらかい笑顔だ。
そっと、沖田さんの髪を撫でる。長い後ろ髪に指を絡め、手繰り寄せる。
「……ふさ」
副長は沖田さんの耳もとで、そうささやいた。
ふ、さ?
いったん、おれは廊下の陰に隠れた。
ふさ、ってなんだ? 沖田さん、だろう? 沖田さんの寝顔を見て、副長は誰かを思い出しているのだろうか。隊士には見せない顔で。
どきどきするあまり、盥の皿がかたかた鳴った。
「誰かいるのか」
うわ、いつもの鋭い副長の声!
逃げられず、姿を見せることにした。
「すみません、おれです」
おれを見た副長は、いつもの険しい表情を浮かべている。
「なんだ、帳面か。何の用だ」
「あ、あの。お、沖田さんにお見舞いを! お休みされているご様子なので、これを渡してください」
「こいつに?」
沖田さんの寝顔を隠すように、副長はおれのほうへ近づいてきた。見せたくない、のだろう。あんなかわいいんだ、発狂する隊士が出てもおかしくない。
「そんな大仰なもんじゃねえよ。総司は、単なる疲労だ。寝れば治る」
「でも、ぜひ食べて欲しくて。おれが作りました」
食い下がると、副長は盥を受け取ってくれた。
「分かった。もう行け、夕稽古がはじまる刻限だ」
「は、はい。ありがとうございます」
振り返らずに、おれは廊下を急いだ。葛餅を渡し終えたのに、どきどきが止まらない。
土方副長がおれの後ろ姿を睨みつけていたことを、幸いおれは知らなかった。
夕稽古。
身に入らなかった。
夕餉。
箸が進まなかった。
何度も思い出してしまう、副長のやさしい顔。沖田さんを見つめる目。髪に触れる手。
あれは、なんなんだ?
副長は沖田さんの保護者なのだと思っていた。しかし、あれは……どういう意味?
しかも、『ふさ』ってなんだ。
帳面を開く。
『本日、沖田さんが病欠。
よくあることらしいが、心配なのでお見舞いに行く。
自作の葛餅を届けた』
ここまではすらすらと書けたが、筆が止まってしまった。
『土方副長が』
どうにか書く。しかし続きが書けない。
なんだったんだ、隊士には決して向けない、あのほほ笑み。
沖田さんを通して、誰かを思い出しているのだろうか。
『土方副長が』の文字を塗り潰し、書き直す。
『とにかく、見てはいけないものを見た。
こういうときは、早く寝るに限る。
以上』
***
数日後、朝稽古。
「おはようございます、みなさん!」
明るい声が返ってきた。沖田さんだ!
やつれたところはない。任務を休んだせいか、肌が白いような気がするが、やっぱりうつくしい。
ひととおりあいさつをして回った沖田さんは、素振りしているおれの近くに来た。
「帳面さん、おはようございます。休んでしまって、すみませんでした」
きらきらと輝くような笑顔に、おれは震えた。
「い、いいえ。隊は、斎藤先生がまとめてくださったので……おれはさみしかったですけど……」
つい、本音が漏れた。沖田さんはものすごく喜んだ。
「え……さみしかったんですか、帳面さん! 私がいなくて、さみしかったって言ってくださるんですか! 嬉しいですね」
がばり。
沖田さんが、竹刀を握るおれに抱きついてきた。あったかいし、いい香りがする。
ぎゅってされている。やわらかい。た、倒れそう。寝不足が続いているおれは本気でそう感じた。
「このバカ、総司」
「いてて……」
出た、保護者。土方副長が沖田さんの耳を引っ張った。
「あまりに嬉しくて、つい。ごめんなさい、帳面さん」
「いやいや、気にしていませんよ」
心にもないことを口に乗せる、おれ。
副長がいる。副長の顔をした副長が(当然だ)。おれは副長を目の前にして、混乱した。
せっかく、数日ぶりに沖田さんと話をしているというのに、副長が気になって仕方ない。
これじゃあ、まるで副長に恋しているみたいだ。違うのに!
「お見舞いに来てくださったそうですね。土方さんから聞きました。葛餅、とってもおいしかったです。帳面さんのお手製だとか」
「は、くずもち……?」
ここ数日、副長のことばかりを考えていたから葛餅のことを忘れていた。沖田さんの髪をやさしく撫でていた副長……ああ、また思い出してしまった。
「つるんってしていて、梅あんが最高でした」
「恐れ……入ります」
「今日から稽古に巡察に、また一緒にしましょうね」
「よろしく……お願いします」
もう、背中や脇が冷や汗でびっしょりだった。沖田さんは副長と慣らし稽古をはじめた。いきなり飛ばして稽古しないよう、見張るつもりのようだ。どこまで保護者なの。
と、考えつつも、おれは副長が保護者だけでないことを知ってしまった。
『本日、沖田さんが復活。
葛餅のお礼を言われて抱きつかれた。
倒れそうになる。
しかし、沖田さんにとって土方副長は、なんなんだろうか。
分からない。
以上』




