第1話 ブラントの奥様、と呼ばれて
まだ違います、と言いそびれた。
「ブラントの奥様。三番、見てやってください」
呼んだのは荷役のダーヴィトです。麻袋を抱えたまま、顎で桟橋のこちらを指しています。
「いま行きます」
訂正するなら、あの一拍しかありません。二年のあいだに、その一拍は何度もありました。
この港で働きはじめた最初の月に、一度だけ言ったことがあります。わたくしはブラント商会の者ですが、その呼び方ではありません、と。ダーヴィトは、そうですかい、と答えて、次の朝も同じように呼びました。桟橋の向こうでも、同じ呼び方が飛んでいます。ケラーのおかみ、ヴィンクの若いの、ブラントの奥様。店の名と、その店での立ち位置。それだけで人が足ります。
わたくしの名前は、いまのところ、給金の受取の欄にしかありません。
麻袋の口の紐を緩めて、鼻を近づけます。乾いた辛みの奥に、湿った土の匂いが薄く混じっていました。三番の袋だけです。抱えてみると、腕にかかる重さがほかと違います。
「これは外します」
「やっぱりか」
ダーヴィトが舌打ちをして、荷車の向きを変えました。舌打ちはわたくしにではなく、船倉に向けたものです。北の航路は、この時季になると必ず一袋か二袋、こういうものを混ぜてきます。
外した袋には、口の紐に赤い麻ひもを結びます。ひもを結んだ荷は、店の帳面に一行だけ書かれて、船主のところへ知らせが行きます。値を引くか、引き取ってもらうか、決めるのはブラントさんです。
赤い麻ひもは、月に二度か三度しか使いません。使わない月もあります。
朝の光が桟橋の板を白くしています。潮の匂いと、荷から抜けてくる香りと、綱の油の匂い。港はこの三つでできています。
秤は荷揚げ場の柱に吊るしてあります。竿の端に袋を掛け、下げ緒をつまみ上げて支点にすると、竿が重さの分だけ傾きました。分銅を指の腹で滑らせていくと、ある位置で竿の動きが止まります。水平になったところを読み上げる声は、自分でも驚くほど平らでした。
「四十二と半」
ダーヴィトが数字を復唱して、荷車の板に炭で書きつけます。復唱するのは、あとで言った言わないになるのを防ぐためです。港ではみんなそうします。下げ緒は麻を三本撚ったもので、毎日つまむところだけが、指の脂で色が変わっています。撚りが緩んできたら替えます。
二年前まで、わたくしはこの持ち方を知りませんでした。屋敷で秤を使うのは料理番でしたし、わたくしが手にしていたのは鍵と帳面と、返礼の便箋です。
「セラフィナさん、分銅」
番頭のヨナスさんが帳場から出てきて、手を差し出しました。月の初めの検めです。わたくしは分銅を布に載せて渡しました。ヨナスさんは一つずつ手のひらに置いて、目の高さまで上げて、それからまた下ろします。日に当てて、縁の傷を見ているのです。
布の上に並べる順番も決まっています。大きいものから小さいものへ、焼印の面を上にして。検定所の焼印は、貝殻を横から見たような形をしています。
「一つ、へこんでますね」
「昨日、樽の角にぶつけました」
「へこんだ分は軽くなります。軽くなった分は、こちらの得です」
得ですね、とわたくしが言うと、ヨナスさんは首を横に振りました。
「分銅がひとつ狂えば、量ったものは全部狂います。」
そうして、へこんだ分銅を布ごと帳場へ持っていってしまいました。検定所へ出して、打ち直してもらうのだそうです。この店では、狂った分銅を使った日の帳面を、あとで全部やり直します。
一日分の帳面をやり直すほうが、一つの数字を黙って通すより安い。ヨナスさんはそう言います。安い、という言い方をこの人はよくします。
去年の冬、隣の通りの店が分銅の狂いで検定所に呼ばれました。狂いは髪の毛ほどだったそうです。それでも、その店の荷はしばらく誰も買いませんでした。買わない理由を口に出す人はいません。ただ、注文が来なくなるだけです。
店の奥から、ブラントさんが荷の帳面を持って出てきました。この人は大きな手で袋を持ち上げて、重さを確かめてから口を開く癖があります。今朝もそうしました。
「三番、外したのは」
「わたくしです」
「では外れです」
帳面に一行、赤い麻ひもの荷として書きつけます。書くのはブラントさんで、読み上げるのはわたくしです。
それだけで、話は終わりました。理由を聞かれたことは一度もありません。最初の月は、それが落ち着きませんでした。次の朝も、その次の朝も、聞かれるつもりで理由を用意して店へ来ていました。用意した理由は、いまも使わないままです。
ブラントさんの手は大きくて、指の背に古い切り傷が二本あります。荷を持ち上げるとき、その傷のあるほうの手を下にします。理由を尋ねたことはありません。
桟橋の端で、馬の足音が止まりました。
港に馬車が入ること自体は珍しくありません。荷主が自分の目で品を見に来ることもありますし、船の客が桟橋まで乗りつけることもあります。けれどその馬車は荷揚げ場の手前で停まって、それきり動きませんでした。扉に紋章が入っています。銀の地に、麦の穂と鍵。
わたくしは秤の前に立ったまま、下げ緒から指を離しました。竿が、かたりと鳴って傾きます。
麦の穂は領地を、鍵は家政を表します。婚礼の朝、義母に教わりました。この家では鍵をお持ちになるのは奥様ですから、と。実際に鍵の束を渡されたのは、その半年あとです。義母が膝を悪くして、階段の上り下りをやめた冬でした。
鍵は七本ありました。酒蔵、薬棚、書付の箱、それから客用の寝室。全部で手のひらに載るくらいの束なのに、腰に下げると一日の終わりに腰の骨が痛みました。
二年前の春、その束は義母の手のひらに戻りました。渡すときに一本ずつ数えました。数えたのはわたくしだけです。
離縁の話を告げたのも義母です。応接室の椅子には、義母とわたくししか座っていませんでした。長椅子には誰も座っていません。書面はもう署名が済んでいて、わたくしの名前を書く欄だけが白く空いています。血筋のことですから、あなたに落ち度があるという話ではありません、と義母は言いました。それは家のためです、とも。
わたくしは、羽根ペンの先が紙にひっかかるのを直しながら聞いていました。義母の話は長くありません。三月のうちに屋敷を出ていただきます、持参金のことは追って、という順番でした。追って、という言葉だけを覚えています。
隣の部屋には人がいました。扉の下の隙間に影があって、途中で一度、椅子の脚が床をこする音がしました。それきり動きません。わたくしはその音を聞きながら、自分の名前を書きました。
屋敷を出た日の荷は、鞄が一つと、薬草の乾かし方を書きつけた帳面が一冊でした。馬車は使いませんでした。乗合の便で三日、そこから船で一日です。
港に着いたのは朝でした。渡し板を降りたところで足が滑って、膝をつきました。板が濡れていたのです。それを見ていた男が、気をつけな、と言って通り過ぎました。名前は呼ばれませんでした。
夫は、最後まで入ってきませんでした。
「セラフィナさん」
ヨナスさんの声に、わたくしは顔を上げます。ヨナスさんは帳場の窓越しに、あの馬車を見ています。
「ご存じの紋ですか」
「昔、見たことがあります」
「昔ってのは、いつです」
「二年ほど前です」
ヨナスさんは何も言いませんでした。ただ、帳場の引き出しから検定所の書付を出して、机の上で角を揃えました。角を揃えるのは、この人が何か言いたいのを飲み込むときの手つきです。
ブラントさんは荷の帳面を閉じて、脇に抱えました。馬車のほうは見ていません。見ていないのに、荷揚げ場の柱から一歩だけ、わたくしの側へ寄りました。それから、何も言わずに次の袋を持ち上げて、重さを確かめています。
馬は二頭とも脚が細く、港の荷馬とは造りが違いました。轡から泡が落ちています。急いで来た馬です。
馬車の扉が開きました。
降りてきたのは御者で、王都の仕立ての外套を着ています。この港では誰も着ないものです。裾が長く、桟橋の板の隙間に引っかかりそうでした。港の男たちの手が止まりました。荷役たちは、馬車が来たくらいでは手を止めません。手が止まったのは、外套のせいではなく、御者がまっすぐこちらへ歩いてきたからです。
秤の前まで来ると、御者は一度、わたくしの前掛けと、その下の袖と、指の色を順に見ました。人違いを疑った目です。それから、疑いをやめた目になりました。
帽子を取ります。手袋も外して、脇に挟みました。
それから、二年ぶりの姓で、わたくしを呼びました。
「アーベルの奥様。お迎えにあがりました」
潮が桟橋の下で鳴っています。誰も何も言いません。ダーヴィトが荷車の柄を握ったまま、こちらを見ています。柄を握り直す音がしました。
港の朝には、こういう静けさはありません。荷の音か、人の声か、どちらかが必ずあります。
ヨナスさんが帳場の机に、検めたばかりの分銅を一つ、音を立てて置きました。
わたくしは前掛けで指を拭きました。それから、御者の帽子の縁が濡れているのを見ました。王都からは四日の道のりです。途中で雨に降られたのでしょう。よく走ってきた馬だと思いました。
「その名前の女は、二年前にこの港で降りました。」




