第8話 精霊のささやき
「……絶対怒ってる」
リンネは作業机へ突っ伏した。
昼間、ルークの仲間を助けるために使い切った魔力が、泥のように身体へまとわりつく。
窓の外では、辺境の街ラウノが夜の帳に包まれている。
遠くの酒場から漏れ聞こえる笑い声とは対照的に、部屋の中はしんと静まり返っていた。
机の上で、作りかけの送風板が薄青い灯りを放っている。
その光の輪の中で、今日はやけに存在感を主張する青白い光がふよふよと漂っていた。リンネが視線を向けると、わざとらしいほど背を向け、部屋の隅へと移動していく。
「えっ、今絶対機嫌悪かったよね!?」
当然ながら返事はない。けれど、室内に漂う空気は明らかに「お冠です」と主張している。
(……犬っぽい)
椅子へ深く腰掛け、疲弊した頭を天井へ預ける。
酷使した首筋には鈍い痛みが残り、指先にはまだ痺れるような感覚がある。
視線の先では、光がちらちらとこちらを伺っていた。構ってほしいのに素直になれない不器用な挙動を見ていると、胸の奥が切なく痛んだ。
「……ほんと何なの」
胸の揺らぎを誤魔化すように、よっこらしょと立ち上がり、保冷庫を開ける。
冷えた果実水を取り出し、ごくごくと喉を鳴らした。
「ぷはー、文明最高……生き返る……!」
その瞬間。
拗ねていたはずの光がふわりと近づき、興味津々にコップの縁を覗き込んできた。
「飲む?」
何気なく差し出すと、光はぴこんと弾んで水面に触れる。
次の瞬間、果実水が淡く青白く輝き出した。同時に熟した果実の濃厚な甘みと、花の蜜のような優しい香りが広がる。恐る恐る口をつけると、安物とは思えない深みと、驚くほど軽い後味へと変化していた。
「な、なにこれおいしい……!」
驚愕するリンネの目の前で、光はこれ見よがしに得意げにくるくる回っている。
「……もしかして今、あからさまに褒められ待ちしてる?」
ぴこん!
「うそでしょ、本当に返事した!?」
リンネは思わず額を押さえた。
本で読んだ精霊とはだいぶ違う。目の前にいるのは「褒められると嬉しそうにする光」である。
「……新種の変異種?」
そう呟くと、光が不満そうにゆらゆらと揺れた。反射的に「ごめん」と謝る。
その時だった。コンコン、と窓を叩く音が響く。
「ひゃうっ!?」
肩を跳ね上げ、警戒しつつカーテンをめくると、夜風に髪を揺らしたルークが立っていた。
「……こんばんは」
「なんで窓から来るんですか」
直球で突っ込むと、ルークは困ったように苦笑した。
「仲間の容態が安定したので、お礼を言いたくて。灯りが見えたものですから」
「玄関使ってくださいよ……心臓に悪い」
悪気のない顔が余計にタチが悪い。
ルークが部屋へ足を踏み入れると、さっとリンネの背後へ隠れてしまった。
「…………」
光がリンネの肩越しから、そっとこちらを覗く。
目が合う。
さっと隠れる。
「…………」
「…………」
「……完全に犬ですね」
「ですよねぇ……」
リンネは遠い目をするしかない。ルークが思わず、ぷっと吹き出す。
「俺、実家の猟犬や馬には結構好かれる方なんですが……少し傷つきますね」
しょんぼりとした表情に、思わず笑みがこぼれる。
「兄たちには、顔が優しすぎるから威厳がないとよく言われました」
「あー……それは否定できないですね」
「辛辣!?」
ルークはガックリと肩を落とした。けれど、その横顔はどこか楽しそうだ。
彼は少しだけ表情を改めると、悪戯っぽい瞳を真っ直ぐに向けてきた。
「……改めて、先ほどはありがとうございました。それと、あの時のことですが」
「あの時のこと?」
「ええ。あなたが話してくれた『前世の記憶』のお話。仲間を助けるのに必死で、まともに反応できなくて申し訳ありませんでした」
リンネは「あ」と声を漏らし、バツの悪そうな顔で視線を泳がせた。
(しまった)
あの極限状態で、絶対に秘密にしておくべきことを口走ってしまったのだ。
「あ、あの、あれは……魔力を使いすぎて頭が沸騰してたというか、口から出まかせというか!」
「嘘をつく時の癖が出ていますよ、リンネさん」
クスクスと笑われ、ぐぬぬと口を噤む。
「……信じられない話ですが、あなたの知識や術式の使い方を見れば納得がいきます。安心してください。前世のことも、この精霊のことも、俺が誰かに話すようなことは絶対にありません。俺の全力を賭けて秘匿すると誓います」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、思わず視線を逸らした。
「……なら、いいですけど。お礼ならその、美味しいお菓子とかで手を打ちますよ?」
「はは、善処します」
ルークは肩をすくめ、小さく息を吐く。
その視線は、頭の上で嬉しそうに震える青白い光と、それを両手で包み込むリンネから、しばらく離れなかった。
「それ、本当に精霊なんでしょうか」
「だから新種の光です」
夜更けの工房へ、小さな笑い声がこぼれていった。




