第7話 隠しきれない前世の知恵
「……気のせいです」
リンネは喉の奥から砂を吐き出すような、極限まで乾いた声を絞り出した。
二度と繰り返さないよう、自分に言い聞かせるように断言する。
「精霊じゃありません。断じて、絶対に、万が一にも違いまーす」
「では、お言葉ですが。リンネさんの肩の上で我が物顔でくつろいでいる、その神秘的かつ神聖な輝きを放つ生命体は一体何なんです?」
「……光。あるいは、掃除が行き届いていなかったせいで発生した、ちょっと光度の強い、新種の大きめの埃です」
「言い訳が雑すぎますよ。そんな明確な意思を持って愛嬌を振りまく埃がいてたまるもんですか」
中央騎士団の制服である灰色外套の襟を片手で正しながら、ルークが穴の空くほど肩先を凝視してくる。
(あーーー! もう、全力で現実逃避したい……!)
視線を斜め下の床へとそらし、爪先でトントンと小さく床を叩いた。
精霊。
この世界では、奇跡そのものと語られる存在だ。
歴史に名を残す高位の付与術師でさえ、一生に一度出会えれば幸運と言われる。それがよりによって、王都から離れた場所で生活している、しがない魔導具店主に懐いているのだから、事態は深刻だ。
(終わった。静かな人生が、終わった……)
彼女の「平穏な引きこもりスローライフ」という至高の目標が、今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「……帰りたい。今すぐ記憶を消去して、おうちのふかふかのお布団に潜りたいです」
「目を見開いたまま生気のない顔で現実から逃げないでください」
「逃げますよ普通! こんな重大な案件、一般市民の心臓には抱えきれないんです。毛なんて生えてないんですよ!」
周囲に配備された私服騎士たちに聞えないよう、歯噛みしながら小声で叫ぶ。
当の青白い光は、人間のパニックなどどこ吹く風で、ふわふわと宙を漂っている。だが、ルークが少しでも距離を詰めようとすると、威嚇する獣のようにきゅっと光を縮めて揺れた。
その警戒の仕方は、妙に犬っぽい。
「…………」
その健気な仕草に、胸の奥がちくりと痛む。
懐かしい。ただの光の塊の動きを見ているだけで、視界がじんわりと滲んだ。
「リンネさん」
「……なんですか」
「その精霊――」
「精霊じゃないです。新種の光です」
「はいはい。ではその『不思議な光』は、前からあなたの側に?」
口をキュッと一文字に結ぶ。
手の内を明かすのはリスクでしかない。……そう分かっていても、じっとこちらを見つめてくるルークの瞳は、どこまでも澄んでいた。
「……数日前からです。夜、うちの店の前に変な不審者が立っていた、あの頃から」
「変な不審者って俺のことですか。……なるほど、あの夜に突然現れたと?」
「はい」
「何か、呼び寄せるような心当たりは?」
脳裏に、数日前の記憶がフラッシュバックする。
素材を探しに裏の森へ入ったときのこと。
「……そういえば、森で変な石を拾いました」
「石、ですか?」
腰のシザーバッグから、端切れの布に包まれた塊を取り出す。
慎重に布を開くと、意思を持って淡く輝く、青い鉱石が現れた。
それを見た瞬間、ルークの表情が凍りつく。人当たりの良い柔和な顔が、驚愕に染まった。
「……っ、どこで、これを……!?」
「ですから、森です。ただの道端にぽつんと落ちてました」
「森の、道端に……そんなお気楽な感じで……?」
ルークは言葉を失い、形の良い唇を小さく震わせている。その狼狽ぶりに、リンネの心臓も大きく跳ねた。
「……あの、やっぱりそれ、すごくやばいやつですか? 触ったら呪われるとか?」
「呪いならまだ可愛げがあります……。これは、王都の最高オークションでも十年に一度出回るかどうかという『精霊鉱』ですよ!」
「せいれいこう?」
「貴重な――高純度の上質な自然魔力を、何百年も浴び続けた鉱石。精霊を引き寄せ、顕現を促す核にもなり得るという……」
「へぇ……」
難しい魔術理論は分からない。だが、脳内の計算機が価値を弾き出す。
「これ……売ったら、いいお値段になりますか?」
「王都の一等地に豪邸が建ちますね。お釣りだけで孫の代まで一生遊べます」
「っ!?」
電光石火の速さで布を包み直し、鞄の最奥底へ押し込む。
歩く超高額資産。いや、ただの超特大の火種じゃないか。
「そんな国宝級の超危険資産を、おやつ感覚で鞄に入れないでください。私の心臓が持ちません」
「だって本当に落ちてたんだから仕方ないじゃないですか! 拾っちゃいますよ!」
「だからといって、普通はそんな気軽にポケットに入りません!」
ルークは美しい顔を手で覆い、深いため息を吐き出した。
その時、ベッドの上の青年が「う、あ……」と、再び苦しげな声を漏らす。
「――っ!」
二人が駆け寄ると、青年の肌は再び異常な熱を帯びていた。消えかけていた右腕の黒い痣が、生き物のようにうごめき、広がり始めている。
「……再発!? 浄化の術式は完璧に編み込んだはずなのに!」
指先で手首に触れる。不規則に激しく打つ鼓動。
表面だけ削っても届かない。毒は体内の回路の深部まで侵食している。
「何か、別の……方法があるのですか!?」
ルークがすがるような目で見つめてくる。
本当は、ひとつだけ思いついている方法があった。しかし、あまりにもこの世界の常識とかけ離れている。
(背に腹は代えられない……)
「……熱を下げながら大量の水分を補給して、体内の循環を無理やり回して外に出す。その隙に、薄まった毒を削るしかありません」
「水分……補給? 循環を、回す……?」
(えっ、そこから説明するの……?)
小首を傾げるルークの顔は、未知の言語を聞いたかのように困惑している。
「つまり! 身体の中には血と同じくらい水が流れていて、熱で汗になると減っちゃうんです。中身の水が空っぽになると、人間は干からびて死んじゃいます!」
「……それは感覚的には理解できますが」
「だから、無理にでも水を飲ませるんです」
「なっ、このような高熱の患者に、無理やり水を!? 大教会の高名な治療師は『水を過剰に与えると、体内の火の魔力と反発して命を落とす』と……」
「そんなのただの迷信です! 魔力が反発する前に、脱水で死ぬ方が先です!」
ルークが圧倒され、硬直する。この世界では、高熱時に水を控えるのが主流らしい。
「あと、この部屋、暑すぎます」
「しかし、病人に風を当てるのは万病の元だと……」
「それも間違い。換気と温度調節は看護の基本!」
窓を少しだけ開け、鞄から簡易携帯扇風機を取り出す。
「それを……普段から持ち歩いているのですか?」
「夏場は普通に暑いじゃないですか」
埋め込まれた魔石を叩くと、ブウゥンと羽音が響き、ひんやりとした風が吹き出す。それをベッドの青年の顔付近に固定する。熱気が霧散し、青年の呼吸がみるみる楽になった。
「…………」
ルークが長い沈黙に落ちる。
「なんですか、ジロジロ見て」
「いえ……その魔術の発想、王宮の魔導師にすらありません」
「ええっ、もったいない! こんなに涼しくて快適なのに!」
「もったいないのは、その高精度な制御を、私生活のために落とし込んでいるあなたの才能のほうですよ」
呆れたように黙り込み、やがてルークは堪えきれなくなったように肩を揺らして吹き出した。
「……あなた、本当に変わっていますね。最高に面白い人だ」
「だから、それ全然褒め言葉になってませんってば」
リンネはルークの手を借りて青年の上半身を起こし、慎重に水を口に含ませていく。同時に、もう片方の手で右腕に浄化を重ねる。
コンマ数秒のタイミングを狙い、魔力の針で汚れを剥ぎ取るような作業。
「信じられない。こんな、精密制御……」
ルークが拳を握りしめて呟く。
「……人体って、すごく繊細にできているんですよ。乱暴に扱って肝心の中身を壊しちゃったら、何の意味もないでしょう」
――その瞬間、脳裏にモノクロの記憶が蘇った。
白い部屋。腕の中で、冷たくなっていく小さな命。
「……っ」
指先から、小さな温もりが零れていく。
(お願い……死なないで)
あの声だけが、今でも耳に残っている。
「…………」
無意識のうちに震える指先。
その時、ふわりと温かい気配が頬に触れた。
見上げると、あの精霊が涙を拭うかのように優しく頬を擦り寄せている。
「あ……」
胸が締め付けられる。
隣で見ていたルークが、低い声で尋ねた。
「その『光』……やはり、犬に似ていますね」
「……ルークさん、これが犬っぽく見えるんですか?」
「なんとなく、ですが。主人の機嫌を必死に伺っているように見えます」
言われて見れば、光は嬉しそうに後部を左右に振っている。
「前世で……飼ってたんです。たぶん」
秘密が、零れ落ちるように溢れた。
「すごく小さくて、白い犬を。記憶は曖昧で、名前すら思い出せないんですけど……。ただ、病気で死んじゃったことだけは、胸が痛くなるくらい覚えていて」
声が掠れる。愛おしさを込めて、手のひらを伸ばした。
「……当時の私の、世界の全てだったくらいに」
光は拒むことなく、掌へと寄り添った。
実体はないはずなのに、泣きたくなるほど確かな温もりが伝わってくる。
部屋に、優しい沈黙が満ちていく。
その時、青年が「ふぅ……」と、大きく息を吐き出した。
「……あ。熱が、下がってる!」
ルークが歓喜の声を上げる。黒い痣は消え、呼吸も安定していた。
「よかった……」
リンネの肩の力が抜け、自然と笑みがこぼれる。
誰かを救えた。その事実だけで、胸の奥が熱くなる。
安堵した瞬間。限界まで張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
魔力と精神力の反動が、強烈な目眩となって襲う。
「あ、れ……?」
視界がぐらりと揺れる。膝から力が抜け、冷たい床へ倒れ込むかと思われた、次の瞬間。
「危ない!」
鋭い声と共に、強い力で引き戻された。
柔らかいけれど、確かな衝撃。
気がつけば、ルークの逞しい両腕の中に、すっぽりと収まっていた。
「……あ」
近い。あまりにも近すぎる。
見上げた先、ルークの端正な顔がすぐ目の前にあった。固い胸板の感触と、熱い体温。思考回路がフリーズする。
ルークもまた、驚いたように銀灰色の瞳を大きく見開いたまま、耳の付け根から頬にかけてを真っ赤に染めていく。
「っ、だ、大丈夫です! 自力で立てますから!!」
リンネは爆発的な勢いで我に返り、固い胸を両手で全力で押し、脱兎のごとく数歩飛び退く。
「っ、全然大丈夫そうに見えませんが……! 顔が、その、湯気が立ちそうなくらい真っ赤ですよ!?」
「気のせいです! 部屋の換気がちょっと足りないせいで、熱がこもってるだけです!」
「さっき自分で換気して涼しいって言ったばかりでしょう!?」
本日二回目となる、全力の「気のせいです」を炸裂させ、リンネは顔から火が出そうになりながらぷいっとそっぽを向く。
ルークは何か言いかけて、結局何も言わずに苦笑した。
その二人の横で、青白い光の精霊は、ルークに対して強烈な不満を示すように、ぷいっとお尻を向けるような仕草で、ゆらゆらと不機嫌そうに揺れているのだった。




