第6話 予期せぬ来客
ここ数日、リンネはずっと落ち着かない日々を過ごしていた。
胸の奥が、細い針でちりちりと突つかれているように騒がしい。
「……なんで、うちの窓なんか見てたのよ」
薄暗い自室。通りを見下ろしながら、リンネは小さく身震いした。
脳裏に焼き付くのは、あの夜の男の姿だ。灰色の外套。月光を冷ややかに反射する銀灰色の髪。そして、こちらの部屋を射抜くような鋭い視線。
「偶然通りかかっただけ……なわけ、ないわよね」
平穏第一、目立たず静かに生きると心に誓っているリンネにとって、中央騎士団は関わってはいけない相手だ。
翌朝、看板を出しながら、リンネは胸の不安を吐き出すように大きく息を吐いた。この温かい日常を、誰にも壊されたくない。
そう願った、まさにその時だった。
――カラン、コロン。
軽やかな鈴の音が響く。
滑らかに店へ入ってきた男の姿を見た瞬間、リンネの全身が危険信号を鳴らした。
「おはようございます。いい朝ですね」
夏の陽光より爽やかな笑顔。記憶に新しい、例の不審者……もとい、中央騎士団のルークだった。
リンネは仮面のような営業スマイルを貼り付ける。
「……どうも。いらっしゃいませ、お客様?」
「おや。ずいぶん警戒されていますね?」
「滅相もございません。これでも歓迎しているつもりですが?」
「いえ、目が『一歩でも近づいたら通報するし今すぐ帰れ』って言ってます」
ルークは困ったように眉を下げて苦笑する。その仕草は柔らかいが、リンネの全身の細胞は危険信号を鳴らしていた。前髪の隙間から覗く瞳の奥には、こちらの防壁の隙間をじっくりと品定めするような光が宿っている。
「……お客様。何かご用でしょうか。ただの一般市民の店に、中央騎士様が立ち寄る理由が分かりませんが」
「あはは、そんなに刺々しいと心が折れてしまいますよ」
ルークはわざとらしく周囲を見回し、作業台に置かれた魔道具へ視線を滑らせた。
「医療ギルドの浄水器、オルガ食堂の冷風機。……あんな精密な術式、並の魔導師には組めない。貴女はいったい、何者なんです?」
「……ただのしがない付与術師です。それ以上でも以下でもありません」
リンネは努めて淡々と返すが、胃のあたりがキリキリと痛む。
相手はプロの観察眼を持つ中央騎士だ。安易な言い逃れは通用しないだろう。
「……そうですか。ならば、その『しがない術師様』にお尋ねしたい」
ルークはすっと表情を消し、声のトーンを一段階下げた。騎士特有の張り詰めた空気が店内に満ちる。
「……先日、貴女を視察した理由は、ある『厄介な案件』を抱えていたからです。国中の高名な治療師、術師、ありとあらゆる門戸を叩きましたが、すべて無駄足だった」
リンネは冷や汗が流れるのを必死に堪え、警戒心を露わにする。
「……それが私と何の関係が。今の話、聞かなかったことにしてもいいですか」
「いいえ。貴女なら、その『例外』になれる可能性がある」
ルークは一歩、踏み込んだ。距離が急激に縮まる。
「……自己紹介が遅れました。ルーク・ヴァンディール。中央騎士団の者です」
「……リンネです。で、騎士団の方が、こんな辺鄙な店に何の用ですか」
「……怪我人を匿っています。呪詛による魔力汚染。通常の医療では、どう足掻いても助からない」
リンネの顔から感情が消える。なぜ自分なのかと問うと、ルークは淡々と告げた。
「あんな魔力効率の塊、ただの街の発明家には作れない。……貴女のその技術、貸していただけませんか」
ルークの瞳が、真っ直ぐに彼女を射抜いている。その瞳には、目の前で消えかけようとしている仲間を助けたいという、必死な祈りだけが宿っていた。
(……あーあ、もう。私ってば、本当に学習しないなぁ)
リンネは心の中で盛大に天を仰いだ。
数秒の沈黙の後、リンネは今日一番の深い溜息を吐いた。
「……場所は、どこ」
ルークの案内に従って連れてこられたのは、街外れのうらぶれた古い宿の一室だった。私服の騎士たちが異様な空気で警備している。
室内には、異様な熱気がこもっていた。
そして何より異常なのは、ベッドの上の騎士の右腕だった。まるで生きている黒い蛇のような、禍々しい変異した痣が肘の上まで広がっている。
「……これは、ただの暴走じゃない。魔力汚染ね」
「変異種の魔獣との戦闘で、傷口から直接呪詛を流し込まれました」
後ろに立つルークの声が一段と低くなる。
リンネは患者の枕元へと近づき、その腕を注意深く観察した。
想像以上にマズい。現代の一般的な治療師の知識なら、汚染が全身に回る前に即座に「腕の切断」を選ぶレベルだ。
「これまでに投与した薬は?」
「解毒薬も聖水も、すべて肉体が拒絶して吐き出しました。術式が反発し合っている状態で……」
「でしょうね。器である体に無理やり注げば、中で喧嘩して破裂するだけよ」
リンネは深く息を吐き、思考を前世の「知識」へと切り替える。
「……水」
「はい!」
ルークが弾かれたように、部屋の隅にあった水桶を急いで運んでくる。
リンネはその水面へ向けて、迷いなく両手をかざした。
深く、深く集中する。
脳内で、付与術式を極小まで細かく組み上げていく。
前世の医療知識。衛生概念。
細胞を傷つけず、有害な菌や毒素だけを物理的に分解・消毒するイメージ。
水全体に、その概念を染み込ませていく。
じわ、とリンネの手のひらから白い光が放たれ、水へと溶け込んでいった。
人間の限界を超えた、極めて精密な「概念・浄化付与」。
「……なんだ、その、デタラメな魔力制御は……」
後ろでそれを見ていたルークが、言葉を失って息を呑むのが分かった。だが、今のリンネには答える余裕などない。
「次は布。清潔なやつを」
「は、はいっ!」
受け取った真っ白な布を付与水へたっぷりと浸し、躊躇なく患者の黒い患部へと当てる。
――じゅううううっ!
室内に、肉を焼くような嫌な音と、激しい水蒸気が上がった。
しかしそれは肉が焼けたのではない。布が触れた場所から、黒い痣がまるで自ら退散するように、黒煙の魔力となって次々と蒸発していく。
「よし、汚染の核は浮いた。……あとは全体の熱を下げないとね。冷却術式、吸収……基板を循環に組み替え……」
ぶつぶつと呪文のようにお呟きながら、リンネはさらに術式をその場で書き換えていく。
普通の付与術師なら絶対にやらない、否、理論が飛躍しすぎていてできない芸当。
前世で基礎知識だけれど、医療を知っているリンネにとっては、これが一番シンプルで自然な思考の道筋だった。
熱が高いなら、太い血管を冷やして熱を下げる。
熱の原因を排除する。そのために、薬を全身に循環させる。
汚染されているなら、水で綺麗に洗い流す。
ただそれだけの、至極単純な引き算だ。
それから、およそ一時間後。
部屋を支配していた不快な熱気は消え去り、ベッドの上の騎士の呼吸は、まるで眠っているかのように穏やかなものへと変わっていた。
あれほど腕を侵食していた黒い蛇のような痣も、綺麗さっぱり消え失せている。
「……信じられない。奇跡だ……」
ルークが寝台の横で、呆然と、しかし噛みしめるように呟いた。
当のリンネは、すべての魔力と集中力を使い果たし、部屋の隅の丸椅子へとぐったりと崩れ落ちていた。
「つ、疲れた……。肩がバッキバキに凝ったわ……」
「……本当に、ありがとうございました。あなたのおかげで、仲間が助かった」
ルークの声は、先ほどまでの張り詰めたものではなく、一人の青年の心からの安堵に満ちていた。
その偽りのない様子を見て、リンネの唇からも自然と笑みがこぼれる。
「……ふぅ。まぁ、助かったなら何よりですよ。お代はきっちり、上乗せして請求しますけどね」
「ええ、いくらでも」
ルークはしばらくの間、黙ったままリンネの横顔をじっと見つめていた。
高位魔導師すら匙を投げた呪詛を、短時間で解決してみせる圧倒的な技術力。
なのに、それを鼻にかける風でもなく、ただ「疲れた」と零す無欲さ。
口では文句を言いながらも、目の前の命を救うために誰よりも必死になってくれたその姿にルークは、完全に心を奪われ、目を離せなくなっていた。
「……あなた、本当に何者なんですか?」
「何度も言わせないでください。ただのしがない一般市民、しがない付与術師です」
「国中の全機関が、喉から手が出るほど欲しがるレベルの技術を持っておいて?」
「私はただ、自分が快適で便利な生活を送りたくて、付与術を追求しただけです!」
「その追求の規模が、個人の領域で収まらないのでは」
「そもそも! あなた達が、わざわざこんな辺鄙な店にトラブルを持ち込んでくるから悪いんですよ!」
ルークの視線に耐えかねて、リンネはついに溜まっていた本音を盛大にぶちまけた。
「私はただ! 静かに暮らしたいの! 平穏第一、安全第二なんです私は!」
一瞬、ルークは呆気にとられたようにぽかんと口を開けた。
だが、彼女のあまりの必死さに、お腹を抱えて吹き出した。
「……あはは! ははは、面白いな。本当に、変わった人だ」
「それ、絶対に褒めてませんよね?」
「いいえ、心からの敬意を込めて褒めています」
「全く嬉しくないです」
リンネがむっとルークを睨みつけた、その時だった。
部屋の隅、誰もいないはずの暗がりで、ふわりと幻想的な燐光が揺らめいた。
「――っ!?」
光は小さな獣の形を成し、弾むようにリンネの肩へ飛び乗った。
「…………」
「…………」
部屋に、恐ろしい沈黙が流れる。ルークがその切れ長の目を見開いた。
「……精霊……? いや、この純度と、明確な意思の宿り方……」
「違います!」
「いや、どう見ても精霊ですよね?」
「違います」
「……どう見ても精霊です」
リンネは床に突っ伏した。
よりによって、なぜこのタイミングで。
肩の上では、可愛い精霊が何も知らぬ顔で頬に光の粒子をすり寄せているのだった。




