第5話 奇妙な落とし物と気配
翌朝、リンネはひどい寝不足のまま目を覚ました。
「……絶対、夢じゃない」
まだ開店前の薄暗いカウンター。木肌に突っ伏したまま、呪文のように呟く。
昨夜の光の輪郭。肩を包み込んだ、あの日向ぼっこのような微かな温もり。
「疲れによる脳のバグ」として処理しようとしたが、身体がそれを断固として拒否していた。
言い逃れのできない証拠が、すぐ横の窓枠に残っているからだ。
「バッチリ足跡が残ってるんだもんなぁ……」
窓枠の小さな光の粒を指先で触れてみる。生き物の体温のような、あたたかさが今も微かに残っていた。
「神秘的すぎて逆に怖い……」
この世界において精霊や幻獣は、神話の中の崇高な存在だ。
一介の付与術師が遭遇していい相手ではない。全力で距離を置きたいのが本音だった。
「よし、忘れよう。何も見てない。私はただの、ちょっと器用な三流付与術師」
リンネは深呼吸し、両頬をパンパンと叩いて現実逃避のシャッターを下ろす。考えて答えの出ないものは、脳の隅へ押し込む。これが彼女の生存戦略だ。
いつも通り開店準備を済ませ、重い木戸を開ける。
夏の強い日差しが降り注ぐ市場通りは、今日も騒がしかった。違うのは、灰色の外套を纏った中央騎士団が本格的に巡回を始めていることだけ。
騎士たちが通りを横切るたび、リンネはカウンターの陰で気配を徹底的に殺した。
「どうか素通りしてください。私には関わらないで……」
本気の祈りも虚しく、真鍮のドアベルが上品な音を立てて鳴る。
「いらっしゃい……ま、せ……」
営業スマイルは、そこに立っていた男の姿を見た瞬間、凍りついた。
中央騎士団の制服を端正に着こなした、銀灰色の髪の若い男。
いかにも「王都の中央から来ました」という、洗練された品が溢れ出ている。
リンネの脳内の警戒アラートが、最大値を叩き出した。
「……少し、中を見せてもらっても構いませんか?」
声は穏やかだった。だが、リンネの直感は警鐘を鳴らし続ける。
(やばい。本物だ。こんなお貴族様に目をつけられたら、王都の地下工房に連行されて人生終了だ……!)
「――ええ、どうぞ。狭い店ですが、ご自由に」
鉄の意志でパニックを封印し、完璧な接客スマイルを浮かべる。
若い騎士――ルークは、興味深そうに店内を見回した。
視線が、簡易コンロ、魔力灯、浄水ポット、小型送風板へと、恐ろしいほど的確に注がれていく。
「……素晴らしい。非常に便利そうですね」
「ただの田舎の、しがない生活用品ですから」
「付与の刻印は……すべて、あなたが?」
「はい。それくらいしか取り柄がありませんので」
ルークは一歩近づき、簡易コンロの回路をじっと見つめた。
「……面白い」
ルークの指先が、流れるように刻印をなぞる。
「……無駄がない」
その一言だけだった。だが、その瞳には底知れない洞察が宿っている。
(……見抜かれた)
「独学の、我流の雑なものですので。王都の素晴らしい魔法に比べれば、ただの子供騙しですよ」
「独学……? これで?」
ルークが驚いたように目を丸くする。その声には、初めてわずかな驚きが滲んでいた。
これ以上はボロが出る。
「それよりも、何かお探しですか? 当店の品は、戦いには全く役に立ちませんが」
「ああ、すまない。街の視察のついでだ。……興味がある、一つ譲ってもらえるだろうか」
視察のついでに寿命を削りに来ないでほしい。
ルークはそれ以上追求せず、簡易コンロを一つ購入すると、「良い店だね」と爽やかに微笑んで店を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、リンネはカウンターの裏側に崩れ落ちた。
「はあぁぁぁ……っ!」
確実に寿命が縮んだ。あの冷徹な観察眼。二度と会いたくない。
午後の採集。
限界を迎えたメンタルを癒やすため、森へ向かう。
「……自然が一番だよ……」
木陰の涼しさに救われかけた、その時だった。
草むらを進んでいた靴底が、カツンと硬質な音を立てる。
「石ころ……にしては?」
下草を分けると、拳大の鉱石があった。
透明度の高い青色。内部では、液体のような光がゆらゆらと揺れている。
「……誰かが落とした?」
市場のどの魔石とも質が違う。もっと純粋で、温かい。生きているような温もりを感じる。
思わずその表面に指先で触れると、石が生き物の鼓動のようにぴくりと震えた。
反射的に手を引っ込めたが、青い石は静かに佇んでいる。
持ち帰るべきか悩んだが、このまま森に置いておくのも不気味で、籠の奥に仕舞い込んだ。
夜。店を閉め、作業机に石を置く。
「さて……あなた、一体何者なの?」
微量の魔力を流し込む。
通常の魔石なら属性が返ってくるはずだが、石は魔力を底なし沼のように吸収した。
それどころか、内部の光の帯が意思を得たように激しく駆け回り始める。
「っ、やっぱり怖い!」
椅子の背に逃げた。しかし石は攻撃せず、暖かな青い光を部屋に満たしていく。
呼応するように、部屋の隅の暗がりから、あの光の粒が湧き上がった。
「ま、また来た……!」
輪郭がはっきりしている。小さな四足の獣の形。丸い耳。ふさふさとした尻尾。
「……あの子、なの?」
光の獣は嬉しそうに跳ね、青い石の周囲をダンスするように回った。
大好きな飼い主に褒められて喜ぶ、犬そのものの仕草。
混乱しながらも、恐怖は消えていた。胸の奥からこみ上げる、圧倒的な「懐かしさ」だけがそこにあった。
――その時だった。
コツン、コツン、と窓ガラスが鳴った。
「ひゃいっっ!?」
跳び上がって心臓を抑える。恐る恐るカーテンの隙間から覗く。
二階の窓の外には、誰もいない。だが、街灯も届かない路地裏の暗がりに、一人の男が佇んでいた。
「…………」
深い灰色の外套。騎士団の制服。ルークだった。
昼間の柔らかな笑みは消え、任務に就く冷徹な騎士の眼光を宿している。
彼の視線は窓そのものではなく、部屋の奥で揺れる青い光を探るように向けられていた。
彼はしばらくそうして佇み、やがて静かに踵を返すと、気配を消して闇の中へ去っていった。
「……どうして、あの人が」
恐怖で芯から凍りつく。
どこから? 一体、何を? 嫌な汗が背中を伝う。
「……見られた?」
ぽつりと呟いたその時、ふわりと、あの光の獣が震える肩の上へと飛び乗った。
質量はない。それでも、日向のようなぬくもりが伝わってくる。
「大丈夫だよ」と、彼女を励ましているかのような、絶対的な安心感。
窓の外では、夜風が静かに木々を揺らしている。
リンネは肩に残るぬくもりを確かめるようにして、いつまでも、闇に消えた騎士のいた場所を見つめていた。
路地を離れながら、ルークは一度だけ振り返った。
「……やはり、あの光か」




