第4話 騎士団の影
辺境の街ラウノには、滅多に「中央」の人間は来ない。
王都から馬車を何日も走らせなければ辿り着けないこの街は、主要な交易路のどん詰まりにある小さな中継地にすぎなかった。
良くも悪くも忘れ去られた、平和でのどかな田舎。
だからこそ、その噂は乾いた真夏の野火のように、あっという間に街中へ広がっていった。
「おい、聞いたか? 中央騎士団がこっちに向かってるらしいぞ」
その一言だけで、市場通りは朝から重苦しいざわめきに包まれていた。
じりじりと照りつける太陽の下、いつもなら威勢のいい商人たちの声もどこかトーンが低い。
「増税のための予備調査だって噂だ。いよいよこの辺境からも毟り取る気か?」
「いやいや、南の国境付近で不穏な動きがあるから、魔物被害の防衛線の確認だろ」
「どっちにしろ、王都直属の兵が来るって話だ。碌なことにならねぇよ」
年季の入ったエプロンで汗を拭いながら、パン屋の主人が声を潜める。
向かいの八百屋も無骨な顔をしかめ、不機嫌そうに何度も頷いていた。
リンネは店の薄暗い木製カウンターに肘をつき、その会話を耳に挟みながら、必死に白目を剥いて現実逃避を試みていた。
「聞こえない、何も聞こえない……。私は今、ただの無機質な木箱……」
ぱたん、と大きな音を立てて手元の帳簿を閉じる。
胸の奥が不吉な音を立てて警鐘を鳴らしていた。嫌な予感しかしない。
リンネの知る限りでも、こういう「中央組織の介入」は、大抵の場合において現場の平穏を容赦なく踏みにじる面倒事を運んでくるものだ。
辺境の人間が中央を恐れる理由は単純だった。
優秀だと見なされた瞬間、その人生は中央のものになる。
鍛冶師は王都へ。薬師は貴族に囲われる。珍しい技術を持つ者は、大商会に買われる。
断れば――穏便では済まない。
だからこそ、リンネはラウノの街に馴染み、「ちょっと便利、でも唯一無二ではない、ギリギリ埋もれる程度の三流付与術師」を完璧に演じ、徹底して目立たないように生きてきたのだ。
「……なのに」
リンネは遠い目をして、店の奥へと視線を向けた。
そこには、昨日オルガの食堂に納品した冷風送風機の予備(さらに使い勝手を良くした改良版)が置いてある。
先ほど通りすがりの常連から聞いた話では、オルガの店の「なんか涼しい奇妙な箱」は、信じられないほど客の間で大好評らしい。
非常によろしくない流れだった。
「いや、でも大丈夫。落ち着こう、私」
トントンと机を指先で叩き、自分に必死に言い聞かせる。
「王都の煌びやかな魔法に慣れた中央の人間が、辺境の食堂に置いてある『ちょっと風が出るだけの不格好な木箱』なんて、一瞥もくれるわけがない……。気に留めるはずがないんだ」
祈るような思いでいたところへ、カランカランとドアベルが勢いよく鳴り響いた。
「リンネちゃーーん! 大変だよ!」
「オルガさん……。お願いですから、その元気な声をあと3オクターブほど下げてください……」
息を切らせて飛び込んできたのは、まさにその不安の元凶だった。
「聞いたかい!? 中央から、本物の騎士様が来るんだってさ!」
「お陰様で、嫌というほど耳に入ってきました。できれば一生聞きたくなかったです」
「それがね、騎士団の人たちがうちの食堂を使うかもしれないって、街の役所から打診があったんだよ! どうしよう!」
「へぇー……。それは光栄なことですねぇ……」
リンネの瞳から完全にハイライトが消えた。
感情を凍結させた彼女に、オルガは気づく様子もなく、むしろ鼻の穴を膨らませて興奮気味に続ける。
「だからさ、せっかくだからリンネちゃんに貰ったあの冷風機、お偉いさんたちの前でガンガン回して自慢してやろうと思って! 辺境を舐めるなってね!」
「絶対にやめてください死んでしまいます」
「なんでさ! あんなに凄いもの、褒めてもらえるに決まってるじゃないかい!」
「『便利』で止まっていればいいんです! 『便利すぎる』ものは、持っているだけで身を滅ぼす劇薬になるんですよ!」
リンネのただならぬ気迫と真顔に、オルガは圧倒されたように数歩引き下がり、不満そうに唇を尖らせた。
「だって、便利なんだから仕方ないじゃない。……それにさ、リンネちゃん、本当はもっと凄いもの、自宅に隠してるんだろ?」
「…………」
痛いところを突かれ、リンネは完全に沈黙した。心臓が嫌な跳ね方をする。
その一瞬の硬直を見逃さず、オルガはニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「図星かい」
「……全部、一般家庭の生活を豊かにするための、慎ましい試作品です」
「否定はしないんだねぇ」
「便利な生活を貪欲に追求した結果、たまたま形になっただけです!」
「つまり、やっぱり隠し持ってるんだね?」
「持ってます」
誘導尋問に引っかかり、ついうっかり口を滑らせてしまい、リンネは自分の口を慌てて両手で塞いだ。
時すでに遅し。オルガは腹を抱えて大笑いする。
「あっははは! やっぱりね! あんたのそういう、隠しきれない天才肌なところ、あたしは大好きだよ!」
「自分で墓穴を掘った……。もうだめだ、私の平穏が……」
リンネががっくりと首をうなだれ、カウンターの木肌に額をゴツンとぶつけて突っ伏した、その時。
開け放たれた入り口の向こう、陽炎が揺れる市場の通りが、奇妙なほど静まり返っていくのに気づく。
ざわめきが引いた空間を、見慣れない一団がゆっくりと横切っていく。
まとっているのは、この地方の荒い麻布とは一線を画す、上質な灰色の防刃外套。腰には一糸乱れぬ意匠の長剣が佩かれ、その胸元には、太陽の光を浴びて鈍く輝く「王国の双頭鷲」の紋章が刻まれている。
市場の喧騒が嘘のように引き波となって消えていく。住民たちが一斉に壁際に寄り、息を殺してその一団を見送っていた。
「おい、あれ……中央の『第一騎士団』の先遣隊じゃないか?」
「なんでそんな本物のエリートが、こんな僻地へ……」
通りが再び不穏なざわめきに支配される中、リンネはカウンターに突っ伏したまま、じりじりと身体を低くして視線を床へと落とした。
「私は空気。空気は職務質問されない。早く通り過ぎて、そのまま王都へ帰ってくださいお願いします……」
「露骨に気配を消すねぇ、リンネちゃん」
「これが私の、唯一にして最強の危機管理能力なんです」
洗練された足音を響かせ、重厚な武装を揺らしながら、騎士たちは周囲を鋭く警戒しつつ歩みを進めていく。
一団のやや後方を歩いていた、ひときわ体躯の優れた一人の騎士が、ふと足を止めた。
深く被った外套のフードの隙間から、凍てつくような、だが奇妙に理知的な双眸がのぞく。
その双眸は、街並みに紛れるように建つ「リンネ小物店」を静かに捉えていた。
背筋に冷たいものが走り、リンネは反射的にさらに首を縮めて顔を完全に隠した。
恐怖が肌を刺す。別に法に触れるような大罪を犯しているわけではない。
だが、あの鋭利な刃物のような視線に射すくめられた瞬間、もし自分の自宅にあるあの「自重しないハイテク空間」を見られたら、自分の人生が根底から覆る――そんな、冷や汗が止まらないほどの確信めいた恐怖が走ったのだ。
やがて、その騎士は小さく顎を引くと、何事もなかったかのように再び歩き出し、一団とともに通りの向こうへと消えていった。
「……オルガさん。私、今日はもう店を閉めます」
「まだ昼前だよ!? お天道様はあんなに高いのに!」
「急な体調不良です」
「精神的なやつね」
「大正解です。お気をつけてお帰りください」
結局、その日は街全体が騎士団の影に怯えるように浮ついており、客足も完全に途絶えていた。
夕方、周囲が薄暗くなり始めるのを待つまでもなく、リンネはこれまでにない早さで店の頑丈な木戸を閉め、閂を厳重に下ろすと、一目散に自宅へと引きこもることに成功した。
「玄関の鍵よし。窓の補助錠よし。私の存在感消失、完全によし」
誰もいない自宅のリビングで、自分に言い聞かせるように呟く。
安全第一。これこそが、この異世界で掴み取った、スローライフの防衛線なのだ。
徹底した危機回避こそがすべてだ。
しかし、そうして引きこもったリンネの自宅は、相変わらずこの世界の基準からすれば異質極まりない空間だった。
ひんやりとした白い冷気を蓄える保冷庫。いつでも適温の湯を供給するボイラー装置。魔力を流せばパッと部屋全体を均一に照らす、配線隠しの施された自動点灯式の魔力照明。そして、部屋の隅で静かに涼しい空気を循環させている風循環装置。
普通の一般家庭であれば、一生に一つ買い与えられるかどうかという高価、かつ未知の魔導具たちが、狭い室内に雑然と配置されている。
「……やっぱり、明日になったら一度全部分解して、普通の家具に偽装しようかな」
本気で背筋が寒くなった。今日見たあの中央の騎士たちの、あの底知れない眼光。もし万が一にでも、この部屋に踏み込まれたら一発でアウトだ。
リンネは落ち着かない気持ちを紛らわせるように、オーク材の作業机に向かった。机の上には、未だに分解途中の試作品が転がっている。
「小型の、自立型回転機構……」
相変わらず、前世の「扇風機」の完全再現には苦戦を強いられていた。
風をただ直進させるのではなく、羽根を滑らかに、かつ永久機関のように回したい。だが、うろ覚えの電磁気学的な概念は、うまく回路に落とし込めないのだ。
「なんで前世の私は、がちがちの文系人間だったんだろう……。少しでも電気工学とか物理の知識があれば、もっと綺麗な数式で刻印を組めたのに……」
溜息混じりの愚痴は、狭い室内の冷気に白く溶けて消える。理系の知識をのどから手が出るほど欲していると、ふいに背後の窓ガラスから、コツン、と微かな音が響いた。
「……?」
最初は、夜風に煽られた木の枝か何かが当たったのだと思った。
だが、数秒置いて、再び明確な意志を持つように、コツン、コツン、とガラスを叩く音が響く。
リンネは瞬時に緊張で身体を強張らせ、作業机のナイフにそっと手を伸ばしながら、慎重に足音を殺して窓辺へと近づいた。
呼吸を整え、意を決して窓を細く開ける。
そこには、夜の静寂があるだけで、人影も、鳥の姿もなかった。
「……気のせい、なわけないよね」
視線を落としたリンネは、息を呑んだ。
二階の窓枠の、埃が薄く積もった木肌の上に、小さな、本当に小さな「足跡」がくっきりと残されていた。
それはまるで、小さな動物がそこに足をかけたかのような丸い跡だった。
「…………」
あり得ない。ここは地面から何メートルも離れた二階の窓だ。足場にできるものすらない。普通の動物が登ってこられるはずがない。
何より不気味だったのは、その残された足跡が、燐光のように淡く、青白く光を放っていることだった。
「えっ, なにこれ……嘘、怖いんだけど……」
恐怖で慌てて後ずさり、背中を作業机にぶつけた瞬間だった。
部屋の薄暗い隅の空間から、あの青白い光の粒が湧き上がるように現れた。
ここ数日、自宅で度々目撃していた、あの蛍のような光。
だが、今夜の光は、これまでよりも明らかに密度が濃く、その輪郭がはっきりと形作られていく。
ちょこんとした丸い耳。楽しげに左右に揺れる、ふわふわとした尻尾のシルエット。
それはどう見ても、光で描かれた「小さな子犬」の姿そのものだった。
「…………」
リンネの思考が完全に停止した。
光の子犬は、まるで親しい飼い主に甘えるように、首を小さく傾げてこちらをじっと見つめている――そんな気がした。
「いや、待って、落ち着け私」
激しく脈打つ胸を押さえ、手のひらで額をきつく覆った。
「これは今日の騎士団のストレスによる一過性の幻覚。もしくは、夏バテによる重度の脳のバグ……!」
しかし、光の子犬は彼女の混乱を他所に、ふよふよと楽しげに室内を飛び回り、作業机の上に置かれた未完成の魔導回路へと近づいた。
そして、その小さな鼻先を擦り付けるように魔石に触れる。
途端に、リンネが何時間も悩んでいた複雑な未完成の魔導回路が、嘘のように滑らかな青い光を帯びて駆動し始めた。
「……精霊、なの?」
リンネの口から、掠れた声が漏れる。
この世界に精霊という超常の存在がいることは知っていた。だがそれは大自然の精髄であり、普通は決して人間の前には姿を現さない。国家お抱えの最高位の魔導師や神官ですら、一生に一度交信できるかどうかと言われる、文字通りの「生きた神話」だ。
それが、なぜ辺境の、こんな自重しないオタク部屋に居座っているのか。
「いやいやいや! 困る困る困る! 大問題だよ!」
激しく頭を振って髪をかきむしる。
「ただでさえ中央の騎士たちが来てピリピリしてるのに、こんな高位の精霊なんて引き連れてたら、目立たないどころか一発で国家最高機密扱いで強制連行だよ!?」
だが、光の子犬はそんな人間の大人の事情など知る由もないと言わんばかりに、嬉しそうに宙を飛び回る。
そして、すとん、とリンネの肩の上へ飛び乗るようにして、その身を寄せた。
「…………」
質量はないはずだった。なのに、彼女の肩口にほんのりとした、日向ぼっこをした後のような温かさが伝わってくる。
同時に、魂の深い場所を激しく揺さぶるような、あの圧倒的な「郷愁」と「愛おしさ」が、涙となって溢れ出しそうになるほど胸を締め付けた。
そのあまりにも優しく、懐かしい感覚に、リンネは浅く息を呑む。
「……まさか、あなた、本当に……」
だが、その名前を言葉にして紡ぎ出すよりも早く、光の子犬はパッと弾けるように空気中に霧散し、消え去ってしまった。
しんと静まり返る、ハイテク空間の自室。
肩にはもう何もいない。
それでも、ぬくもりだけは確かに残っていた。
「……本当に、何なのよ」
返事はない。
ただ、窓辺に残された青白く光る小さな足跡だけが、静かに夜へ溶けていった。




