第3話 街の人々との交流と小さなお悩み解決
容赦のない、夏の盛りだった。
辺境の街ラウノにも、ねっとりとした酷暑の空気が押し寄せている。
昼下がりにもなれば、色褪せた石畳の道は太陽の光を吸い込んでじりじりと熱を放ち、陽炎がゆらゆらと揺れていた。
市場の通りからは、
「今日の魚はすぐ傷む!」
と悲鳴を上げる魚屋の声や、高価な氷魔石を抱えて真っ赤な顔で走り回る肉屋の足音が響いてくる。
行き交う住民たちもみな、衣服の襟元をパタパタと揺らして風を送りながら、「暑い」「溶ける」と呪文のように連呼していた。
当然、リンネとて例外ではない。
「……むり。もう一歩も動けない」
「リンネ小物店」の薄暗い店内。
リンネはカウンターの木肌に、べったりと片頬を突っ伏して、うめき声を漏らしていた。
一応、客用の待合ベンチの足元には、風属性付与を施した小型の送風板が置いてあり、微かに空気を循環させている。
だが、カウンターの裏にいるリンネの元までは届かない。
「目立たない範囲で、慎ましく快適に」
――それがこの街で生きるリンネの絶対鉄則だった。
自分だけ涼しい顔をして特等席に座っていれば、不審がられるのは目に見えている。
「でも……家に帰れば、天国が待ってるんだよなぁ……」
自宅の寝室には、昨日完成させたばかりの改良型冷風循環装置がある。
保冷魔石でキンキンに冷やした金属筒に、風属性の刻印で外気を通し、部屋全体に冷たい空力を回す簡易エアコンだ。
魔力の消費効率はすこぶる悪い。けれど、抜群に涼しい。やはり前世の知恵は偉大だ。
「……まあ、あれをこの店で売ったら、私の平穏な人生は終わるんだけど」
間違いなく、領主か大商人あたりに見つかって、どこかの地下工房にでも終身幽閉されて囲い込まれる。
その点に関するリンネの危機察知能力は、野生動物並みに正しかった。
カランカラン、と涼やかな真鍮のドアベルが、どこか切迫した音を立てて鳴った。
「リンネちゃん! あんたの妙に便利な道具、なんとかならないかい!」
「あ、オルガさん。こんにちは……」
飛び込んできたのは、近所で繁盛している大衆食堂の女主人、オルガだった。
いつもなら恰幅のいい身体を揺らして豪快に笑う彼女だが、今日は額に滝のような汗を浮かべ、エプロンを固く握りしめて血相を変えている。
「助けておくれよ! この暑さで厨房の肉が傷んじまいそうなんだ!」
「あー……」
やっぱり来たか。
リンネはカウンターに顎を乗せたまま、遠い目をした。
「ただでさえ火を使う厨房が、今は地獄の業火みたいに熱くてねぇ! 氷魔石は値上がりする一方だし、冷却樽に突っ込んでも全然冷えやしない! 客席まで蒸し風呂みたいになって、常連たちがみんなぐったりしてるんだ!」
「夏ですからね……。今年は特に酷いですし」
「なんかないかい!? リンネちゃん、いつもわけのわからない、妙に便利な道具をこっそり作ってるだろ!?」
「わけのわからないって言いましたね」
「最大級の褒め言葉さ!」
どうやらオルガの中では、技術者への最高の賛辞らしい。
リンネはむくりと上体を起こし、腕を組んで眉をひそめた。
本音を言えば、彼女を救う方法はいくつかある。
自宅にある冷風循環装置の出力をガクンと落とし、木箱にでも詰め込んで「ちょっとした冷風機」として渡せばいい。
だが、この世界において「夏を涼しく過ごす」という概念そのものが、貴族や豪商といった特権階級だけのものだ。
一般市民の食堂にそんなハイテク機器が鎮座していれば、一発で噂が広まってしまう。
「うーん……」
リンネは激しく葛藤した。
平穏に暮らしたい。目立ちたくはない。
けれど、いつもおまけの惣菜を分けてくれる気前のいいオルガが、こんなに困り果てているのを突き放すこともできなかった。
前世の自分も、きっとこういう妙に押しに弱い性格だったのだろう。
だからこそ、あの小さな愛犬を亡くした時、世界が崩壊したような深い絶望に囚われたのだ。
「……ちょっと、ここで待っててください」
リンネは重い腰を上げ、店の奥にある薄暗い物置へと向かった。
棚の最下段、埃を被った古い木箱の底から、とある試作品を引っ張り出す。
それは丸太をくり抜いたような無骨な木製の筒で、内部には極小の風属性魔石と、かなり劣化して出力の出ない冷却魔石が組み込まれていた。
「これなら……ギリギリ、魔法の範疇で言い訳できるかな」
冷気の出力は、氷を近づけた時の冷たい空気程度。
風量も、団扇でそよそよと煽がれるくらいに抑えてある。
エアコンには程遠いが、それでも熱気がこもる厨房に置けば、天と地ほどの差があるはずだ。
リンネはそれを持って店先へ戻り、カウンターの上にドンと置いた。
「これ、まだ試作品なんですけど」
「おおっ!? なんだいその小さい大砲みたいなのは!」
「『冷風送風機』です。……まあ、ちょっと涼しい風が出るだけの箱ですよ」
オルガは目を丸くし、筒の先端を覗き込もうとした。
「風が冷たい……? そんなことが、この木の塊でできるのかい!?」
「できます。ただし、期待しすぎは禁止です。団扇より少しマシ、そのくらいですからね。魔石の消費も早いので、こまめに魔力を通してください」
「十分、十分だよ! 試させておくれ!」
リンネが筒の側面の小さなレバーをカチリと引くと、内部の刻印に魔力が通った。
ふわり、と優しく、ひんやりとした涼風がオルガの汗ばんだ顔を撫でる。
オルガの表情が、劇的に固まった。
ピキ、と静止したまま動かない。
「……オルガさん? 大丈夫ですか?」
「……リンネちゃん、ここは天国かい? 私はいつの間に死んだんだい?」
「大げさですね、ただの涼しい風ですってば」
「大げさなもんか! なんだいこれ、涼しい! いや、冷たい! 本当に風がひんやりしてるよ!」
オルガの声が大きくなるのを察知し、リンネは慌てて人差し指を唇に当てた。
幸い、今は時間帯的に通りに人影はない。
「しーっ! 声が大きい! 静かにしてください!」
「はっ……! ご、ごめんよ」
オルガも慌てて両手で口を押さえ、左右をキョロキョロと見回してから、蚊の鳴くような小声で囁いた。
「……ねえ、これ、絶対に高く売れるよ。街中の宿屋や酒場が泣いてすがるレベルだよ」
「だから、売らないんですってば」
「なんでさ! 大儲けできるじゃないかい!」
「目立ちたくないからです。私は静かに細々と生きたいんです」
リンネの鉄の意志がこもった即答に、オルガはしばらく「もったいないねぇ……」と顔をしかめていた。
だが、彼女もこの治安の悪い辺境で長く商売をしている身だ。
身の丈に合わない技術や富を持った者が、どんな末路をたどるか、知識としては知っている。
「……まあ、中央の貴族様に見つかったら、お買い上げという名の強制没収だもんねぇ」
「でしょう? だから内緒ですよ」
「分かってるさ。で、これはいくらだい?」
「え?」
「試作品だって、タダでもらうわけにいかないよ。いくら出せば譲ってくれる?」
リンネは少し指先を丸めて考えた。
材料費と、出力をわざわざ落とした手間を考えれば、本当なら金貨の1枚でも請求したいところだ。
だが、身内のようなオルガに欠陥品を売りつける気は毛頭ない。
「……銀貨3枚で」
「安っ!?」
「試作品ですから」
「試作品でも安いよ! これなら銀貨10枚でも安いくらいだよ!」
「いいんです、その代わり、実際に厨房で使ってみた燃費とか、風の具合の感想を後で細かく教えてください。それが開発費代わりです」
オルガはしばらく納得がいかないように唸っていたが、やがて真剣な顔つきになってリンネを見つめた。
「リンネちゃん」
「はい?」
「あんた、本当に商売が下手くそだね」
「自覚はあります」
ふふ、とリンネは自嘲気味に笑った。
その日の夕方。
リンネは様子見を兼ねて、オルガの食堂へと足を運んだ。
引き戸を開けると、店内はいつも以上の熱気と活気に満ちていた。
驚いたことに、客たちがぐったりするどころか、楽しそうにエールを酌み交わしている。
「おお、リンネちゃん! いらっしゃい!」
厨房の奥から、心なしかいつもより涼しげな顔をしたオルガが顔を出した。
客席の隅、目立たない棚の上に、例の「冷風送風機」がひっそりと設置されていた。
そこから、そよ風のような控えめな冷気が、客席の空間へ向けてじわじわと流されている。
「……なぁ、今日のオルガの店、なんか居心地よくないか?」
「ああ、気のせいかいつもより汗が引くのが早い気がするな。飯が美味いよ」
客たちはそれが魔導具の力だとは気づかず、ただ「今日の気候のせいか」と不思議そうに笑い合っている。
リンネは胸をなで下ろした。
――これくらいなら、誰も気づかない。
この「気のせいか居心地がいい」くらいが、この街における生存戦略の限界点だ。
「お陰で厨房の肉も痛まずに済んだよ! 本当に救われた、ありがとうね!」
オルガが厨房から冷たい果実水を差し出しながら、満面の笑みを浮かべる。
その屈託のない感謝の笑顔を見ていると、リンネの心にもじんわりと温かい灯がともるようだった。
「どういたしまして。お役に立てたならよかったです」
食堂を出る頃には、辺境の広い空は燃えるような茜色に染まっていた。
夕暮れの心地よい涼風を感じながら、リンネは市場通りをのんびりと歩いていた。
すると、通りを一本外れた薄暗い路地の端で、小さな人影がうずくまっているのが目に入った。
小さな男の子が、膝に顔を埋めて肩を小さく揺らしている。
「……どうしたの?」
迷子だろうか。
リンネがそっと近づいて声をかけると、男の子は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、しゃくりあげて言った。
「わんちゃんが……わんちゃんが、いなくなっちゃったの……」
その単語が耳に飛び込んできた瞬間、リンネの心臓がどくん、と大きく跳ねた。
身体が、自分の意志とは無関係に硬直する。
「……犬?」
心臓が、小さく嫌な音を立てた。
胸の奥が静かに軋む。
「黒くて、ちっちゃい、ぼくのわんちゃん、お肉屋さんの前で、いなくなって……」
前世の曖昧な記憶が、強烈な濁流となって脳裏を揺るがした。
真っ白な部屋。
駆け寄る小さな足音。
腕の中へ飛び込んでくる、柔らかな温もり。
(――ただいま。お利口にしてた?)
喉の奥がカラカラに乾き、呼吸が浅くなる。
気がつけば、リンネはその場に膝をつき、男の子と目線を合わせていた。
その手は、微かに震えている。
「最後に見たのは、本当にお肉屋さんの前?」
「うん……ノアって名前なの。おねえちゃん、わんちゃんは……?」
「分かった。一緒に探そう。大丈夫、絶対に見つかるから」
自分で自分に驚くほど、必死な声が出ていた。
本当なら、この街の面倒事には深入りしないのが彼女のモットーだ。
他人の迷い犬探しなんて、何でも屋の仕事としても報酬が出ない。
けれど、「犬」という存在が絡むと、どうしても自分の理性が言うことを聞かなくなってしまう。
二人は夕闇が迫る市場の路地裏を、声を枯らして探し回った。
木箱の裏、ゴミ捨て場の陰、倉庫の隙間。
やがて、人通りの途絶えた細い路地の奥から、微かな、聞き覚えのある高音の鳴き声が鼓膜を震わせた。
「きゃうん……っ、きゅ〜ん」
「あっ! ノアの、ノアの声だ!」
男の子が走り出す。
リンネもその後を追った。
突き当たりの古い樽の裏に、いた。
黒い毛玉のような、片手に収まりそうな小さな小型犬が、不安そうに身を縮めていた。
飼い主の姿を認めた瞬間、その小さな黒い尾が、ちぎれんばかりにぶんぶんと左右に振られる。
「ノアーーっ! よかった、よかったぁ……!」
男の子が泣き笑いしながら、小さな身体をきつく抱きしめる。
その光景を見た瞬間。
リンネの視界が、現実の景色がぐにゃりと歪み、あの愛おしい記憶の断片が鮮烈に重なった。
真っ白な部屋。
駆け寄る小さな足音。
腕の中へ飛び込んでくる、柔らかな温もり。
(ただいま。お待たせ、お利口にしてた?)
愛おしさに満ちた、前世の自分自身の声。
「……っ」
リンネは胸を押さえ、強く息を吸い込んだ。
喉の奥が熱く焼けるように痛い。
「おねえちゃん、ありがとう! わんちゃん、見つかったよ!」
男の子の元気な声が、彼女を残酷なほど鮮明な「異世界の現実」へと引き戻した。
「あ……うん。本当に、よかったね……」
男の子の腕の中で、黒い子犬が嬉しそうに「くぅん」と鼻を鳴らす。
男の子に抱かれたその子は、別れ際に身を乗り出すようにして、リンネの指先を一度だけ、ぺろりと舐めた。
「……え」
それだけだった。
けれど胸の奥の痛みは、不思議なほど少しだけ和らいでいた。
「バイバイ、お姉ちゃん!」
元気よく走り去っていく一人と一匹の背中を、リンネはいつまでも、ぼんやりと見送っていた。
子犬のつぶらな黒い瞳が、なぜだか妙に、いつまでも心に残り続けた。
すっかり暗くなった自宅に戻ったリンネは、リビングの椅子に深く腰掛け、天井を見上げて長い息を吐き出した。
「……疲れた。今日は、本当に疲れたな……」
肉体的な疲労ではない。
完全に、精神的なエネルギーが枯渇していた。
犬を見るたび、前世の記憶の蓋が無理やりこじ開けられる。
その度に、戻れない過去への郷愁で胸が押しつぶされそうになる。
それでも。
男の子の笑顔と、あの温かい毛並みを思い出すと、決して嫌な気分ではなかった。
作業机の上で、ぽつんと置かれていた魔石が、ふわりと淡い光を放った。
「……また、あなたなの?」
現れたのは、昨日も目撃した、あの蛍のような青白い光の粒だった。
光はリンネの疲れた声を聴き届けるように、ふよふよと頼りなく空間を漂いながら、少しずつ距離を縮めてくる。
糸の切れた人形のように、リンネはそっと人差し指を伸ばした。
光は答えない。
けれど、その仄かな青白い輝きは――
まるで「ようやく見つけた」とでも言いたげに。
どこまでも愛おしく、
懐かしそうに、
リンネの指先を包み込むように揺れていた。




