第2話 自重しない自宅のハイテク空間
「……最高」
リンネは湯船に深く身体を沈め、心の底から息を吐き出した。
じわりと熱が染み渡り、凝り固まっていた肩の筋肉が弛緩していく。
白い湯気が立ち込める浴室。
この辺境の街ラウノにおいて、毎日こんな風にたっぷりの温水を浴び、湯船に浸かる贅沢を満喫している人間は、おそらく他には存在しない。
薪を割り、井戸水を沸かす手間を考えれば当然だ。
だが、リンネにとってこの「温浴」だけは、何があっても譲れない生活の防衛線だった。
「文明って偉大だわ……」
しみじみと呟きながら、豊かな泡で髪を洗う。
もちろん、自宅にあるのは本物の給湯器ではない。
前世のボタン一つで温度が変わるような、高度な電子機器の仕組みなど、リンネには理解できなかった。
彼女が作ったのは、「水を一定温度まで加熱する火属性魔石」と、「水流を一定の圧力で押し出す風属性付与」を組み合わせた、銅製の簡易ボイラー装置だ。
配管は剥き出しで、接合部には補強のパテが不格好に盛られている。
見た目はかなり雑だ。
けれど、ちゃんと温かいお湯が出る。
大事なのはそこだった。
「いやほんと、前世の人類すごすぎるな……」
濡れた前髪をかき上げながら、リンネは天井の木目を仰ぎ見た。
前世の記憶は、霧がかかったように曖昧だ。
自分がどこで生まれ、どんな名前で、どんな風に死んだのかは思い出せない。
ただ、「便利な生活」の感覚だけが、身体が覚えている。
カチッと回せば点く火。
いつでも冷たい食べ物。
スイッチ一つで夜を駆逐する明るい部屋。
身体を包み込む柔らかい寝具。
――そして、あたたかくて、四足で駆ける、小さなあの子。
「…………」
その存在が脳裏をよぎった瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛んだ。
リンネは慌てて両手で自分の頬を叩き、激しく頭を振った。
お湯がパシャリと周囲に跳ねる。
「よし、考えない! ストップ!」
浴室を出て、脱衣所へ向かう。
そこには、木製の台座に大きな魔石を嵌め込んだ、不格好な筒状の装置が置かれている。
乾燥用の温風魔導具――風属性付与と熱付与を組み合わせた、リンネ自慢の試作品だ。
ゴーッという、少し喧しい駆動音とともに温かい風が吹き出す。
その前に立ち、ふんわりと広がる髪を指先で梳かしながら、リンネは満足げに頷いた。
「これ、街で売り出したら絶対に大ヒットする。……でも、絶対にめんどくさい利権争いに巻き込まれる」
だから、絶対に売らない。
自分の店「リンネ小物店」で扱うのは、あくまで「ちょっと便利な着火器」や「長持ちするランタン」といった、現地の人間の理解の範疇に収まるものだけ。
本気の魔導具を出すのは、この自宅限定だ。
その結果、リンネの家だけが、周囲の家屋から隔絶した異常な生活水準を誇っていた。
火照った体のまま、板張りの床を鳴らしてキッチンへと向かう。
調理台の横には、頑丈な木箱が鎮座していた。
内側に金属板を貼り、全体に「冷気付与」を施した簡易冷蔵庫――通称「保冷箱」だ。
取っ手を引くと、ひんやりとした白い冷気が足元にこぼれ落ちる。
「冷えた果実水……あった」
ぽってりとした厚みのある素焼きのコップに、琥珀色の液体を注ぐ。
前世では、もっと薄くて、中の液体が透けて見える透明な容器――ガラスのコップだった気がするが、さすがにそこまでは再現できない。
この世界において透明度の高いガラスは貴族の贅沢品だし、何よりリンネにはガラス加工の技術がない。
「うーん、氷は作れるんだけどなぁ……」
果実水を一気に煽り、喉を鳴らしながら呟く。
魔石の出力を上げれば、水を凍らせること自体は簡単だ。
だが、冷気の出力を「一定」に保つ制御がとにかく難しい。
油断すると保冷箱全体が凍てつき、隣の棚の野菜までカチコチになる。
以前、仕入れたばかりの葉物野菜をすべて凍らせて台無しにした時は、あまりのショックに丸一日寝込んだ。
「前世のエンジニアって、本当に偉大だったんだなぁ……」
空になったコップを置き、誰もいない空間にぽつりと漏らす。
自分はきっと、前世ではただの「利用者側」だったのだ。
高度に完成された便利なシステムを、何も考えずに消費していただけ。
だから原理までは分からない。
なんとなく覚えている、うろ覚えの知識を、魔力という力技で強引に形にしているだけだ。
それでも、中世ヨーロッパ風のこの世界においては、十分すぎるほど過剰な文明の利器だった。
ひと息ついたリンネは、リビングの奥にある作業机に向かった。
頑丈なオーク材の机の上には、ペンチやヤスリといった工具、分解された魔導具の歯車、様々な色の魔石、回路を刻みかけた金属板が乱雑に散らばっている。
その中心に鎮座しているのは、小さな三枚の羽根を取り付けた、小型の送風装置だった。
「うーん……ここをこう、滑らかに回転させて……いや、そもそも持続的な回転機構の刻印が分からない……」
リンネは髪をくしゃくしゃとかきむしり、煤とインクで汚れた設計図(らしき落書き)を睨みつけた。
前世の記憶にある「扇風機」を再現しようとしているのだ。
羽根が回れば、風が来る。
理屈は小難しくない。
だが、効率よく、魔力を無駄にせず回転させ続ける回路の構造がどうしても思い出せず、曖昧なままだった。
「魔力で無理やり軸をぶん回すと、めちゃくちゃ燃費が悪いし……」
結局、いま目の前にある「扇風機もどき」は、羽根を回すのを諦め、筒の奥から風属性の魔法をそのまま前方に放射するだけの力技になっていた。
だが、手をかざすと、涼しい風が前髪を揺らした。
「……まあ、涼しいからヨシ!」
リンネは自分を納得させるように、パチンと手を叩いた。
「そもそも私は技術者じゃなくて、ただの一般市民だったわけだし。うん」
……たぶん。そこにも確信はない。
時折、浅い眠りの中で、知らない景色が夢に現れる。
床に差し込む、柔らかい太陽の光。
真っ白な壁。遮光カーテン。
――ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、フローリングでシャカシャカと爪を鳴らして走ってくる、小さな、小さな子。
夢の中の自分は、とても穏やかに笑っていた。
覚えているのは、それだけ。
「……名前くらい、思い出そうとするが、どうしても指の隙間からこぼれ落ちてしまう」
あの子の名前。
何度も、何度も心の水底をすくい上げるように思い出そうとするが、どうしても指の隙間からこぼれ落ちてしまう。
喉のすぐそこまで出かかっているのに、言葉になってくれないもどかしさ。
けれど、あの小さな命が、自分にとって世界そのもののように大切だったことだけは、魂が覚えている。
それだけで、急に視界がじんわりと滲み、泣きたくなってしまう。
リンネは椅子をガタッと鳴らし、慌てて立ち上がった。
「だめだめ! 暗くなるのは禁止! お腹が空いてるから感傷的になるんだ!」
こういう時は、無心になれる料理に限る。
調理場へ戻り、自家製の火力調整機能付き魔導コンロに火を灯す。
これのおかげで、この世界では難しい「弱火でコトコト」が簡単にできるため、料理の失敗が劇的に減った。
トントンと小気味よい音を立てて野菜を刻み、鍋に放り込む。
今日は乾燥野菜のスープと、ハーブをまぶしたお肉の香草焼きだ。
熱したフライパンに肉を置くと、ジュウ、と脂のはじける小気味よい音が部屋に響き、刻んだハーブの爽やかで芳醇な香りが一気に立ち上る。スープの鍋からは、やさしい湯気が立ち上り、ふわりと鼻腔をくすぐった。
出来上がった料理を見つめながら、リンネの口元に自然と笑みがこぼれた。
「私、案外この世界での生活、気に入ってるんだよなぁ」
誰にも縛られない、気ままな独り身。
面倒な人間関係もなければ、恋愛や結婚のプレッシャーもない。
前世でもきっと、同じように生きていた気がする。
毎日まじめに仕事をして、家に帰れば愛しい子がいて。
それだけで、それなりに満ち足りていたのだ。
だから今も、この異世界でのひとり暮らしは全く苦にならない。
静かで、自分の好きなものだけに囲まれた隠れ家のような生活は、何より心が落ち着いた。
――部屋の明かりが、奇妙に瞬いた。
「……あれ?」
天井に吊るした魔力灯の光が、まるで灯火が風に揺れるように不自然に揺れる。
リンネが先ほどまで座っていた作業机の端で、小さな光の粒がふわりと宙に浮かび上がった。
それは、夏の夜に見かける蛍のような、淡く儚い光だった。
色は透き通るような青白色。優しく、どこか温かい。
「…………」
リンネはスープをかき混ぜる手を止め、おたまを持ったまま硬直した。
その光の粒は、楽しげにふよふよと空間を漂いながら、机の上に転がっていた小さな魔石に近づくと、その表面を、まるですり寄るように小さくつついた。
カチ、と微かな音がして、突つかれた魔石がほんのりと青く輝き出す。
「えっ……」
リンネが息を呑んだ、その刹那。
光の輪郭がぐにゃりと歪み、ほんの一瞬だけ、耳をパタパタと揺らす小さな子犬のシルエットを形作ったように見えた。
しかし、リンネが瞬きをした時には、その光は霧が晴れるように、跡形もなく消え去っていた。
「………………」
しんと静まり返るキッチン。
リンネはゆっくりとおたまを置き、糸の切れた人形のようにぎこちない動きで椅子に腰掛けた。
「疲れてるなぁ、私」
うん、と深く自分に頷きかける。
これは疲労だ。間違いなく気の迷いだ。
最近、扇風機の開発で行き詰まって、夜遅く回路をいじりすぎたに違いない。
この世界において、精霊や幻獣の類は御伽噺か、大森林の奥深くにしか存在しないものだ。
ましてや、こんな街外れのしがない小物店の自宅に、向こうからやってくるわけがない。
「ご飯を食べて、早く寝よう。そうしよう」
リンネは全力で思考を放棄し、現実逃避を決め込むことにした。
とくとくとスープを器に盛り、いつもより早くベッドに潜り込む。
意識が深い眠りの底へと落ちていく、まさにその直前。
枕元で、小さく、甘えるような鳴き声を聞いた気がした。
(――くぅん)
それは、ずっとずっと昔に聞いたような、胸が痛くなるほど懐かしくて。
泣きたくなるほど愛おしい、小さな家族の声だった。




