第1話 辺境の街のリンネ小物店
物語はゆっくりと進んでいきます。よろしくお願いします。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
朝の鐘が三回、遠くで低く響く。
ラウノの街も、ようやく重い瞼を上げた。
石畳の上を、近郊から来た荷車が音を立てて過ぎていく。あちこちの竈からは、黒パンの焼ける香ばしい匂いが流れてくる。
大通りには、重そうな武器を背負った冒険者たちが、まだ眠そうな足取りでギルドへ向かっていた。
喧騒から一本外れた、静かな路地。
「リンネ小物店」と書かれた木製看板が、青い野花の揺れる軒先で小さく主張している。
「はい、お待たせしました。つまみを右に回すと、火力は弱め、中くらい、強めの三段階です」
リンネはカウンター越しに、手のひらサイズの道具を差し出した。
「ただ、鍋底に魔力を流しすぎると焦げ付くので、そこだけは気をつけてくださいね」
赤く鈍い光を宿した魔石を、特殊な金属枠にはめ込んだだけのシンプルな簡易コンロだ。
「まあ、便利だこと。薪を割る手間も、煙で涙を流すこともなくなるなんて。夢みたいだわ」
主婦はコンロを愛おしそうに包み込み、何度も頭を下げて去っていった。
ドアのベルがカランと鳴る。
その背中を見送り、リンネは肩の力を抜いて息を吐いた。
「……よし。今日も『ちょっと便利』の範囲内」
それが彼女の信条だった。
便利すぎないこと。目立ちすぎないこと。周囲を驚かせないこと。
この世界には「付与術師」がいる。魔力を込めて効果を定着させる、ありふれた職人だ。だがリンネには、前世の記憶という少しばかり特殊な知識があった。
(……穴あきチーズみたいにボロボロですけど)
リンネは自身の細い指先を眺める。名前も、死因すら思い出せない。ただ、アラフォーで独身だったという断片と、ある喪失感だけが魂にこびりついていた。
視線を落とすと、作業棚の隅に白い布を巻いたぬいぐるみが置かれている。前世の記憶を頼りに作った、不格好な犬の形だ。
名前は思い出せない。けれど、あの子が逝った日の胸を刺すような虚無感は、今も澱のように底に沈んでいる。
「……また会いたいなんてね」
膝を抱えて呟く。死んだ命は戻らない。それは魔法があっても同じはずだ。
カランカラン。
扉が開き、勢いよくベルが鳴った。
「リンネちゃん、いるかい!?」
現れたのは、近くで食堂を営むオルガだった。額に汗を浮かべ、困ったように眉を寄せている。
「リンネちゃんに作ってもらった魔石コンロ、鍋を置いたら欠けちまってね。修理と、あともう一回り大きい特注品を作れないかい?」
「作れますけど……大きくなれば上質な魔石が必要になるので、お代は張りますよ?」
「いいよ、色をつけるさ! このままじゃ商売あがったりだしね!」
リンネはカウンターの下でそっと顎に触れる。
(食堂用、か)
前世の業務用バーナーの知識を使えば、もっと効率の良いものなどいくらでも作れる。けれど、そんなことをすれば「ちょっと便利」の枠を踏み越えてしまう。
突出した技術を持つ術師が、この辺境でどうなるか。貴族のお抱えになるか、悪徳商会に搾取されるか。最悪、消されるか。
前世で揉まれた経験が、脳内で警報を鳴らしていた。
「では、今より火力を二割増しにするので手を打ちませんか。本体を頑丈にして、鍋を乱暴に置いても壊れないようにしておきます」
「お、二割増し! そりゃ助かるよ」
「……あまり無茶な使い方はしないでくださいね」
豪快に笑い、肩を叩くオルガ。その手の温かさに、リンネの口元も自然と緩む。
誰かの日常の端っこで、少しだけ役に立つ。この距離感が、今の彼女には心地よかった。
夕暮れ、茜色に染まった通りで看板を裏返す。
こわばった首を鳴らしながら、リンネは店内に戻った。
二十代の体は、驚くほど軽い。前世の夕暮れ、鉄板のように凝った肩や腰の痛みで息を切らしていた自分とは大違いだ。
「若さって、最高の便利グッズだわ」
カウンター奥の扉を開け、生活空間へ入る。そこには、この世界の常識から少し外れた魔導具たちが並んでいた。
冷気を循環させる箱、自動洗浄装置、タイマー付きの照明。
「電気も基板も仕組みは知らない。ただ、『冷やす』とか『タイマーで消す』っていう理屈を、魔力で強引に再現しただけ」
それが限界であり、強みだった。空飛ぶ船も通信機も作れない。けれど、生活を整える「家電もどき」なら、どうにか形にできた。
冷やしておいた果実水を飲み、揺り椅子に深く腰掛ける。
窓の外では、空が夜の藍色に浸食され始めていた。
ふと、また過去の澱が浮かび上がる。
自分は、どうやって死んだのか。独りきりで、孤独に?
何も思い出せない。ただ、あの温かな相棒を失った喪失感だけが、今も胸をチクリと刺す。
「もし、あの子がこの世界に生まれ変わってたら……なんて」
子供じみた想像。リンネは自分の頬をパチンと叩き、首を振った。
「だめだめ。考えても仕方がない」
この街で、静かに生きていく。それが彼女の勝ち取った平穏だ。
作業机の片隅。
置かれていた未加工の魔石が、カタタッと小さく跳ねた。
「……え?」
リンネは椅子から立ち上がり、机に歩み寄る。
付与など施していないはずの魔石の芯が、まるで呼吸のように、淡く明滅を繰り返している。
リンネが顔を近づけた瞬間、光はすっと吸い込まれるように消え、ただの石に戻った。
「魔力干渉かな。それとも、少し疲れてるのかも」
首を傾げ、指先を見つめる。
机の上の小さな違和感。
彼女の穏やかな日常が、少しずつ、しかし確実に変わり始めていることに、まだリンネは気づいていない。




