第61話 食卓に咲く笑顔
応接室での和やかな挨拶を終え、アルフレッドに促されるまま、リンネたちは食堂へと案内された。
重厚な両開きの扉が静かに開く。中に足を踏み入れた瞬間、リンネは思わずその場で止まりそうになった。
(えっ……ここで食べるの?)
目の前に広がっていたのは、ドラマや絵本でしか見たことのないような、長大なマホガニーの食卓だった。
席の上には、磨き上げられた銀食器や、何本ものナイフやフォークが美しく並んでいる。
(どれから使うの!? 外側のやつ……いや、内側から?)
(パンって最初から食べていいんだっけ……?)
頭の中で冷や汗が滝のように流れるリンネの様子を察してか、ルークが小さく苦笑した。
「そんなに構えなくて大丈夫ですよ。今日は堅苦しい式典じゃないんですから」
「そ、そうですよね……」
ガチガチに固まるリンネに、優しく声をかけたのはエレノアだった。
彼女は優しく微笑み、リンネのすぐ隣へ歩み寄る。
「今日は、堅い話はなし。家族のお昼ですもの。気楽にいきましょうね」
「家族の……」
その言葉の響きに、リンネの胸がふっと温かくなる。
「はい……ありがとうございます」
少しだけ呼吸が深くなり、緊張で張り詰めていた糸がゆるりとほぐれていった。
席に着くと、ほどなくして温かな料理が次々と運ばれてきた。
香ばしく焼き上げられた川魚。森で採れたキノコを使った濃厚なスープ。ほくほくと甘い焼き栗。そして焼きたてのパン。
湯気とともに立ち上る香りだけで、思わずお腹が鳴りそうになる。
(こんなの……見たことない)
エレノアはリンネの皿に目を留めると、給仕へ穏やかに微笑みかけた。
「焼きたてをリンネさんにも」
「かしこまりました」
給仕が香ばしいパンを静かに皿へ添える。
「このパンは、うちの料理長の自慢なんですよ」
「えっ、ありがとうございます……!」
ふんわりと湯気の立つパンを受け取り、リンネはそっと口に運ぶ。
噛みしめるたびに小麦の甘さが広がり、心がほどけていくようだった。
続いて目の前に置かれたスープにスプーンを差し入れ、口へ運ぶ。
「……おいしい……」
思わず、心の声がそのまま口から零れ落ちてしまう。
その小さなつぶやきを聞いた料理長は、主人であるアルフレッドへ一礼してから静かに食卓へ歩み寄った。
「お気に召したようで何よりです、リンネさん」
「あ……!」
料理の美味しさに感動したリンネは、ふとスープから立ち上る香りに気づいた。
「あの、このスープ……香草がすごくいいアクセントになってますね。これ、最後に少しだけ乾燥させたハーブを散らしてますよね?」
料理長はさらに目を見張り、ハッと息を呑んだ。
「……香りだけでそこまで読まれるとは。お見それしました。その通り、仕上げの直前に特製のタイムを散らしているのです」
「すごい! 香りが飛んじゃう手前で火を止めているから、風味がすごく引き立ってて……」
そこから先は、職人同士のスイッチが入ってしまった。
料理長とリンネは、食材の合わせ方や香りの引き出し方について、熱心に言葉を交わし始める。
アルフレッドは腕を組み、静かにその様子を眺めていた。
隣でエレノアが、楽しそうにティーカップに口をつけている。
「ものづくりをしている方の、こういう真剣な顔を見るのは好きなの」
エレノアはリンネに目を向け、優しく語りかけた。
「リンネさんは、普段から色々なものを作っているのでしょう? よかったら、どんな風に工夫しているのか教えて下さる?」
「えっと……」
リンネは少し照れくさそうに頬をかいた。
「大したことじゃないんです。昔から、身の回りのちょっとした不便や、困り事を解決したくて色々作るのが好きで……。最初は失敗ばかりで、香油なんか部屋中を臭くしちゃって、ルークさんにもよく呆れられてました」
「呆れてなんていませんよ」と、ルークが苦笑まじりに抗議する。
アルフレッドは静かにうなずいた。
「なるほど」
アルフレッドは腕を組み、重みのある声で言った。
「技術とは人を豊かにするためにある。利益のためだけの技術は、いずれ人を離れる。だが、人を思って生まれた技術は、やがて人の手で受け継がれていく」
一拍置いて、彼は静かにリンネを見つめた。
「先ほど、君を国の宝と言ったが、今日はその理由が分かった。君は『何を作るか』ではなく、『誰のために作るか』を先に考えるのだな。その誠実さは、何物にも代えがたい」
その飾り気のない言葉に、リンネは胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
父の穏やかな笑みを見つめながら、ルークはリンネが心から受け入れられたのだと悟った。
父も母も笑っている。
その光景を見た瞬間、ルークは胸の奥で張り詰めていたものが、ようやくほどけていくのを感じた。
(この人なら、大丈夫だ)
アルフレッドはしばらくリンネを見つめたあと、ふと思案するように顎へ手を添えた。
「……そうだな。せっかく王都まで来たのだ。君には一度、付与術師組合を訪ねてもらうといい」
「付与術師組合……ですか?」
「ああ。王都で付与術師として活動するなら、一度は訪ねておいた方がいい場所だ」
アルフレッドはそう言って、ルークへ視線を向けた。
「ルーク。明日にでも連れて行ってやりなさい」
「はい。分かりました」
ルークが頷く。
**「組合長のクラウス・ウェーバー殿なら、君の話を聞いてくれるはずだ」**
「そんなにすごい方なんですか?」
リンネが尋ねると、ルークは少しだけ考えるように間を置いた。
「ええ。王都の付与術師なら、知らない者はいません。技術を見る目に関しては、父上が認めるほどの人物です」
「……そんな人に会うんですか」
リンネの顔が少しだけ強張る。
「それと――」
アルフレッドが思い出したように口を開いた。
「私から紹介状を出しておこう。侯爵家からの紹介があれば、話も早いだろう」
「えっ……そこまでしていただいていいんですか?」
リンネが慌てて尋ねる。
「なに、君の技術を正しく見てもらいたいだけだ。あとはクラウス殿に任せればいい」
「ありがとうございます……!」
リンネは深く頭を下げた。
その足元では、すっかりリラックスしたマロが、テーブルの上に並ぶごちそうをじっと見つめている。
「いいにおい!」
「あら、マロちゃん。何が好きなの?」とエレノアが微笑む。
「はちみつ!」
マロが元気よく答えると、料理長がクスリと笑い、「少々お待ちを」と厨房へ引っ込み、すぐに小さな特製の蜂蜜入りパンを焼いて持ってきてくれた。
マロは大喜びでそれを頬張り、食堂はさらに温かな笑い声に包まれた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、やがて帰りの時間がやってきた。
窓の外へ目を向ければ、秋の日はすでに傾き始めている。
「まあ……もうほんとうに、あっという間だったわね」
エレノアが名残惜しそうに呟く。
すると、アルフレッドが静かにリンネへ視線を向けた。
「リンネ殿。よければ、今夜はこちらに泊まっていきなさい」
「えっ?」
思いがけない申し出に、リンネは目を丸くした。
「もう日も暮れます。女性をこの時間から宿へ帰すのも心配ですからな」
「いえっ! ありがとうございます。でも、大丈夫です!」
リンネは慌てて首を横に振った。
「宿もちゃんと取ってありますし……それに、今日はもう十分すぎるほどお世話になっていますから」
「遠慮する必要はないのですよ」
エレノアが優しく微笑む。
「あなたはもう、お客様というより家族ですもの」
「……家族」
その言葉に、リンネの胸がまた温かくなる。
それでも、リンネは小さく頭を下げた。
「お気持ちは本当に嬉しいです。でも、今日は宿に戻らせてください」
「そうか」
アルフレッドは無理に引き止めることはせず、穏やかに頷いた。
「ならば仕方あるまい。だが、次からは遠慮しなくていい」
「はい……ありがとうございます」
その隣で、ルークがほっとしたように微笑んで口を開いた。
「では、私が宿まで送ります」
「えっ、でも――」
「もう夕方ですから。大丈夫だと言われても、私が送ります」
ルークの声音は穏やかだったが、そこには珍しく、譲るつもりのない意思が滲んでいた。
一瞬、食堂に静かな間が落ちる。
「ふふっ」
それを破ったのは、エレノアの小さな笑い声だった。
「まあ。ずいぶん頼もしくなったこと」
「母上……」
ルークが少し困ったように眉を寄せる。
アルフレッドも口元にわずかな笑みを浮かべた。
「そういうことなら任せよう。リンネ殿を頼んだぞ」
「はい」
短く答えたルークの表情には、迷いがなかった。
リンネはそんな二人のやり取りを見つめながら、少しだけ頬を赤くする。
「……では、お言葉に甘えて」
「ええ。それがいいわ」
エレノアは嬉しそうに頷くと、そっと小さな布袋を差し出した。中には、彼女が庭で大切に育てているハーブの苗が入っている。
「リンネさん、これ。今度、これで新しい香りを作ってみてくださいね」
「えっ……いただいていいんですか?」
「もちろん。あなたなら、きっと素敵な香りにしてくれるわ」
リンネは両手で大切に布袋を受け取り、満面の笑みを浮かべてお辞儀をした。
「今日は本当にありがとうございました」
エレノアは優しく目を細め、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「また、ご一緒にお昼をいただきましょうね。次は、お客様ではありませんよ」
「え?」と驚くリンネに、エレノアは微笑んだ。
「家族の食卓に招くのですから」
その予期せぬ温かい言葉に、リンネは胸がいっぱいになったように嬉しそうに笑った。
「……はい!」
そして、アルフレッドが静かにリンネの前に歩み寄り、落ち着いた声で告げた。
「リンネ殿。また、いつでも遊びに来なさい。この家は、いつでも君を歓迎する」
さらに、傍らで一礼していた料理長が帽子を取る。
「リンネさん。次はぜひ、厨房もご覧ください」
「えっ、本当にいいんですか!」
「ええ。香りを語れる職人は大歓迎ですからね。新しい味のヒントをもらいたいものです」
料理長の気さくな笑みに、リンネはさらに目を輝かせた。
侯爵邸を出ると、ルークが待たせていた馬車へリンネを促した。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。父も母も、ずいぶん楽しそうでした」
「……本当に、素敵なご両親ですね」
リンネがそう言って微笑むと、ルークも穏やかに笑った。
今日という日を迎えるまで胸の奥にあったわずかな緊張は、もうすっかり消えていた。
(よかった……)
父も母も、リンネを温かく迎えてくれた。
それだけで、ルークには十分だった。
「じゃあ、宿まで送りますね」
「はい」
二人を乗せた馬車が、ゆっくりと侯爵邸を離れていく。
リンネの肩の上では、マロが満足そうに小さく伸びをした。
「あるじ!」
「ん?」
「かぞく、ふえた?」
その無邪気な問いかけに、リンネは少しだけ頬を赤らめた。
「……まだ、違うよ」
そう答えながらも、リンネは窓から侯爵邸を振り返った。
門の前には、アルフレッドとエレノアの姿がある。
二人は馬車が見えなくなるまで、静かに見送っていた。
朝、この門をくぐるまでは、侯爵家は雲の上の世界だった。
けれど帰る頃には、また訪れたいと思える場所になっていた。
王都で初めてできた、帰ることのできる場所。
それは屋敷ではなく、人だった。
秋風は少し冷たかったはずなのに、その日だけは、不思議と温かく感じられた。
その温もりを胸に抱きながら、リンネは静かに王都の街並みを眺めていた。




