第62話 技術の最高峰
侯爵邸を後にした翌朝。
王都の空は抜けるような青空に覆われ、宿屋の小さな窓からは柔らかな朝日がたっぷりと差し込んでいた。
リンネはベッドの縁に腰掛け、昨夜エレノアから譲り受けた小さな布袋をそっとテーブルの上に広げる。
中から取り出したのは、土のついた瑞々しいハーブの苗だ。鼻を近づけると、すうっと頭がクリアになるような爽やかな香りが広がる。
(エレノア様、大切に育てていらしたんだなぁ……)
前日の温かな食堂の光景が、昨日のことのように鮮やかによみがえる。
家族のように自分を迎え入れてくれた侯爵家の優しさと、胸に残る心地よい余韻。
リンネはハーブの苗をそっと両手で包み込み、引き締まる思いで呟いた。
「よし、王都で頑張ろう」
その瞬間。
「あるじ、どきどきしてる?」
足元から小さな声がした。
見下ろせば、白い毛並みの精霊――マロが、首を傾げながらこちらを見上げていた。
「……分かるの?」
「わかるよ」
マロは小さく尻尾を振る。
「あるじ、きのう、いっぱいわらった」
「……うん」
「みんな、あるじのこと、だいじにしてた」
リンネは少しだけ目を伏せた。
「……そうだね」
「だから、きょうはだいじょうぶ」
「マロ、ずっといっしょ」
「……ありがとう、マロ」
その小さな言葉に、リンネの胸が温かくなる。
「今日も一緒に頑張ろうね」
「わふ!」
それは自分自身への誓いであり、新しい一歩を踏み出すための合図だった。
トントンと、心地よいノックの音が響く。待ち合わせの時間通り、ルークが迎えにやってきたらしい。
マロはひらりとリンネの肩へ飛び乗り、誰にも見えないまま嬉しそうに耳を揺らした。
「リンネさん、準備はいいですか?」
「はい、今行きます!」
身なりを整えて扉を開けると、そこには爽やかな軍服姿のルークが立っていた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん、すごくよく眠れたよ。ルークさんは?」
「俺も万全です。それじゃあ、出発しましょうか。今日は付与術師組合の本部へ向かいます」
「付与術師組合……昨日、アルフレッド様が紹介状を書いてくださったところだよね?」
「ええ。王都で活動するなら、一度は訪れておいた方がいい場所です」
ルークはそう言って、穏やかに笑った。
「組合長のクラウス・ウェーバー殿にも、すでに話を通してあるそうです」
「……そんなに早く?」
「父上が動くと、話が早いんですよ」
リンネは少しだけ苦笑した。
「じゃあ……今日、いよいよ会うんだ」
「ええ。どんな方かは、会ってみてのお楽しみです」
歩きながら、ルークは付与術師組合について簡単に説明してくれた。
王都の付与術師組合は、単なる職人たちの集まりではない。
新たな付与具の性能評価や技術認定、工房への技術支援、後進の育成。
さらに、王国各地の付与術師が持ち寄った技術や研究成果を整理し、優れた技術を各地へ広める役割も担っている。
王国中の付与術師にとって、技術を学び、腕を認められ、そして次の世代へ技術を渡していくための中心地。
それが、王都の付与術師組合だった。
「つまり……王国中の技術が、ここに集まってくるんだ」
「そういうことです」
ルークは頷いた。
「だから、事務手続きをする場所というよりは、王国中から集まった技術や知見に触れられる場所だと思った方がいいでしょう」
「……なんだか、すごそう」
リンネの目が、少しずつ輝き始める。
「すごいですよ。腕の立つ付与術師や、長年技術を磨いてきた職人たちが集まっていますから」
その言葉を聞いた瞬間、リンネの歩く速度がほんの少しだけ速くなった。
「……早く行こう」
「ふふ。やっぱり、そちらの方がリンネさんらしいですね」
二人は宿を出て、王都の通りを歩き始めた。
ルークの言葉通り、一歩表通りに出ると、王都の朝はすさまじい活気に包まれていた。
朝の市場には新鮮な野菜や果物を並べる行商人の威勢のいい声が響き、香ばしい焼き立てパンの匂いを漂わせるベーカリーの前には長い行列ができている。
少し歩けば、薬草特有の苦いような爽やかな香りが漂う薬草店があり、その向かい側では鍛冶屋のハンマーが鳴り響く金属音がカンカンと小気味よく響いていた。
さらに、ガラスケースの中に最新鋭の魔導道具を並べた専門店まで立ち並んでいる。
リンネは目を輝かせ、目に映るものすべてへ忙しなく視線を巡らせていた。
「あっ、ルークさん、あれ見て!」
「すごい、あの工具の形、魔力の伝導効率がめちゃくちゃ良さそう……!」
「わぁ、あの魔導灯のデザイン、すごくかわいい!」
(ここだけで一週間は過ごせそう……)
(……いや、一週間じゃ足りないかも)
ショーケースを覗き込むリンネの肩の上では、マロも首を左右へ振りながら忙しなく視線を動かしている。
「あるじ、あれ、ひかってる」
「え? あ、本当だ。魔力結晶が使われてるんだね」
「きれい」
「ふふ、マロも気になるんだね」
肩の上へそっと囁く程度の小さな声だったが、近くを歩いていた通行人が「?」という顔で一瞬だけ振り返った。しかし、それもすぐに人波に紛れていく。
興味を引かれるたびに立ち止まるリンネに、ルークは苦笑まじりに声をかける。
「リンネさん、気持ちは分かりますが、今日の目的地はあそこではありませんよ。寄り道は帰りにしましょう」
「うっ、そうだよね。ごめんごめん!」
リンネは名残惜しそうにショーケースから目を離し、再びルークの後を追って歩き出した。
やがて、二人の目の前に圧倒的な存在感を放つ巨大な建物が現れた。
王都でも有数の大建築である、石造り五階建ての付与術師組合本部だ。
重厚な外壁には組合の大きな紋章が掲げられ、建物の前にはひっきりなしに馬車が横付けされ、多くの職人や研究者たちが慌ただしく資料や道具を抱えて出入りしている。
正面の受付へと続く通路は、すでに手続きを待つ人々の長蛇の列ができていた。
「うわっ……すごい人……!」
リンネは圧倒されて思わずたじろぐ。
「技術の総本山ですからね。いつ来てもこんな調子です」
ルークは落ち着いた足取りで、混雑する正面入口を迷いなく進んでいく。
すると、一般の受付カウンターを仕切っていた職員がふと顔を上げ、ルークの姿を認めた途端に目を見張った。
「っ! ルーク・ヴァンディール様!」
その声に、周囲の空気がピリッと引き締まる。
職員は慌てて立ち上がり、一礼すると、一般の長い列を脇に見ながら一直線にこちらへ歩み寄ってきた。
「お待ちしておりました。ヴァンディール侯爵家からのご紹介の方ですね?」
「ええ、よろしく」
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ!」
波が割れるように、リンネたちの前だけが自然と開いていく。
一瞬にして、受付の奥へと続く特別な通路へと案内された。
(えっ……こんな特別扱いされるの!?)
リンネは冷や汗を流しながら、背筋をピンと伸ばす。
周囲の待合スペースにいた職人たちが一斉にこちらを振り返り、ざわめきが広がった。
「おい、あの若い騎士はヴァンディール家の……」
「あの付与術師はいったい何者だ?」
「ずいぶん若いのに、侯爵家の紹介だなんて……」
向けられる無数の好奇の視線に、リンネは思わず縮こまりそうになる。
「ねえ、ルークさん……私、あきらかに場違いじゃない? 周りの目がすごく痛いんだけど……」
小さく震えるリンネの肩を、マロが小さな前足で、ぽん、ぽん、と叩いた。
「あるじ」
「……ん?」
「みんな、あるじをみてる」
「……やっぱり変だよね?」
リンネが不安そうに呟くと、マロは首を横に振った。
「ちがう」
「え?」
「すごいって、おもってる」
リンネは目を丸くする。
「マロ……」
「あるじ、いつもだれかをえがおにしてる」
「……」
「だから、むねをはっていい」
その言葉に、リンネの胸の奥がじんわり温かくなった。
「そっか……そうだね」
小さな精霊に励まされ、リンネはもう一度深く息を吸った。
「大丈夫ですよ、リンネさん。今日ここにいる人たちは、あなたの技術を正しく評価するための人たちです。敵ではありませんから」
ルークの穏やかな言葉にも背中を押され、リンネはしっかりと前を向いた。
やがて、案内役の女性職員に導かれてたどり着いたのは、五階の一角にあるひっそりとした廊下だった。
通路の脇にあるいくつかの研究室の窓からは、微かに青白い魔力の光が漏れ、廊下に掲げられた歴代の認定証や魔導具の数々は、どれも教科書でしか見たことのない伝説的な品々ばかりだった。
(ここ、本当にすごい場所なんだ……!)
リンネはごくりと喉を鳴らし、緊張で引き締まる思いで足を進める。
その目の前には、いかにも高価そうなマホガニー製の重厚な扉が立ちはだかっていた。
案内役の女性職員は、丁寧な所作でその扉を三度ノックした。
「失礼します。組合長。
侯爵家よりご紹介のお客様がお見えです」
扉の向こうから、低く、しかしよく通る落ち着いた男性の声が返ってきた。
「……通してくれ」
ギィ、と音を立てて、重い扉がゆっくりと内側へ開いていく。
その隙間から漏れてきたのは、鋭い知性と百戦錬磨の職人だけが持つ、独特の緊張感を帯びた空気だった。
リンネは静かに深呼吸をし、一歩前へ踏み出した。
「……ようこそ、付与術師リンネ殿。」
窓辺からこちらへ歩み寄ってきた男は、無駄のない仕立ての上着をまとい、静かな威圧感を漂わせていた。
鋭い眼光。
しかしその瞳の奥には、権威の誇示だけでなく、本物の才能を見極めようとする職人としての好奇心が宿っていた。
「私は付与術師組合長、クラウス・ウェーバーだ。」
リンネは緊張しながら深く頭を下げる。
「ラウノから参りました、リンネです。よろしくお願いします。」
「侯爵閣下からの紹介状は読ませてもらった。」
クラウスは静かにリンネを見据える。
「だが、紹介状だけで人を評価するほど、私は甘くない。」
「もっとも――」
クラウスは口元だけで笑った。
「本物なら、紹介状など要らん。」
「君自身を見せてもらおう。」
リンネは静かに息を吸った。
王都最高峰の技術が集う場所。
その扉の向こうで、リンネはこれまで知らなかった技術の世界へ、初めて足を踏み入れようとしていた。




