第60話 秋風が結ぶ縁
澄み切った秋空の下。
リンネは何度目か分からない深呼吸をした。
王都の貴族街、その高台にヴァンディール侯爵家の屋敷は建っていた。
見上げるほど高い外壁は秋空を切り取り、館の屋根は木立の向こうにようやくその姿をのぞかせている。
白い石造りの壮麗な館が、その向こうに悠然と佇んでいた。
手入れの行き届いた庭園が広がり、噴水の水音が静かに響いていた。
色づき始めた木々が秋風に揺れている。
その門の前で、リンネは固まっていた。
高すぎる門。
窓の数も数えられないほどの館。
自分の工房が、その玄関だけで入りそうだった。
「……帰ってもいいかな」
小さく漏らした本音に、隣のルークが思わず笑う。
「ここまで来てですか?」
「だ、だって……今ならまだ迷子ってことにできないかなって……」
胸に抱えた木箱の中には、自分で作った香りの贈り物が入っている。
高価な宝石でも、美しい絵画でもない。
自分にできる精一杯。
それでも――侯爵家へ持っていくには、あまりにも質素に思えた。
「大丈夫です」
ルークは穏やかに微笑む。
「父も母も、きっと喜びます」
その一言だけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「……うん」
門番が敬礼し、大きな門が静かに開く。門をくぐるたび、靴音だけがやけに大きく聞こえた。(工具箱だけ届けて帰れないかな……)そんな心の声が頭をよぎる中、リンネは必死に足を踏み出した。
応接室。
広々とした部屋には柔らかな陽光が差し込み、壁には歴代当主の肖像画が並んでいた。
リンネはソファへ腰掛けながらも、背筋だけはぴんと伸ばしている。
(緊張する……)
(お茶ってどう飲むんだっけ……)
(カップって両手で持つの?)
頭の中は、そればかりだった。
そんなリンネの足元では、小さな気配がそっと気ままに揺れていた。
やがて、重厚な扉が静かに開いた。
「お待たせいたしました」
入ってきたのは、一人の壮年の男性。
灰色の髪を後ろへ整え、威厳を漂わせながらも、どこか穏やかな眼差しを持つ人物だった。
「父です」
ルークが促すと、男性はまっすぐにリンネを見た。
「ヴァンディール侯爵、アルフレッドだ」
低く落ち着いた声。
リンネは慌てて立ち上がる。
「は、はじめまして! リンネと申します!」
勢いよく頭を下げる。
「本日は、お招きいただき……ありがとうございます!」
そのままガチガチに固まってしまう。
アルフレッドは一瞬だけ目を丸くすると、ふっと笑った。
「そんなに緊張しなくても構わない」
その声は、思っていたよりずっと優しかった。
続いて部屋へ入ってきたのは、淡い金色の髪をまとめた上品な女性だった。
ルークによく似た優しい瞳が、緊張したリンネを包み込むように見つめていた。
「まあ」
優雅に微笑みながらリンネを見る。
「あなたがリンネさん?」
「は、はい!」
「ルークから何度もお話は伺っています」
侯爵夫人は柔らかく笑う。
「私はエレノアです」
その笑顔は、どこかルークによく似ていた。
リンネは少しだけ安心する。
(あ……)
(ルークさんのお母さんなんだ)
自然と、張り詰めていた肩の力が抜けていく。
「あの、これ……」
リンネは震える手で木箱を差し出した。
「手土産です。ほんの気持ちなのですが……」
「お気遣いありがとうございます」
エレノアが箱を開ける。
中には、小さなガラス瓶。
その傍らに添えられた、秋色の花びら。
そして細い木片。
「これは?」
「香りを楽しむ道具です。その、木片を瓶に挿すと……」
促されるまま、エレノアが細い木片を香油の瓶へ差し入れる。
ふわり。
森を歩くような穏やかで優しい香りが、広々とした部屋いっぱいに広がった。
アルフレッドは目を閉じる。
「……これは」
エレノアも静かに息を吸い込んだ。
「懐かしい香り……」
リンネは首をかしげる。
「懐かしい……ですか?」
「ええ」
夫人は窓の外を遠く見つめる。
「ルークがまだ幼かった頃、一緒によくあそこの森を散歩したの。そのとき、この野の花がたくさん咲いていたわ」
「母上」
少しだけ照れくさそうにルークが苦笑する。
エレノアは嬉しそうに目を細めた。
「この香りは、あの頃の温かい思い出をそのまま思い出させてくれるわ」
リンネは思わず顔を綻ばせる。
「よかったぁ……気に入っていただけて」
その心からの笑顔を見て、アルフレッドは静かに頷いた。
「なるほど」
低い声が部屋へ響く。
「ルークは幼い頃から、人を軽々しく評価する子ではない。その息子が『信頼できる』と言った相手だ。ならば、私も会ってみたいと思ったが……」
アルフレッドは穏やかな視線をリンネに向ける。
「高い宝石でも、贅沢な菓子でもない。相手を想う心が、この香りには宿っている」
リンネは照れくさそうに俯いた。
「そんな、大げさですよ。私が勝手に作ったものですし……」
「いや」
アルフレッドは静かに首を振る。
「宝石は金で買える。しかし、人の才と誠実さは買えん。人材は、国の宝だ」
一拍置いて、彼は静かに微笑んだ。
「その宝と縁を得られたことを、私は嬉しく思う。これからも、この屋敷を遠慮なく訪ねてくるといい。侯爵家は君を歓迎する」
ルークは誇らしそうにリンネを見つめる。
その真っ直ぐな視線に気づき、リンネはさらに顔を真っ赤にしてしまった。
リンネは足元へ視線を落とした。
(どうしよう……)
(でも、この人たちなら)
「マロ、今日は姿を見せてもいいよ」
リンネが小さく囁くと、足元でマロはぴょこんと飛び跳ね、嬉しそうに大きく頷いた。
「うん!」
青白い光が、小さな体から静かにこぼれ落ちる。
それまで誰の目にも映っていなかった小さな存在が、淡い光をまといながら、ゆっくりと輪郭を結んでいく。
「……!」
エレノアが思わず息を呑む。
アルフレッドも目を細め、その小さな存在を静かに見つめた。
「精霊……か」
驚きよりも感嘆を含んだ、低い呟きだった。
リンネは少し照れくさそうに笑う。
「マロは普段、自分で姿を隠しているんです。でも、会いたい人には、自分の意思で姿を見せることができるんですよ」
「まあ……私たちのために?」
エレノアの声に、マロは胸を張る。
「あるじの、だいじなひと!」
そう元気よく言うと、ぽすん、と軽やかな音を立ててエレノアの膝へ飛び乗った。
「まあっ」
エレノアは驚くよりも先に、自然と両腕が伸びていた。彼女はマロをそっと優しく抱き上げる。
「あなたが、マロちゃん?」
「まろ!」
「かわいい……」
エレノアが蕩けそうなほど頬を緩める。
アルフレッドも、さすがに表情を和らげ、思わず口元を緩めた。
「……なるほどな」
アルフレッドは小さく息をつく。
「これでは、誰も嫌いにはなれんわけだ」
緊張に満ちていた応接室には、いつの間にか温かい笑い声が広がっていた。
窓の外では、秋風が庭木を優しく揺らしている。
その風は、新たに結ばれた小さな縁を祝福するように、静かに侯爵邸を吹き抜けていった。
この日、リンネは王都で初めて、「帰ることのできる場所」を一つ得たのだった。




