第58話 隊長の背中
朝靄が街道を薄く覆っていた。
宿場町はまだ目覚めたばかりで、軒先では宿の主人が桶に水を張り、旅人たちは馬へ水を飲ませている。
朝食を終えたリンネは、宿の前でふうっと背伸びをした。
「今日もいい天気だね」
肩の上では、マロが朝日に透けるような青白い光を揺らしている。
「しゅっぱつ!」
「うん、出発だね」
荷物をまとめたルークが、穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「馬車の準備ができました。今日は昨日より少し長く進みます」
「よろしくお願いします」
リンネが丁寧に頭を下げた、その時だった。
街道の向こうから、一頭の馬が砂煙を上げて駆けてくる。馬上には若い騎士の姿があった。
馬車の手前でピタリと手綱を引くと、青年は慌てた様子で馬から飛び降り、そのままルークへ鋭く敬礼した。
「ルーク隊長!」
その響き渡る声に、リンネは思わず目を丸くする。
若い騎士は息を整えながら報告した。
「第二中継所より急報です! 昨日未明、北側街道にて盗賊らしき集団を確認。商隊に警戒令が出されています!」
ルークの表情が一瞬で引き締まった。
先ほどまでの柔らかい笑みは消え、騎士としての厳格な空気を纏う。
「被害は?」
「現時点ではありません」
「人数は?」
「五名ほどとのことです」
ルークは短くうなずいた。
「分かった。各宿場へ注意喚起を継続。巡回隊には北側へ重点配置。旅人には南街道への迂回を勧めろ」
「はっ!」
「了解しました。隊長もお気をつけて」
「そちらこそ無理はするな」
青年騎士は再び力強く敬礼すると、すぐに馬に飛び乗り、風のように走り去っていった。
ふたたび静けさが戻る。
リンネは少しだけ驚いた顔で、目の前の青年を見上げた。
「……隊長さん、なんだ」
ルークは気恥ずかしそうに、少しだけ苦笑した。
「ええ。普段は忘れられがちですが、これでも一応は」
「そんなことないよ」
リンネは首を横に振った。
「今のルークさん、すごく……かっこよかった」
思いがけない言葉に、ルークはわずかに目を丸くし、それから照れたように視線を逸らした。
「……ありがとうございます」
やがて馬車が再び動き出し、静かな街道を進んでいく。
揺れる車内で、リンネはぽつりと尋ねた。
「あのね、隊長って……どんなお仕事をするの?」
「そうですね」
ルークは少し考えながら、前方をまっすぐ見据えて答えた。
「剣を振るうことだけではありません。部下の配置を考え、情報を整理し、補給を確認する。時には住民からの相談を受け、判断を下す」
そして、少しだけ間を置いた。
「そして——部下全員を、無事に家へ帰すことです」
リンネは静かにその言葉を聞いていた。
「戦いに勝つことより?」
「勝っても、帰れなければ意味がありませんから」
その声には、何人もの仲間を率いてきた者だけが持つ、確かな重みがあった。
リンネは初めて知る騎士の仕事の裏側に、少しだけ胸が締めつけられるような思いがした。
「大変なんだね……」
「ええ」
ルークは穏やかに笑った。
「ですが、皆優秀です。私には、信頼できる部下がついていますから」
その横顔を見て、リンネは昨日、ラウノの村で見送りに来てくれた騎士たちの姿を思い出していた。
誰もがルークを心から慕っていた。それは彼が「隊長」だからではなく、きっと普段から、一人ひとりの顔をちゃんと見ているからなのだと分かる。
そんなことを考えていると、前方の街道脇で、小さな騒ぎが起きているのが見えた。
一台の荷馬車がぬかるみに車輪をとられ、御者と商人が汗を流しながら必死に押しているが、車輪が空回りしてびくともしない。
ルークは状況を一目で見極めると、すぐに手綱を引いて馬車を止めた。
「少し、失礼します」
ひょいと御者台から降りると、的確な指示を飛ばした。
「全員、一度手を止めてください」
「焦って押しても車輪が沈むだけです」
「馬はそのまま。御者は手綱を」
「車輪の下へ平らな石を差し込みます」
迷いのない手際よさで足元から手頃な石を探し出し、沈み込んだ車輪の隙間にしっかりと噛ませる。
「よし、準備はいいですか? 私が合図したら一緒に押します。せーので力を合わせましょう」
商人が「あ、ああ、頼む!」と息を呑んでうなずいた。ルークは重そうな荷台の背後に回り、ぐっと広い背中をあてがう。
「——せーのっ!」
低く声を響かせながら力強く押し出す。ルークの圧倒的な統率と背中に合わせて商人も渾身の力を込めると、重い荷馬車はあっと言う間にぬかるみを抜け出し、乾いた石畳の上へゆっくりと戻った。
「助かった……! 俺たちだけじゃ何度押しても動かなかったのに……!」
商人は息を弾ませながら、何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございます、騎士様!」
ルークは軽く片手を上げて頷いた。
「無事で何よりです」
それだけ告げると、何事もなかったように自分の馬車へ戻っていった。
その様子を眺めていたリンネは、感心したように目を丸くした。
「ルークさん、すごいね。ただ押すだけじゃなくて、すぐにお仕事みたいに指示してた」
「長旅ではよくあることですから」
「でも、すごく嬉しそうだったよ。『ありがとう』って言われて」
ルークは少しだけ考え込むような仕草をした後、観念したように柔らかく微笑んだ。
「……そうですね。あんな風に感謝していただけるなら、悪くない仕事です。誰かの日常を守れたと実感できますから」
リンネもつられて笑顔を咲かせた。
「うん」
その時、肩の上でマロがぴょこんと飛び跳ねた。
「あるじも、るーくも、おなじ!」
「え?」と、二人が同時に声を上げる。
「たすけるひと、いっしょ!」
その無邪気な言葉に、リンネとルークは顔を見合わせ、やがて声を合わせて笑い出した。
「そうかもしれませんね」
「そうなのかなぁ」
リンネはそっとルークの背中を見つめた。
優しい人だと思っていた。
真面目な騎士だとも思っていた。
でも今日、その背中は——
多くの人に信頼され、多くの人を守ってきた隊長の背中なのだと、リンネは初めて実感した。
だからこそ、あの騎士たちは迷いなくルークの背中についていくのだろう。
二人の笑い声を乗せながら、馬車は秋風の吹く街道を軽やかに進んでいく。
遠くには、昨日よりも一層高くそびえる山並みが見え始めた。その向こうには、いよいよ王都が待っている。
まだ見ぬ都。
まだ会わぬ人々。
旅は二日目に入り、少しずつ互いのことを知りながら、確かな歩みで続いていくのだった。




