第57話 旅人たちの夜
一日の終わりに泊まることになった宿場町の食堂は、夜の帳が下りるにつれて一段と賑やかさを増していた。
そこには各地から集まった旅人や商人が大勢おり、王都へ向かう商人たちが大きな声で商売の話をしていたり、護衛の傭兵たちが豪快に武勇伝を語り合ったりしている。
ラウノの酒場とは違う、どこかピリッとした緊張感と、独特の熱気。
壁に掛けられた異国風の装飾品や、飛び交うさまざまな地方の方言に、リンネは目を輝かせながら、ルークの向かいの席にちょこんと座っていた。
「すごいね……いろんな人がいるんだなぁ」
「ええ。王都に近づくほど、こうした旅人や商人の数も増えていきます」
ルークが温かいスープの入った木製のカップをリンネに差し出すと、その時だった。
「うぇーん……!」
食堂の一角から、幼い子どもの甲高い泣き声が響き渡った。
見れば、旅装束に身を包んだ若い父親が、ぐずり泣く男の子を必死にあやしている。
「おい、泣くなよ。王都に着いたら新しいおもちゃを買ってやるからさ」
「いやだぁ! これがいいの……!」
男の子の手には、木で作られた小さな荷馬車のおもちゃが握られていた。しかし、その車輪をつないでいる軸がポッキリと折れてしまい、タイヤがブランと外れかけている。
父親は困り果てたように頭をかき、周囲の客たちも「子供の機嫌は難しいな」と苦笑するだけで、どうすることもできなかった。
その様子を遠くから見つめていたリンネの足が、自然とそちらへ向いていた。
じっとしていられなくなり、リンネは父親と子どものテーブルへそっと歩み寄る。
「あの……ちょっと、それを見せてもらってもいいですか?」
涙を流して鼻をすすっていた男の子は、見知らぬお姉さんに話しかけられて、びくりと肩を震わせた。父親も驚いたようにリンネを見上げる。
「あ、ああ……。すまないね、おもちゃの車軸が折れちまって、どうしようもなくてさ」
「よかったら、直させてくれませんか?」
リンネは席に腰掛け、手元に持っていた小さな木箱――自分の工具箱をそっと開いた。
旅の途中なので、王都の工房にあるような十分な道具はない。それでも、彼女の指先は迷わなかった。
リンネは折れた断面をそっと指先でなぞった。
「……木目に沿って折れてるだけなんだ」
少し安心したように息をつく。
「新しく作ることはできないけど、これなら繋ぎ直せるかもしれません」
工具箱から小さな接着樹脂を取り出し、折れた部分を丁寧に合わせる。
位置がずれないよう細い糸で軽く固定すると、リンネは静かに付与術を発動させた。
淡い光が木目へゆっくりと染み込み、樹脂が木そのものと馴染むように定着していく。
近くで見ていた商人が思わず目を見開いた。
「今の……魔法か?」
「さあな。光ったように見えたが……」
リンネは特に何も答えず、ただ目の前のおもちゃへ集中していた。
「……うん」
一度車輪をゆっくり回してみる。
少しだけ引っ掛かる。
リンネは眉を寄せ、位置をほんのわずかに調整した。
「これなら大丈夫そう」
車輪は静かにコロコロと回り始めた。
「強くぶつけるとまた壊れちゃうかもしれないけど、しばらくは遊べると思うよ」
リンネが優しく微笑んでおもちゃを差し出すと、男の子は涙をぬぐってそれを両手で受け取った。恐る恐る転がしてみると、車輪はスムーズに、コロコロと音を立てて机の上を走った。
「……あ……! 動いた!」
男の子の顔に、パッと満面の笑みが広がる。
「すごい! おねえちゃん、すごいよ!」
その無邪気な歓声を聞いた瞬間、食堂のあちこちから「おっ」「やるじゃないか」と感心の声が上がり、やがてパラパラと小さな拍手が、そして食堂全体へと広がっていった。
近くで見ていた商人の男が、おもしろそうに目を細めて声をかけてくる。
「おいおい、大した腕だな、嬢ちゃん。その即席の修理、うちの荷車の金具も見てくれよ。金なら払うからさ」
しかし、リンネは申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさい。旅の道具しか持っていないので、大きな修理はできないんです」
「それに、荷車はちゃんとした工房で見てもらった方が安心ですよ」
商人は少し驚いたあと、ふっと息をついた。
「ははっ、できないことまで『できます』とは言えねぇってか」
「そういう奴は信用できる」
商人は感心したように腕を組んだ。
「その腕なら、それだけで食っていけそうだ」
リンネは少し困ったように笑う。
「これは、この子のおもちゃだから。泣き止んでくれたなら、それで十分なんです」
「……そういうことか」
商人は苦笑して肩をすくめた。
「商売じゃなく、人助けってわけだな」
その答えに、商人たちは顔を見合わせた。
利益や効率を第一とする商売人たちからすれば、まったく理解できない理屈だった。けれど、その裏表のない純粋な笑顔を見ていると、不思議と嫌な気はしない。
商人たちは互いに顔を見合わせ、感心したように笑った。
「その腕もそうだが……信用ってのは、こうやって積み重ねるもんなんだ」
「できない仕事は断る。できる仕事はきっちりやる。そういう人間とは、また取引したくなる」
「そういや、名乗ってなかったな」
年配の商人が立ち上がり、照れくさそうに頭をかいた。
「俺は北市場で『ベルド商会』をやってるベルドってもんだ」
リンネは慌てて立ち上がる。
「リンネです」
「そう言っていただけて、うれしいです」
ベルドは豪快に笑う。
「礼を言うのはこっちだ。坊主の泣き顔じゃ飯もまずくなるからな」
「王都は広いようで狭い。また縁があったら会おうや」
「商売も人生も、結局は人との縁だからな」
軽く手を振ると、ベルドは仲間たちの輪へ戻っていった。
少し離れた席からそのやり取りを眺めていたルークは、小さくため息をつきつつも、どこか誇らしそうな笑みを浮かべていた。
(この人は、どこへ行っても自然に人を笑顔にしてしまう)
(父上も母上も、きっと今日のようなリンネさんを見れば分かってくれる)
(この人なら、王都でもきっと居場所を見つけられる)
騎士としてさまざまな人を見てきたルークには、彼女のその気質がどれほど尊いものかよく分かった。
やがて、騒ぎを聞きつけた宿屋の主人が厨房からやってきて、リンネの肩を優しく叩いた。
「おおい、そこのお嬢さん。うちの看板を直してくれたわけじゃないが、旅の子を泣き止ませてくれた礼だ。今日の部屋代はサービスにしてやるよ!」
リンネは慌てて両手をブンブンと振った。
「だ、だめです! そんなの申し訳ないよ! ちゃんと全額払います!」
「ははは、頑固だな。じゃあ、明日の朝食に焼き立てのパンを一個サービスするってどうだ?」
「……それなら、お言葉に甘えます」
結局、主人は宿泊代をしっかり受け取りつつ、朝食のパンだけこっそりサービスすることにしたのだった。
夜が更け、静まり返った宿泊部屋。
リンネは窓を開け、夜空を仰いでいた。
ラウノで見慣れていた星空とは、少し配置が違う。
それでも、世界中どこにいても、同じ空は一つにつながっている。
肩の上で、マロが青白い光を揺らしながら、小さく呟いた。
「みんな、わらったね」
リンネもふっと優しい微笑みを浮かべる。
「うん……そうだね」
マロは青白い光をふわりと揺らし、満足そうにくるりと一回転した。
「あるじがわらうと、みんなもわらう」
その無邪気な言葉に、リンネは思わず吹き出した。
「それは違うよ」
「みんなが優しいから、笑ってくれたんだよ」
「たびって、すごいね」
マロがくるりと体を丸める。
「知らない景色を見るだけじゃないんだね。知らない人とも、こうして出会えるんだ」
窓の外では、王都へ続く街道が月明かりに白く浮かんでいた。
今日出会った人々も、それぞれの目的地へ向かって眠りについている。
明日もまた、その道を進む。
一つ景色を越えるたび、
一つ出会いを重ねるたび、
リンネの世界は少しずつ広がっていく。
リンネは静かに目を閉じた。
旅はまだ、始まったばかりだった。
けれどその小さな旅は、
少しずつ誰かとの縁を結びながら、
王都へと続いていく。




