第56話 秋街道をゆく
旅立って半日。
ラウノの街並みはもうすっかり見えなくなり、窓の外には黄金色に染まった豊かな街道がどこまでも続いていた。馬車は心地よい揺れを繰り返し、車輪が乾いた土を捉える音だけが、規則正しく静かに響いている。
リンネは窓枠に肘をつき、じっと外の景色を眺めていた。
「本当に来ちゃったなぁ……」
ぽつりと漏らした本音には、一抹の不安と、それを覆い隠すような小さなどきどきが混ざっている。
肩の上では、誰にも見えないマロが青白い光を揺らしながら、リンネと同じように窓から外を覗き込んでいた。
「ひろい!」
「いっぱい!」
「きれい!」
初めて見るラウノ以外の景色に、マロはすっかり大はしゃぎである。ぷるぷると小さな体を震わせながら、次々と新しい発見を喜んでいた。
向かいの席に座るルークは、その楽しげな様子を温かい眼差しで見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「王都までは、ここから三日ほどかかります」
「三日!」
リンネは思わず目を丸くし、声を上げた。ラウノから少し離れた町へ行くのとはわけが違う。何日もかけて野を越え、街を通り過ぎていくような旅は、彼女にとって初めての経験だった。
「そんなに遠いんだ……」
「ええ」
ルークは窓の外へ目を向け、遠くの水平線を指し示すように視線を走らせる。
「ラウノは王国でも西の端に近いですからね。王都へ出るとなれば、これくらいの時間がかかります」
「……ルークさん、何度もこの道を往復してるの?」
ルークは小さく笑った。
「任務では何度も王都とラウノを行き来しています」
「やっぱり、この道を?」
「緊急任務では転移門を使うこともあります。ただ、普段の移動は馬車や馬ですね」
「そうなんだ」
リンネは納得したように頷く。
「今回は転移門を使わなかったんですね」
その言葉に、ルークは少しだけ窓の外へ目を向けた。
「ええ」
黄金色の畑を見つめながら、穏やかに続ける。
「せっかくの初めての旅ですから。この国の景色や人々の暮らしを、ゆっくり見てもらいたかったんです」
リンネは少し驚いたようにルークを見る。
「私のために?」
「ええ。もちろん、それもあります。」
少し照れたように笑うルーク。
「職人は、多くのものを見てこそ成長します。工房では出会えない発見も、きっとあるでしょう」
リンネは窓の外へ目を向けた。
街道を行き交う商人たち。
遠くまで続く麦畑。
見知らぬ土地の空気。
さっきまで何気なく眺めていた景色が、少しだけ特別なものに思えてくる。
「……うん。ありがとう、ルークさん」
リンネには、王都とラウノを何度も行き来する騎士の生活など想像もつかなかった。
転移門を使う任務もあるのだろう。それでも、この広い王国を駆け回ってきたルークの背中は、やはり自分よりずっと大きく思えた。
やがて、太陽が空の真ん中を少し過ぎた頃。
街道沿いにぽつりと開けた休憩所で、馬車がゆっくりと速度を落として止まった。
「少し、足を伸ばしましょう」
ルークに促されて馬車を降りたリンネは、その場で思わず息を呑んだ。
「……大きい……」
ラウノの市場もそれなりに賑やかだが、ここは規模が違った。王都へ向かう主要な街道の十字路にあたるこの場所には、遠方からやってきた旅人や商人の馬車が何台も所狭しと並び、圧倒的な活気を放っている。
ラウノでは見かけない、南方の華やかな衣服をまとった旅人。
見慣れない異国風の装飾品を積んだ巨大な荷馬車。
屈強な護衛の傭兵たちや、情報を売り買いする情報屋の姿まである。
さまざまな人々が、それぞれの目的を持って行き交う空間。
「王都へ向かうこの街道には、国内中から人と物が集まります」
ルークがリンネの隣に立ち、穏やかな声で説明した。
「ここを通る人々の姿を見ているだけでも、この王国の広さと、多様さがよく分かりますよ」
リンネは目を輝かせ、キョロキョロと辺りを見回した。
「知らないものがいっぱいある……」
その呟きには、不安の色はもう微塵もない。代わりに、職人としての純粋な探究心と好奇心が、胸いっぱいに広がっていた。
通り過ぎる商人の荷台に積まれた珍しい鉱石。
旅人たちが使っている、風雨に強そうな特殊な仕立ての革細工。
馬車を繋ぐ頑丈な金具の構造。
目に入るものすべてが新鮮で、リンネの頭の中は新しいアイデアや疑問でいっぱいになっていく。
ルークは、そんな彼女の様子を横目で見ながら、思わず苦笑を漏らした。
(やっぱり、こうなるんだな……)
(初めて見る景色より、そこにある"仕組み"へ目が向く。)
(それがリンネさんらしい。)
でも、その生き生きとした横顔を見ていると、連れ出して本当によかったという思いが強く胸に満ちてくる。
休憩を終え、再び二頭立ての馬車は秋の街道へと走り出した。
午後の柔らかな光が、黄金色の麦畑や、色づき始めた木々の葉をきらきらと照らし出している。
心地よい揺れに身を任せていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。
ふと、ルークが静かに口を開いた。
「リンネさん」
「ん?」
「ラウノを出るとき……みんながすごく温かく見送ってくれましたね」
その言葉に、リンネは少しだけ照れくさそうに頬を緩めた。
「うん……びっくりした。あんなにたくさんの人が集まってくれるなんて思ってなかったから」
「みんな、リンネさんのことが本当に好きなんですね」
ルークの言葉に、リンネは窓の外から視線を戻し、自分の手のひらをそっと見つめた。
「私、大したことはしてないんだよ。ただ、みんなが困っているときに、私にできることを少し手伝ってきただけで……」
「それがすごいんです」
ルークの瞳が、まっすぐにリンネをとらえた。
その真剣な響きに、リンネは少し気恥ずかしくなり、視線を逸らす。
「騎士として色々な街や村を見てきましたが、利害関係なしにあれほど心から感謝され、愛されている人はいません。リンネさんが今まで誰かに差し伸べてきた優しさが、あの朝、あのまま形になって返ってきたんですよ」
「……そんなふうに言われると、なんだか照れくさいなぁ」
リンネは両手で自分の熱くなった頬を包み込んだ。
けれど、その胸の奥底には、じんわりと心地よい温かさが広がっていた。
故郷を離れる寂しさはもちろんある。けれど、あの温かい街の人たちが自分を送り出してくれたという事実が、今のリンネの背中をしっかりと支えてくれている。
やがて夕暮れが近づき、空が茜色から深い藍色へと移り変わり始める頃。
馬車は街道沿いの、一日目の宿泊地となる宿場町へと滑り込んだ。
石畳の敷かれた宿の前に馬車が止まると、旅の疲れを癒やすように馬のいななきが響く。
「今日はここで一泊します」
ルークに促され、リンネは馬車から降り立った。宿の窓から漏れる橙色の灯りと、食堂から漂う煮込み料理の香りが、旅人たちを迎えている。
宿屋の主人が何度もランタンの火を点け直していた。
「今日は風が強くて困るな……」
その様子を見たリンネは足を止める。
宿の軒先で困っている宿屋の主人を見つけたリンネは、見過ごせなくなり、荷物から小さな金属の輪を取り出してサッと取り付けた。
「もし、よければ」
「これをつけておくと、風が吹いても消えなくなりますよ」
「おや、これは……! ありがたいねぇ、こんな便利な物があるのか!」
主人が目を丸くして感心するのをよそに、リンネは照れくさそうに笑って頭を下げた。
少し離れた場所からその様子を見ていたルークは、思わず小さく苦笑する。
(
王都へ着く前から、また誰かを助けている……。本当に、らしいな)
宿の温かな灯りを見つめながら、リンネはふっと小さく息を吐いた。
「明日も、ずっと遠くまで行くんだなぁ……」
その横で、マロがぴょこんと跳ねてリンネの足元を撫でる。
「とまりぎ! ごはん!」
「そうだね、ご飯にしようか」
見知らぬ土地で迎える、初めての夜。
不安はまだ消えてはいない。
それでも隣には頼もしいルークがいて、肩には大切な相棒がいる。
旅は、まだ始まったばかり。
王都という新しい舞台は、静かに彼女を待っていた。




