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辺境の付与術師は静かに暮らしたい ~リンネ小物店のひみつ事情~  作者: 隅乃 けい


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第51話 証明される共生

張り詰めた空気の中、三日間に及ぶ調査は、驚くほどの静寂をもって続けられていた。


「……異常だ。こんな数値、あり得ない……!」


リンネの店の片隅に設けられた臨時の調査所で、精霊協会の研究員が頭を抱えていた。

机の上では、魔力を記録する計器の針が、静かに、規則正しく音を刻んでいる。


「何度測っても、魔力が完全に安定しているんだ。神話級精霊でこれは……あり得ない」


本来、高位の精霊を従えるには、厳格な命令や魂を縛る契約の刻印が不可欠というのが大陸の常識だった。

だが、白く小さな精霊――マロには、そんなものはどこにもない。

それにもかかわらず、マロはリンネの意思を先回りするかのように愛らしく動き、その強大な力が牙を剥く兆候は、三日間のあいだ一度として現れなかった。


ハンスは計器の数値へ静かな視線を落とし、手帳へと淡々と記録を書き込んでいた。その声音はどこまでも平坦で、冷徹だった。


「……古文書の記録と一致しない。だが、観察期間はまだ残っている。記録を続けなさい」




その日の午後。

店先で、リンネは集まってきた街の子どもたちへ、自作の小さな付与具を笑顔で手渡していた。


「はい、順番にね。喧嘩しちゃダメだよ?」


子どもたちはリンネの周りを元気いっぱいに走り回っていた。

その輪の中心では、小さなマロが負けじと短い手足をバタつかせて駆け回っている。

だが、その姿を目で追えているのは、この場ではリンネたちと、物陰から必死に羽ペンを走らせる精霊協会の者だけだった。


「あるじ!」


マロは得意げにふさふさの尻尾をパタパタと振る。


「ふふっ、楽しそうだね」


リンネが誰もいない空間に向かって笑い返す姿を見て、子どもたちは不思議そうに首を傾げた。


「リンネお姉ちゃん、誰とお話ししてるの?」


「えっ……あ、ひとりごと、ひとりごと!」


少し離れた場所からその様子を観察していたハンスは、頑ななまでにマロから視線を逸らし続けていた。手元の書類だけを凝視するその異様な様子に、リンネは小声で隣のルークに尋ねた。


「……あの、ルークさん。ハンス主任、一度もマロを見てくれなくて……」


「違いますよ」


ルークは静かに首を振った。


「え?」


ルークは答えず、ただ静かにハンスの横顔を見つめた。

その視線の先で、ハンスは徹底してマロを視界から外し、淡々と書類へペンを走らせ続けている。


リンネはもう一度、ハンスのその強固な横顔を見つめる。


(……そういうことなんだ)


拒絶ではない。彼は今、自分自身と戦っているのだ。




正式な最終日を迎えた。


「本日をもって、現地観察を終了とします」


ハンスが宿舎の一室でそう告げた、まさにその瞬間だった。


――ガシャァァァァァン!!!


市場の方角から、地響きのような凄まじい轟音が街中に響き渡った。

続いて、悲鳴が波のように重なって押し寄せてくる。


「馬が、軍用馬が暴走してるぞ! 誰か止めろ!!」


部屋の扉が勢いよく開き、息を切らした研究員が飛び込んできた。

「ハンス主任! 市場で牽引馬がパニックを起こし、暴走しています!」


ハンスの隣に控えていた神官長は、愛弟子を静かに見つめ、その背中をそっと押すように小さく頷いた。


「ハンス。行ってこい」


「……はい!」


ハンスは弾かれたように指示を飛ばした。

「救護班、直ちに市場へ! 止血班は即座に陣形を展開! 研究班は私に続け!」


同時に、ルークとリンネもすでに地を蹴って駆け出していた。


市場は、まさに混沌に包まれていた。

横転した巨大な荷車のそばで、幼い子どもが恐怖に腰を抜かし、立ち尽くしている。その目の前には、狂乱した馬の蹄が迫っていた。


全員が、同時に動いた。


「止まれぇぇぇっ!!」


ルークが暴走する巨馬の懐へと肉薄し、引きちぎれんばかりの手綱を強引に掴み取る。全身の筋肉を軋ませ、その剛腕で狂暴な暴威を力任せにねじ伏せた。


その瞬間、横転した荷車から、大量の重い木箱が子どもへと降り注ぐ。


「お願い、間に合って……!」


リンネが自作の付与具を宙へと放り投げた。展開された衝撃吸収のクッション障壁が、落下する木箱を柔らかく受け止め、その勢いを殺す。木箱は人のいない石畳へと滑るように受け流されていった。


「――術式展開、光殻障壁!」


さらにハンスが魔導書を掲げ、リンネの障壁をすり抜けて飛散してきた鋭利な木片を、完璧に遮断した。ハンスの無駄のない指揮が飛び、救護班が即座に子どもを保護する。


危機は去った。しかし、現場はまだ、恐怖に縛られてパニックを起こした群衆の叫び声で満ちていた。


ルークが暴れ馬を抑え込み、リンネが子どもを抱きしめ、ハンスが救護を総括する。人々の力によって、物理的な危機は完全に防がれた。


それでも、人々の心に残った深い恐怖と動揺だけは、人間の力だけではすぐに鎮められなかった。


その時だった。

小さなマロが、群衆の真っ直ぐ真ん中へとトコトコと走った。


「だいじょうぶ!」


マロが短く鳴いた。

その小さな身体から、柔らかな光が静かに広がる。

次の瞬間だった。

泣き叫んでいた子どもの肩から、ふっと力が抜けた。恐怖に凍りついていた群衆の呼吸が、ゆっくりと穏やかに揃っていく。ルークの手の中で荒々しく逆立っていた巨馬の筋肉も、嘘のように弛緩し、静かに鼻息を鎮めた。


人々には、何が起きたのか分からなかった。

ただ、胸の奥を締めつけていた恐怖だけが、いつの間にか消えていた。


市場は、深い静寂に包まれていた。

あれほどの大事故だったにもかかわらず、命を落とした者は一人もいない。重傷者も、いなかった。


ハンスは、微かに震える手で魔導計器を見つめていた。

極限状態の混沌に晒されながらも、記録された魔力波形は、どこまでも平坦。最後まで、一度として乱れることはなかった。


ハンスは一度目を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。

そして、今日初めて、真正面からマロを見た。


マロは何も分かっていない様子で、ただリンネの足元でふさふさの尻尾をパタパタと振っている。


ハンスは手帳を開きかけ、――ぴたりと手を止めた。

もう、何も書き留めない。

彼は静かに手帳を閉じ、胸ポケットへしっかりと収めた。


「……調査終了」


ハンスは静かに前を向き、淡々と告げた。


「私は三日間、この精霊が人を傷つける瞬間を探し続けました」

「……最後まで、一度も見つかりませんでした」

「以上が、私の調査結果です」


ハンスの若草色の瞳に、もう迷いはなかった。

神官長は愛弟子のその清々しい横顔を見つめ、どこか嬉しそうな、深い笑みを浮かべた。


「……お前さんにも、古文書に載らん精霊がおったようじゃな」


ハンスはそれに答えず、ただ静かに目を細めた。


ふと、ハンスの視線が動き、少し離れた場所に立つルークと捉え合った。

言葉はない。

ただ静かに、二人は互いに小さく頷き合った。


雨は、まだ止まない。


けれど、その雨はもう、彼らの歩みを止めるものではなかった。



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