第50話 交わることのない理
地方都市ラウノの街門を、数台の馬車がゆっくりとくぐり抜けた。
どんよりとした重い雨雲の下、先頭を行く馬車の窓辺には、純白の神官服をまとった青年――ハンスが座っていた。
彼の膝の上には、革張りの分厚い手帳が開かれている。
そこには、人間業とは思えないほど細かな文字で、ある一つの存在についての記録がびっしりと並んでいた。
『丸みのある足底部。移動時にほとんど音がしない。非常に愛らしい』
『尾を高速で振る。機嫌が良い時の独自の表現か。たまらなく愛らしい』
『お腹を触ると、くすぐったそうに身をよじる。たまらなく――』
「……はっ」
ハンスはハッと我に返り、自身のペン先をピタリと止める。
端正な顔をわずかに赤く染め、慌ててそのページをめくる。
「……いけない。主観的な愛着は、調査の目を曇らせる。私は神官であり、研究者だ。あの子のためにも、正しく、厳格に観測しなければ」
ハンスの隣に腰掛け、深くシートに身を沈めていた老神官――中央協会の神官長であり、彼の恩師でもある老人が、窓の外の雨音を聞きながら、ぽつりと呟いた。
「お前さんは、あの事故以来、ずっと変わらんのう」
ハンスは手帳を握る指に力を込め、窓へ視線を逸らしたまま答えない。
老神官はそれ以上追及せず、ただ静かに目を細めた。
「……あの日、誰も責任を取れなかった。だからこそ、お前さんはすべてを背負い込もうとしている」
ハンスは若草色の瞳をまっすぐに前へ向けたまま、静かに、しかし揺るぎなく言い切る。
「神話級精霊だからこそ、中途半端な判断はできません。私は研究者として、三日間、徹底的に見ます」
神官長は小さく息を吐いた。
「……好きだからこそ厳しく見る。相変わらず不器用じゃの」
ハンスはそれには答えず、窓の外の雨粒を見つめた。
その若草色の瞳の奥に秘められた覚悟を、まだ誰も知らない。
同じ頃。
街の片隅にあるリンネの店では、当の本人が、落ち着きなく部屋の中を行ったり来たりと歩き回っていた。
「うぅ……どうしよう、心臓が口から出そう……ものすごく緊張する……!」
「だいじょうぶ!」
リンネの足元で、ふわふわとした毛並みを持つ小さな精霊――マロが、短い手足をばたつかせながら元気いっぱいにジャンプした。
「いや、マロ、全然大丈夫じゃないから! 相手は王都から来た偉い神官様なんだよ!?」
「だいじょーぶ!」
「その根拠はどこから来るのよ!?」
「あるじ!」
マロはリンネの焦りなどどこ吹く風で、嬉そうにふさふさの尻尾をパタパタと振っている。
そのあまりにも無垢な姿を見ているうちに、リンネの肩からガチガチに入っていた余計な力が、ふっと抜けていく。
「……はぁ。ほんと、あなたって子は……」
呆れつつも救われたような笑みを浮かべた、その瞬間。
トントン、と店の扉が規則正しく叩かれた。
現れたのは、腰に剣を帯びた、毅然とした佇まいのルークだった。
「リンネさん。時間です」
「は、はい……っ!」
リンネはマロをしっかりと腕に抱き上げ、小さく、しかし強く拳を握りしめた。
逃げるわけにはいかない。この温かい街で、マロと一緒に暮らすと、昨日, 心に決めたのだから。
――カラン、とドアベルを鳴らして外へ出ると、どんよりと低く垂れ込めていた雲から、冷たい雫がぽつり、ぽつりと落ちてきた。歴史を刻んだ古い石畳を黒く染め始めた雨は、二人の緊張を映すように、またたく間にその勢いを強めていく。
中央騎士団駐屯所の応接室。
しとしとと冷たい雨が降り注ぐ中、ハンスたちの一団と、ルーク、そしてリンネとマロが対峙していた。
室内の空気が、張り詰めた弦のように緊張感で満ちていく。
ソファーに掛けたハンスは、白に銀の刺繍が施された神官服の袖を整え、まずは静かに頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。ルーク卿、そしてリンネさん」
ハンスの若草色の瞳には、一切の妥協を許さない冷徹な光が宿っていた。
「神話級精霊の無届けの所持は、国法により厳しく禁じられています。本来であれば、リンネさんの身柄も含め、即座に王都へ移送し、厳重な管理下に置かれる案件です」
リンネの体がびくりと強張る。マロを抱く腕に、思わず力がこもった。
だが、ハンスは静かに首を横に振った。
「……しかし、それはできません。対象者は、侯爵家の正式な婚約者です。婚約の届け出は、すでに王都本部で受理されています。本件は地方協会の裁量による即時移送案件には該当しません。正式な調査を行い、危険性を立証し、王都本部の承認を経て初めて保護命令が執行されます」
ハンスは淡々と、しかし極めて厳格に言葉を続ける。
「法を曲げれば、我々が法を守る資格を失います。悪意がなくても、人は死にます。だからこそ、管理が必要なのです」
その言葉に、室内の空気が一段と重くなった。
(――え?)
リンネは思わず息を呑んだ。
あの日、ルークがまっすぐに差し出してくれた婚約の言葉。自分はただ、彼と一緒にいたいと願って、その手をとった。あのときは、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。
けれど今――その想いは、自分とマロを守る強固な盾になっていた。
リンネは胸が熱くなるのを感じながら、思わず腕の中のマロをきゅっと抱きしめた。
その時、ハンスの視線が、初めてリンネの腕の中に向けられた。
――ぴくり。
ハンスの指先が、わずかに震えた。
無意識に手帳へ伸びかけた指を、彼はぎゅっと握り締める。
神話の記録でしか見たことのない精霊波長。
——記録したい。
その衝動を、理性で押し殺した。
「……失礼しました」
ハンスは冷徹な神官の仮面を必死に塗り直し、その微かな動揺を押し隠す。
その変化を鋭く見逃さなかったルークが、静かに一歩前に出た。
「その認識で間違いありません、ハンス神官。正式な手続きには従います。三日間、あなた自身の目で判断してください。危険性が証明されるなら、その判断は受け入れます。ですが、安全なら――この街で暮らす権利も認めていただきたい」
ルークの瞳に、揺るぎない理知の光が宿る。ハンスは冷ややかに見返した。
「結構です。そのために私は来ました」
「ならば問います、ハンス神官」
ルークの声が、室内を射抜くように響いた。
「危険である証明は誰が行うのですか。そして、危険ではない証明は誰が認めるのですか」
ハンスは迷いなく答える。
「我々、精霊協会です」
「つまり、裁く者と証明する者が同じなのですね」
ルークの鋭い追及に、ハンスは少しも動じず、真っ直ぐに言い放った。
「そのとおりです」
ハンスの瞳には、一切の迷いも曇りもない。
「ですが、精霊を管理できる組織は王国に我々しか存在しません。未完成だから行わない、という選択肢はありません。不完全であっても、誰かが責任を負わなければならない。……それが精霊協会です」
その言葉に、ルークはわずかに息を呑んだ。
ハンスの主張は冷徹だが、組織の長としての責務と正義に基づいており、論理的に破綻していなかった。
ルークは静かに目を伏せ、そして再びハンスをまっすぐに見据えた。
「……承知しています。だから私は制度を否定しません。ただ、一つだけ証明したい。管理されるべき存在ではない精霊もいると」
「だから私は制度を否定しません。」
ルークの後ろで、リンネはマロを抱きしめたまま、逃げずにハンスの目を正面から見つめ返していた。その声は微かに震えていたが、意思は濁っていない。
「この子は、誰も傷つけません。どうか、あの子の本当の姿を見てください」
ハンスは数秒間、沈黙した。
商談や戦闘とは違う、だが互いの信念をかけた静かな膠着状態。やがてハンスは、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かりました。三日間、この街で調査を行います。徹底的に調査します。一切の先入観なく。もし万が一にでも危険性が認められれば、その時は規定どおり保護命令を申請します」
ルークは静かに深く頷いた。
「ご判断をお任せします」
「承知しました」
誰も笑っていない。誰も怒鳴ってもいない。
それでも、この部屋には剣を交える戦場にも負けないほどの緊張が満ちていた。
室内の空気が静まり返る中、一同が退出の準備を始める。
その時、リンネの腕の中で、マロがひょこっと顔を出した。
「きゅ?」
つぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせながら、目の前の厳格な神官――ハンスを、興味津々といった様子でじっと見つめる。
小さく首をかしげる、その無垢なしぐさ。
ハンスの視線が、思わずマロへ吸い寄せられた。
その瞬間――
端正な口元が、ごく自然に、ほんのわずかだけ緩む。
まるで長年染みついた癖のような、理性より先にこぼれかけた笑みだった。
「……っ」
だが次の瞬間、ハンスは小さく息をのみ、その表情を自ら戒めるように引き締める。
神官としての冷静な仮面が、何事もなかったかのように再び顔へ戻った。
「……失礼。行きましょう」
誰にも気づかれぬよう小さく息を吐き、ハンスは静かに踵を返す。
ルークはその背中を見送りながらも、何も言わなかった。
ただ静かに一礼する。
その沈黙だけで、自らの答えを示した。
雨はなお、静かに降り続いていた。
三日後。
雨が止む頃。
互いに正しいと信じる理が、静かに結論を迎える。




