第49話 マロ
翌日の夜。
「少し、お話ししたいことがあります」
その短い伝言を受け、ルークはリンネの店を訪れていた。
外はしとしとと、静かな雨が降っていた。
リンネの自室のランプは、今夜も薄暗く灯っている。ルークは椅子に座り、ベッドの端で膝を抱えて小刻みに震えるリンネを、ただじっと見つめていた。その視線には、哀れみではなく、彼女のすべてを受け止めるという深い静寂があった。
「……覚えていますか」
リンネは掠れた声で、震える唇を微かに歪めて笑った。
「私が前に話した、前の世界での家族のこと」
ルークは静かに、けれど揺るぎない眼差しで頷く。
「はい。忘れるはずがありません。大切な、小さな犬がいたというお話ですよね」
「ええ……」
リンネは膝を握る指に、白くなるほど力を込めた。昨夜、勇気を出して目の前の小さき命に「マロ」と名前を付けたことで、彼女の中でせき止められていた記憶の濁流が、いよいよ溢れ出そうとしていた。
「でも、その子の最期のことだけは……まだ、話していませんでした」
ルークは続きを促さず、ただじっと待った。リンネの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。
「毎日名前を呼べて、呼ぶたびに尻尾を振ってくれて。本当に幸せでした。でも、あの子は病気になって……最後の日、私の腕の中で息を引き取ったんです。何度名前を呼んでも、もう二度と返事はなくて。腕に残ったあの時の重みも、失われていった温もりも、もっと何かできたんじゃないかっていう後悔も、どうしても消えなくて……」
前世から引きずってきた、最も深くて黒い傷口。それを曝け出して泣きじゃくる彼女の元へ、ルークはそっと近づき、力強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「リンネさん。あなたは臆病ではない」
耳元で、ルークの低く確かな声が響く。
「それほどまでに深く、命を愛せる人だ。その傷を背負いながら、この街で笑顔を絶わさずに生きてきたあなたを、俺は心から尊敬しています。……もう、一人で怯えなくていい。もしあなたがまた何かを失いそうになるなら、次は俺が、この命を懸けてすべてを守り抜く。だから――」
ルークの温もりが、リンネの凍てついた心を内側から溶かしていく。
(ああ、この人は……私の呪いごと、愛してくれているんだ)
その時だった。
二人の足元でじっと話を聞いていた白いわんこ精霊が、トコトコと歩み寄ってきた。
リンネの頬を伝う涙を、小さな舌で優しい、愛おしそうにピチャリと舐める。
「きゅぅ……」
精霊はリンネの瞳をじっと見つめる。そして、小さな口を開き、まだたどたどしい、けれどはっきりとした声で告げた。
「……ぼく、まろ」
リンネが、息を呑む。
その二文字を聞いただけなのに、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
もう、この子は前世の面影ではない。今、確かに自分の前で、自分の名を名乗った。
「え……?」
「あるじ、きのう、なまえをよんでくれた。ぼく、まろ。そのなまえ……すき。あるじが……くれた、なまえ」
小さな尻尾が、パタパタと嬉そうに振られる。
リンネの胸が、ぎゅっと熱くなった。
前世で、彼女が腕の中で最期まで呼び続けた、あの愛犬の名前。
どうして、この子が知っているのだろう。偶然なのか。それとも――。
答えは、誰にも分からなかった。けれど、その愛おしい響きが、今この瞬間、確かに目の前の精霊の声として紡がれている。
リンネの目から、今度は堰を切ったように、温かい救済の涙が溢れ出した。
彼女は精霊を愛おしく抱きしめ、声を詰まらせながら、その名を肯定するように応える。
「うん……っ。そうよ、あなたはマロ。私の、大切なマロ……!」
その瞬間、世界からすべての音が消え去った。
「――っ!?」
ルークが瞬時に身構える。
部屋の空気が一変し、満ち溢れるほどの清らかな魔力が、光の粒子となって部屋中を埋め尽くした。
空間に、黄金色のまばゆい輝きを放つ古代文字が、いくつも、いくつも浮かび上がり、ゆっくりと組み替わっていく。
それは、リンネが与えた「マロ」という名を、世界の理が正式に認めた――精霊の「真名」。
最後に一つの名だけが宙に残り、静かに輝いた。
《 EL・MARO 》
神話の時代にしか存在し得ないはずの、超高位精霊の顕現。
世界を揺るがすほどの奇跡の光が、小さな部屋を神聖に満たしていく。
もしこの場に精霊協会の研究者がいたなら、その誰もが息を呑み、膝を折っただろう。
神話の記録にしか存在しないはずの「真名」が、今まさに世界へ刻まれていたのだから。
けれど、ルークは違った。
彼が見ていたのは、世界を変えるほどの古代文字ではない。
前世の呪縛を乗り越え、初めて心から笑って泣く、一人の女性の姿だった。
彼にとって世界で最も尊い奇跡は、その笑顔だった。
だからこそルークは、その神話の奇跡よりも、ただ愛おしいリンネの顔だけを、その瞳に焼き付けるように見つめ続けていた。
光の中で、マロはリンネの胸に小さな頭をすり寄せ、力強く告げた。
「こんどは……まろが、あるじと、るーくを、まもるからね」
「っ……ありがとう、マロ……!」
リンネの言葉に、ルークもまた、胸の奥から込み上げる温かい感情を噛み締めるように、二人をそっと包み込むように抱きしめ返した。
失われた帰る場所は戻らない。
それでも今、新しい居場所は確かにここにあった。
独りだったリンネは、もう一人ではない。
ルークがいて。マロがいる。
小さな店はこの夜、三人にとって、ようやく見つけた大切な「居場所」になった。




