第48話 名前を呼ぶのが怖い
精霊協会から突きつけられた、王都への出頭要求。その静かな圧力は、ラウノの街に確かな緊迫感をもたらしていた。
けれど、中央騎士団の駐屯所、その一角にある執務室の空気は、それ以上に静かで、実質的な対抗策を練るルークの意志によって苛烈さを増していた。
「――これが、今回王都から派遣されてくる精霊協会の本隊、および特別研究班の学者たちの名簿です」
ルークは執務机の上に、独自に調べ上げた分厚い書類を並べていた。目の前には、腕を組んで渋い顔をするガルディアがいる。
「随分と早く調べ上げたな、ルーク。昨日、婚約の件で王都の実家へ親書を送りに行ったばかりだろう」
「普段から転移門で中央とここを行き来していますから。その足で中央の伝書鳥を私的に使わせていただきました。事後承諾になりますが、減俸なり謹慎なりはすべて後で受けます」
ルークの瞳には、一切の迷いも躊躇もなかった。愛する人の盾になると決めた男の眼差しだ。
「彼らは一見、国教集団に見えますが、本質は違います。純粋に精霊を愛し、その神秘を解き明かしたいと願うあまり、王都の硬直したシステムの一部となっている『学者』たちです。先日報告いたしましたあの神官ハンスが、幼少期からその天才的な魔力と精霊視の才能を協会に捧げ、純粋な使命感だけで動いているように」
ルークは拳を固く握りしめる。
「侯爵家の力で、一時的に派遣を止めることはできるでしょう。ですが、それでは問題を先送りにするだけです。リンネさんは一生、国から目を付けられ、追われることになる。……俺は、彼らの理屈そのものを覆します」
力強く言い切ったルークは、さらに言葉を続けた。
「国家に敵対するつもりはありません。彼らにも守ろうとしている世界がある。だからこそ、その『正しさ』を認めた上で、それでもリンネさんがこのラウノの街で生きることが、この国にとっても、精霊たちにとっても最善なのだと証明してみせます」
ルークの言葉を聞き、ガルディアは不敵に笑った。
「……言うようになったじゃねえか。よし、泳がせてやる。指揮官の権限で全て揉み消してやるから、好きに暴れてこい」
「感謝します」
ルークは深く一礼し、自らの戦場へと赴くために部屋を後にした。
その日の夕方。
精霊協会との緊迫した空気から離れるように、ルークはリンネの店を訪れていた。
店の奥の居住スペース。夕食を終えた後の穏やかな時間、テーブルの上では、淡く青白く輝くわんこ精霊が、ルークの大きな手にトコトコと近づき、その指先をくんくんと鼻でつついていた。
魔力の高い彼に親しみを示している仕草だったが、その姿を見つめるルークの目は優しかった。
「昨日よりも少し、光が安定してきた気がしますね」
ルークの何気ない微笑みに、お茶を淹れていたリンネも少しだけ表情を和らげた。
「そうなんです。普段は普通の人には見えない子ですから、お店ではずっと私の足元に隠れているんですけど……最近は私の真似をして、お座りみたいなポーズをすることもあるんですよ」
「ふっ、あなたに甘えているのですね。……ですがリンネさん、いつまでも『この子』や『精霊』と呼ぶのも不便でしょう。そろそろ、あなたがこの子に、名前を付けてあげてはいかがですか?」
ルークは、何気なく提案した。
婚約という形で「家族」への一歩を踏み出したのだ。この小さな居場所の象徴であり、自分たちにしか見えないこの精霊に、リンネ自身の口から名前を与えることは、ごく自然な流れのはずだった。
「――っ」
その瞬間、リンネの身体が凍りついた。
ガタ、とトレイの上のカップが不吉な音を立てて揺れる。
リンネの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのを、ルークは見逃さなかった。
「リンネさん……?」
ルークの声が、遠く聞こえる。
リンネの脳裏には、前世の、ずっと胸の奥底に封印していた記憶が静かによみがえっていた。
腕の中にある、小さな、愛おしいぬくもり。
毎日、名前を呼べば、嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってきた、大切な家族。
けれど、その子は少しずつ病に蝕まれていった。
『大丈夫だよ』
『きっと良くなるよ』
そう言い聞かせながら、毎日名前を呼び、ご飯を食べさせ、水を飲ませ、歩けなくなれば抱き上げて外へ連れて行った。
昨日までできていたことが、今日はできない。
今日できたことが、明日にはもうできなくなる。
あの子に不安を気取らせないように自分を奮い立たせ、毎日名前を呼び、食事を口元まで運び、眠れない夜は何度も体をさすった。
それでも、小さな体は少しずつ痩せていき、できていたことが、一つ、また一つとできなくなっていく。
そして最後の日。
震える腕の中で、その子は安心したように一度だけ彼女を見上げ、小さく尻尾を揺らした。
『マロ……』
涙で滲む視界の中、何度その名前を呼んでも、もう返事は返ってこなかった。
あの時の腕に残った重みも。
少しずつ失われていった温もりも。
「もっと何かできたんじゃないか」という後悔も。
異世界へ転生し、前世と合わせて数十年、どれだけ理性を身につけても、胸の奥から消えることはなかった。
(名前を呼ぶのが、怖い……)
名前を呼ぶたびに、愛しくなる。本当の家族になってしまう。
けれど、名前を呼ぶたびに別れが近づき、深く愛せば愛するほど、失った時の身を裂かれるような痛みと後悔に、また潰されそうになってしまう。
だから、この世界に転生した時に心に決めていたのだ。
もう二度と、自分から誰かに正式な名前を与えない。本当の家族を作らない。
あんな、頭がおかしくなりそうな別れを、二度と経験しなくて済むように――。
「すみません、ルークさん。私……少し、気分が……今日はもう……」
リンネの声は、痛々しいほどに震え、今にも泣き出しそうだった。
ルークは、それ以上理由を尋ねなかった。
なぜ彼女がそこまで怯えるのか、その背景までは分からなくとも、彼女の拒絶の表情を見て、一瞬で理解した。これは今、自分が土足で踏み込んでいい傷ではないのだ、と。
「……失礼しました。俺の配慮が足りませんでした」
そう一言だけ残し、彼は静かに席を立った。
これ以上彼女を追い詰めないよう、労るような優しい眼差しを一度だけ向けると、音を立てないよう静かに扉を閉め、店を後にした。どこまでも、彼女の痛みに寄り添うための退却だった。
夜。
ルークが静かに帰ったあと。
リンネは自室のベッドの上で、膝を抱えて小さくなっていた。窓から差し込む月光が、彼女の孤独を白く照らす。
「私は……どこまでも臆病者だ」
自嘲するようにつぶやく。
付与術師として気丈に店を切り盛りし、ハンスの正論にも立ち向かおうと決めたはずなのに、大切なものを失う恐怖の前では、ただの子供のように怯えて殻にこもることしかできない。自分をあんなにも真っ直ぐに愛してくれたルークの優しさにさえ、こうして壁を作ってしまう。
すると、暗闇の中からトコトコと小さな足音が近づいてきた。
まだ名前を持たない、白いわんこ精霊だった。
精霊は何も言わず、リンネのベッドに飛び乗ると、彼女の膝へ前足をそっと乗せ、そのまま体を預けるようにぴったりと寄り添った。
その愛らしい顔を見つめながら、リンネはゆっくりと手を伸ばす。
「ごめんね……」
リンネは、淡く光る小さな頭を優しく撫でた。
「あなたは何も悪くないのに……私が、ただ怖いだけなの」
精霊はゆっくりとつぶらな目を細め、安心させるように、リンネの濡れた頬へ温かい顔をすり寄せた。
放置された寂しさではなく、ただ彼女を包み込むように、小さく鼻を鳴らす。
「……きゅぅ」
その声は、言葉にはならなくても、彼女の傷ついた心に深く染み渡り、まるで――
『大丈夫だよ。ぼくはここにいるよ』
そう伝えているようにも聞こえた。
リンネは涙をぬぐい、小さな精霊をそっと抱き寄せた。
「……マロ」
自然と、その名が唇からこぼれた。
前世で愛した家族と同じ名前。
だからこそ、その名を口にするまで、こんなにも時間がかかった。
けれど、あの子の面影を感じさせる、優しく愛らしい響きだった。
「あなたは、今日からマロ」
「きゅぅ!」
小さな精霊は、一瞬きょとんと目を丸くしたあと、まるでその響きが自分のものだと理解したかのように、嬉しそうに尻尾を振ってリンネの頬へすり寄った。
「きゅぅ」
マロは嬉しそうに尻尾を振り、リンネの胸へ顔を埋めた。
リンネはその小さな温もりを、今度は決して離さないように、そっと抱き寄せる。
「……よろしくね、マロ」
月明かりの部屋で、その名前はもう悲しみではなく、新しい家族を呼ぶ優しい響きになっていた。




