第47話 祝福の街、揺るがぬ決意
満月の夜の、あの静かで不器用な誓いから、一夜が明けた。
ラウノの街に差し込む朝日はいつもと同じように暖かかったが、リンネの心臓は、夜が明けてからずっと、小刻みに跳ねたままでいた。
(……婚約。私が、ルークさんと)
店の奥で魔道具の調整をしながら、リンネは何度目かもわからないため息をつく。
どうにも手元がおぼつかない。
昨夜、重ねられたルークの大きな手の、あの決して強くは握らなかったのに、離れがたいほどに温かかった感触が、今も皮膚の内側にこびりついて離れなかった。
「きゅぅ?」
足元で、白いわんこ精霊が不思議そうに首を傾げてリンネを見上げている。
これまで異世界という見知らぬ土地でも理性を保ち、周囲と良好な関係を築きながら自立して店を切り盛りしてきた自負はある。それなのに、たった一晩で、まるで恋を知ったばかりの少女のように心が千々に乱れている。そんな自分自身に、気恥ずかしさと戸惑いが隠せなかった。
一方、中央騎士団ラウノ駐在所の副団長室。
「――で? 報告はあるんだろ、ルーク」
執務机に書類を放り出し、背もたれに深く体重を預けたガルディアが、ニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべてルークを見ていた。
ルークは直立不動の姿勢のまま、いつもより耳の裏まで赤く染め、彫像のように硬直している。その手には、昨日深夜の訓練場で、溢れ返る感情を鎮めるために狂ったように剣を振り回したせいで、微かに新しいマメができていた。
長い沈黙の後、彼は意を決したように、これ以上ないほど明瞭な声で告げた。
「……婚約、いたしました。昨夜のうちに、王都の実家へ俺の意志を綴った親書を送りました」
正式な承認はまだ届いていない。だが、もう賽は投げられた。
ガルディアは驚きもしなかった。ただ、一瞬だけふっと目を細め、机を指先でトントンと叩く。
「……遅ぇよ、この馬鹿弟子」
呆れたような、けれどどこか父親のような温かさを孕んだ笑みだった。
ガルディアは立ち上がり、ルークの肩を無骨な手で叩く。
「今朝のお前の顔を見れば分かったさ。もし日和るようなら、力ずくで任務に戻してやるつもりだった。……だが、お前は違った。任務でもないのに腹を括った男の顔をしていた。――よくやった。ここからが、本当の始まりだ」
「はっ……。寛大なご処置、感謝いたします」
騎士団の中でも最強の剣士と言われる若き天才騎士が、恩師の前で少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
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午後。
どうしても落ち着かないリンネは、気分転換を兼ねて、わんこ精霊を連れて商店街へ買い出しに出ることにした。
昨日までは、国家保護命令の重みに押し潰されそうで、街の景色すら霞んで見えていた。けれど、今日歩く街の空気は、どこか違って感じられる。
「あら、リンネちゃん!」
声をかけてきたのは、食堂の女将であるオルガだった。手にしたカゴに、頼んでもいない立派な野菜をぽんぽんと放り込んでくる。
「昨日、ルーク様と丘の方へ歩いていくところを見かけた子がいてね。帰ってきた時のお二人が、なんだか昨日までと違う顔をしてたって。」
「……えっ?」
リンネが思わず声を漏らすと、オルガは優しく目を細めた。
「それに今朝は騎士団のみんなまで妙に浮き足立ってる。副団長さんなんて、朝から隠しきれないくらい上機嫌だったそうじゃないか」
「そりゃ何かあったんだろ?」
隣でパン屋の主人がからかうように笑う。
「あ、あの、それは……っ」
リンネは顔を真っ赤にして口ごもる。商店街のみんなは誰も急かさない。ただ、家族を見守るような優しい笑顔で、リンネの言葉を待っている。
オルガが、ふっと柔らかく問いかけた。
「……で?」
リンネはこれ以上なく頬を赤く染め、何度も開いた口を閉じながら、俯いたまま――小さく、こくんと頷いた。
言葉はなくとも、その仕草だけで十分だった。
「本当なんだね!」
「おめでとう!!」
瞬間、街中が割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
パン屋の主人は、焼きたての香ばしいパンをずっしりと詰めた紙袋を、リンネの腕に無理やり抱え込ませる。
「今日は祝いだ。遠慮せず持っていきな。お前さんの作る魔道具には、いつもこの街が助けられてるんだからよ」
隣の魚屋の店主も、豪快に笑いながら分厚い切り身を包み、ドンとカゴに放り込んだ。
「騎士様だって毎日のメシは食うだろ! 体力が資本だ、今日はおまけしてやるよ!」
通りの角では、買い物をしていた子どもたちが駆け寄ってきて、リンネのスカートの裾を嬉しそうに引っ張る。
「リンネお姉ちゃん、おめでとう!」
「ルークのお兄ちゃんも喜ぶね! 私たち、お祝いの花かんむり作るね!」
あちこちから沸き起こる笑い声と、純粋な祝福の言葉の数々。
リンネが両手で真っ赤な顔を覆っているその横で、
「きゅぅっ!」
わんこ精霊だけは、我がことのように得意げに小さな胸を張っていた。
指の隙間から見える街の人々の笑顔には、誰一人として、平民と侯爵家という「身分の格差」を揶揄するような色や、保身を恐れる様子はなかった。ルークがどれほど高貴な身分かを知っていてもなお、この街でひたむきに生きてきた一人の女の幸せを、まるで本当の家族のように、自分のことのように喜んでくれている。
(私……こんなにも、愛されてたんだ)
毎日顔を合わせ、助け合い、共に生きてきた人たち。
あの日、ルークと交わした約束は、二人だけの独りよがりな決断などではなかった。この街のすべての人たちが、自分たちの未来を温かく祝福し、肯定してくれている。
その確かな温もりが、リンネの胸の奥を熱く満たしていく。
リンネは笑顔を浮かべながら、人々へ何度も頭を下げた。
こんなにも温かな時間が、いつまでも続けばいい――。
しかし、その願いを切り裂くように、街の入り口から、厳かな馬車の足音が響いてきた。
銀色の刺繍が施された、精霊協会の白塗りの馬車。
馬車から降り立ってきたハンス主任研究神官は、まっすぐに歩を進めてくる。そして、人だかりの中心にいたリンネの前で足を止めた。
周囲の空気が、一瞬で凍りつく。
先ほどまでの賑やかな笑い声が嘘のように静まり返る中、近くで買い物帰りのリンネを見守っていたルークが、ただならぬ気配を察して足早に駆け寄り、自然な動きでリンネの斜め前へと立ち、彼女を背後に庇った。
ハンスは静かに二人を見比べると、若草色の瞳を細め、僅かに息を吐いた。
「……なるほど。昨日とは、お二人の空気が違いますね」
具体的な言葉はなくとも、ハンスには十分だった。
ハンスは怒るでもなく、どこまでも世界の未来を憂う声でリンネに語りかけた。
「リンネさん。あなた個人を責めるつもりはありません。ですが、人と精霊の未来に関わる力を、一地方の事情だけで埋もれさせることはできないのです。あなた一人の幸福と、世界にいる多くの命。そのどちらを優先すべきか。……どうか、冷静にお考えください。王都への出頭期限は、変わりませんよ。……あなたなら、正しい答えを選ばれると信じています」
ハンスは静かに一礼すると、踵を返して去っていった。
そこに悪意は一滴もない。心からの正義だからこそ、誰よりも頑なで、誰よりも恐ろしい。
ルークは何も言わなかった。
ただ、リンネが固く握りしめた拳を見て、小さく頷く。
「……その答えを、俺は最後まで守ります」
街の祝福の光の中に、容赦なく差し込まれた精霊協会という名の巨大な影。
人々の笑顔が残る、この愛おしい商店街。
ほんの少し前まで祝福に満ちていた空気は、今は静かな緊張へと変わっていた。
「リンネさん……」
そっと呼ぶルークの声に、リンネは小さく、しかし力強く頷く。
世界を救いたいと願う者たち。
この街を守りたいと願う人たち。
どちらも悪ではない。
だからこそ、そのどちらでもない「私自身の答え」を見つけなければならない。
リンネは顔を上げ、ルークの背中から一歩前へ出た。
守られるだけでは終わらない。
ルークの覚悟に寄りかかるだけでもない。
この街の人たちは、自分の幸せを、家族のことのように喜んでくれた。
だから今度は、自分が守る番だ。
この街も、この笑顔も、そしてルークの隣に立てる未来も。
リンネの瞳には、昨夜までの迷いはもう微塵も残っていなかった。
遠くの秋の気配を運んでくる風は、新しい季節の訪れを告げるように、そっと商店街を吹き抜けていった。




