第46話 満月の下で
昨夜、ルークが静かに店を去ったあと。
リンネは店を閉めてからも、どうしても自室のベッドに入る気になれなかった。
(私は……この街を離れなければいけないの?)
昼間、精霊協会神官のハンスが見せた、あの純粋で穏やかな微笑み。その裏にあった、国家と最大宗教組織という巨大な意志。そこから突きつけられた、平民には逃げ場のない現実。
付与術師として、これまでいくつもの困難を笑顔で受け流し、自立して店を切り盛りしてきた。けれど、今回ばかりは張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。そして、膝の上にポツリと一粒、涙の跡が広がっていった。
「きゅぅん……」
そんなリンネの異変を察したのか、足元から小型犬ほどの白いわんこ精霊がトコトコと歩み寄り、膝の上へ前足を乗せてきた。淡く青白く輝く毛並みを擦り寄せ、つぶらな瞳でじっとリンネを見上げている。
「ねえ……私、どうしたらいいのかな」
ぽつりと言葉を漏らすが、精霊は何も答えない。ただ、温かい体温を分けるようにじっと寄り添い続けてくれる。その無垢な優しさが今はどうしようもなく嬉しくて、余計に涙が溢れて止まらなかった。
翌日。
ラウノの街は、いつもと変わらない爽やかな朝を迎えていた。
石畳の通りからは子供たちの元気な笑い声が聞こえ、店を開ければ「リンネさん、おはよう!」と常連客たちが気さくに声をかけてくれる。
けれど、リンネの心は晴れなかった。いつものように心からの笑顔を返すことができない。
(この温かい景色が、全部なくなってしまうかもしれない……。ルークさんとも、もう……)
そう思うだけで、胸が千切れるように痛かった。
――そして、夕方。
街が黄金色の夕焼けに染まり、やがて紫紺の夜へと移り変わる頃、彼がやってきた。
中央騎士団の制服ではない。昨夜と同じ、目立たぬ濃紺の外套を羽織った私服姿。
ルークは店の入り口で佇み、リンネをまっすぐに見つめ、静かに、しかし決然とした声で告げた。
「少し、付き合ってください」
それだけだった。リンネは小さく頷き、エプロンを外して彼の後を追った。
二人が向かったのは、街外れにあるなだらかな丘の上だった。
以前、わんこ精霊を連れて、三人でゆっくりと散策に出かけた思い出の場所。
すっかり日は落ち、夜空には息を呑むほどに美しい、煌々と輝く満月が昇っていた。草を揺らす夜風の音と、遠くで響く虫の声だけが、静かな世界を包み込んでいる。
並んで月を見上げていたルークが、ゆっくりと口を開いた。
「昨夜、俺は一つの結論に辿り着きました」
静かな夜風の中で、ルークは一度言葉を切り、ゆっくりとリンネの正面へと向き直った。
「最初は侯爵家の力を頼ってでも、あなたを護ろうと考えていました」
「……侯爵家、ですか?」
ルークが貴族だと知ってから、まだ日は浅い。けれど、「侯爵家の力を頼る」という一言は、自分とは住む世界が違うのだという現実を、改めてリンネの胸へ突きつけた。
「ですが、それでは駄目だった」
ルークの銀灰色の瞳が、まっすぐにリンネだけを射抜く。そこには、迷いや打算の色は一切なかった。
「それではあなたを守ることはできても、あなたの意思を尊重したことにはならない。……俺が本当に望んでいたのは、護るための大義名分なんかじゃない」
ルーク自身、その声の震えを止められなかった。
剣を持てば国でも指折りの天才騎士が、生まれて初めて、騎士の仮面を完全に脱ぎ捨て、一人の男としての剥き出しの感情に突き動かされて言葉を紡ぐ。
「騎士としてではありません」
「侯爵家の三男としてでもありません」
「ただ、一人の男として――」
「俺はあなたを失いたくない」
「俺の人生に、あなたがいてほしい」
ルークは一度だけ息をついた。
「守るためじゃない」
「俺が、あなたと一緒に生きたい」
ルークは深く息を吸った。
その瞳から、もう迷いは消えていた。
「――俺と、婚約してください」
その瞬間、虫の声も、風の音も、何一つ耳に入らなかった。
リンネの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
けれど、昨夜の絶望の涙とは違う。胸の奥から溢れてくる愛おしさと、救われた喜びの涙だった。
しかし、リンネは溢れる涙を拭いもしないで、必死に言葉を紡いだ。年上の、大人の女性としての理性が、彼の眩しすぎる立場を思い、涙ながらに最後の不安を吐き出す。
「……私は、ただの平民です。ヴァンディール侯爵家という名門貴族に、私なんかじゃ釣り合うはずがありません。ルークさんの輝かしい将来の負担になります。ご家族だって、いくら優しくても……。それでも……本当に後悔しませんか?」
そんな彼女を、ルークはどこまでも強い目で見つめ、優しく、しかし断固とした声でその不安をすべて払い落とした。
「俺が人生を共に歩きたいと思った人が、あなただった。……あなたじゃなければ、駄目なんです」
その決定打に、リンネはボロボロと涙を流しながらも、ようやく、夜闇に大輪の花が咲くような笑顔を浮かべた。
昨夜は泣き顔で終わった夜が、今、最高の笑い泣きへと変わる。
「……はい。私も、ルークさんと一緒に生きたいです」
満月の下。二人は激しく抱き合うことはしなかった。
ルークがそっと差し出した大きく無骨な手に、リンネは自分の小さな手を、そっと重ね合わせた。
重ねられた小さな手を、ルークは決して強く握りしめなかった。
逃がさないように縛るためではない。これから先も、この手を取るかどうかは、いつでも彼女自身が自由に決められるように。それが、彼が最後まで貫きたかった、リンネという一人の女性への最大限の敬意であり、誠実さだった。
「きゅぅ!」
少し離れた草むらで、小さなわんこ精霊が嬉しそうに尻尾を激しく振った。
(やっと、おなじ。)
(これで、いっしょ。)
そんな幼い独白を胸に秘めたつぶらな瞳は、まるで「やっとだね」とでも言いたげに、二人を温かく見守っている。
精霊は満足そうにくるりと一度回ると、楽しそうに月明かりの草むらへと駆け出していった。
満月だけが、静かに二人を照らしている。
この先には、精霊協会も、王都も、侯爵家も待っている。
越えなければならない壁は、まだ数え切れないほどあった。
それでも。
その小さな温もりだけは、満月の光の中で、決して揺らぐことはなかった。
二人が選んだ未来は、ここから始まる。




