第45話 君の本当の願い
涼しい夜風がラウノの街を静かに吹き抜けていた。
昼間の賑わいが嘘のように静まり返り、白く乾いた石畳には月の光が冷たく降り積もっている。
その道を、一人の男がゆっくりと歩いていた。
中央騎士団の堅苦しい制服ではなく、目立たぬ濃紺の外套を羽織り、一人の青年として。
その胸の奥では、もう迷いのない激しい感情が静かに、しかし熱く燃え始めていた。
上司であり恩師でもあるガルディアの言葉が、何度も何度も脳裏をよぎる。
――不格好に足掻ける男こそが、本当に強いんだ。
事実を隠したまま、裏で実家の権威を使って勝手に動くことなど、自分の矜持が許さない。
彼女自身の意思を、その本音を、まずはこの耳で聞かなければならない。そう思った。
やがて見慣れた木製の看板が視界へ入る。
『リンネ小物店』
窓から漏れる柔らかな暖色の灯りだけが、まだ営業を終えた店の中に、愛しい人の気配があることを知らせていた。
コンコン、と控えめに扉を叩く。
「はい。ただいま――」
鍵が外され、扉がゆっくりと開き、リンネが顔を上げた。
「……ルークさん?」
その表情は驚きに満ちていた。
まさかこんな夜更けに、彼が私服姿で、しかもどこか張り詰めた気配をまとって訪ねてくるとは思わなかったのだろう。
「夜分に申し訳ありません」
ルークは外套のフードを払い、真っ直ぐにリンネを見つめた。
「少しだけ、お時間をいただけますか。どうしても、今夜中に話しておきたいことがあるのです」
「あ、もちろんです。どうぞ中へ」
リンネは慌てて彼を店内へと招き入れた。
店の中は昼間とは違う静けさに包まれていた。丁寧に並べられた魔道具の棚、温かなランプの灯り。どれもリンネらしい、穏やかで優しい空気を纏っている。その居心地の良さが、ルークの胸を小さく疼かせた。
「あの、ルークさん。お茶を淹れますね。昼間の精霊協会の方々のことで、何かあったのですか?」
リンネは少し首を傾げながら、いつもの調子で微笑む。
「神官のハンス様は、私に精霊の知識を聞かせてほしいと言われただけでした。少し変わった方でしたけれど、とても穏やかでしたし、特に怪しいところは……」
まだ、リンネは何も知らないのだ。
彼らが掲げる「正論」の裏にある、国家と協会という巨大な歯車が、自分を噛み潰そうと動き出していることを。
その無垢な笑顔を見るだけで、ルークの胸がぎゅっと締め付けられる。
「リンネさん。お茶は大丈夫です。……座って、話を聞いていただけますか」
ルークのいつも以上に真剣な声に、リンネは微かに息を呑んだ。淹れようとしていた茶器をそっと置き、ルークの向かいの椅子へと腰掛ける。
ルークは痛みを堪えるように視線をわずかに落とし、言葉を選びながら、静かに事実を告げた。
「先ほど、王都から極秘の命令が届きました。……あなたを『国家保護対象』に指定し、速やかに王都へ移送せよ、という国と協会が共同で出した召喚状です」
「え……?」
不穏な空気を感じ取ったのか、リンネの茶色の瞳がわずかに揺れる。
「建前は、あなたの安全のため。ですが実際は、その特異な能力を管理下に置くための連行です。現地指揮を執る副団長や、一騎士の独断で拒絶することはできない……あなたをここに留めるための法的根拠が、今の私たちにはないのです」
「それって……私、この街を離れなければならないんですか? このお店も閉めて、王都のどこかに……」
必死に守ってきた平穏。大好きな小さなお店。ここで見つけた、温かな居場所。
それが、自分の預かり知らぬところで、巨大な力によって一瞬で奪われようとしている。その逃げ場のない恐怖に、リンネは小さな身体を強張らせた。
ルークは不甲斐なさに拳を白くなるほど握りしめた。
「……守ると言いながら、先手を打たれました。不甲斐なくて、申し訳ありません」
「そんなっ、ルークさんが謝ることじゃありません!」
リンネは必死に声を上げた。ルークを責める気持ちなど微塵もあるはずがない。いつだって自分のために剣を振るってくれた彼に、これ以上の重荷を背負わせたくなかった。
けれど、じわじわと迫る絶望感が、容赦なく彼女の心を潰していく。
しばらくの間、二人の間に重い沈黙が流れた。
窓の外を吹き抜ける、少し冷たさを帯びた秋風の音だけが響く中、リンネは膝の上で拳をぎゅっと握り締めた。
「……嫌です」
小さく漏れた声と同時に、ポツリと、一粒の透明な涙がリンネの膝へと落ちた。
どんな困難も笑顔で前を向いて乗り越えてきたリンネが、初めて見せた、弱くて切ない涙だった。
「私、この街を離れたくありません……」
涙を堪えるように、ぐっと唇を噛み締める。
「街の優しい、みなさんとも……」
さらに、重い沈黙。
消え入りそうな声で、本当に、本当に小さな声で、リンネは大切な本音を付け足した。
「……ルークさんとも、離れたくありません」
最後の一言は、今にも夜風に消されてしまいそうなほど、儚く、けれど確かな響きだった。
ルークの胸が、ドクンと激しく跳ね上がる。
その一粒の涙が、彼女の切実な本音が、ルークの魂に完全に火をつけた。
(彼女は、ここで生きたいと願っている)
(絶対に、誰の手にも渡さない――)
ルークはゆっくりと立ち上がり、机を挟んで、リンネの前に真っ直ぐに立った。その銀灰色の瞳から、迷いや弱さは完全に消え去り、確固たる執着の炎が宿っていた。
「……あなたの意思は、確かに受け取りました」
ルークは静かに頷く。
もう迷わない。
彼女が望む未来を、守り抜く。
「……信じて、待っていてください」
「はい……っ」
リンネは小さく頷いた。
この人は、どこまでも優しい。
だからこそ、リンネの胸の奥が切なく痛む。
(ルークさんは眩しすぎる貴族なのに、ただの平民の私のために、騎士としての立場を危うくしてまで無理をしてくれている。これ以上彼に甘えて、身分違いの私が、彼の輝かしい人生の邪魔をしてはいけないのに……)
互いの本当の恋情だけは、まだ届かない。
その距離は、手を伸ばせば届くほど近いのに、互いを想いすぎるがゆえに、誰よりも遠かった。
その頃、ラウノの街の宿。
ハンスの部屋の机の上には、リンネの浄化能力に関する膨大な魔力波形の資料がうずたかく積まれていた。夜更けにもかかわらず、ハンスは一人、目を輝かせながらそれを真剣にまとめている。
背後に控える若い神官が、書類の山を見つめながら少しだけ不安そうに声をかけた。
「ハンス主任。本当に、あの女性を王都へお連れするのですか。協会の権威を使い、王印まで並べた強制的な保護命令まで出して……少々強引では」
ハンスはペンを止め、不思議そうに首を傾げた。その若草色の瞳には、一点の曇りもない。
「何を言っているんだい? あの方の『浄化』の力があれば、世界中の傷ついた精霊を救えるかもしれない。ならば、我が精霊協会が用意できる最高の研究環境と、国家の盾で保護し、その力を発揮していただくのが当然だろう?彼女にとっても、世界にとっても、これが最善の救いだ」
悪意は、一滴すら存在しない。
若い神官は返す言葉を失った。
その善意が本物であることを知っているからこそ、なおさら恐ろしかった。
ルークが店を出ると、白いわんこ精霊がタタタッと足元へ追いかけてきた。
淡く青白く輝く毛並みを揺らし、ルークを見上げる。
「るーく」
ルークがその場にしゃがみ込むと、精霊は短い前足をルークの胸へと優しく当てた。すべてを見透かしたようなつぶらな瞳が、まっすぐにルークを見つめる。
「だいじょうぶ」
「あるじ」
「まってる」
「……ああ。ありがとう」
ルークは精霊の小さな頭を優しく撫で、微笑んだ。
二人が待っていてくれるなら、俺は何を失ってでも守り抜く。胸の奥に確かな温かさと、強く固い覚悟が広がっていく。
駐屯所への帰り道、ルークは一度だけ立ち止まり、店の方を振り返った。
遠く、ランプの灯りが優しく揺れている。
ルークは静かに、深く息を吐いた。
「……もう、逃げない」
(明日、俺はすべてを懸ける。)
見上げる夜空には、煌々と輝く月。
その静かな光だけが、一人の生真面目な騎士が、愛する女のためにすべてを投げ打つ「一人の男」へと変わる瞬間を、静かに見届けていた。




