第44話 覚悟を綴る夜
夜も更け、ラウノ駐屯所の執務室には静かな灯りだけが残っていた。
窓の外では初秋の虫の音が心地よく響き、昼間の喧騒が嘘のように街は深い眠りについている。
その静寂の中、ルークは一人、机に広げられた白紙の書状を前に、彫像のように硬直していた。
「彼女の隣で生きる」と心に決めた。そのためなら、ヴァンディール侯爵家の名を背負うことにも、もう迷いはなかった。
だが、いざ具体的な行動に移そうとした瞬間、現実の壁がいくつもルークの前に立ちはだかった。
どうすれば、リンネに「身分の強制」だと感じさせずに、この婚約を受け入れてもらえるか。
相手は王都でも指折りの名門「ヴァンディール侯爵家」だ。平民である彼女もその名と威光はとうに知っている。だからこそ、ただでさえ身分差を気にして一線を引いている彼女に、この巨大な家柄を盾にした婚約を切り出せば、彼女は拒絶する権利を奪われた「絶対の命令」だと捉えて怯えてしまうのではないか。
そして、王都にいる両親へ、この緊急事態を納得させるだけの書状をどう綴るべきか。
「……くそ」
思わず漏れた煮詰まった言葉に、ルークは自分自身で驚き、すぐに口元を片手で覆った。
進む覚悟は決まっていた。ただ、大切すぎる相手だからこそ、最初の一歩で絶対に失敗したくないという焦燥が、彼の胸の内を荒れ狂わせていたのだ。
「珍しいな。お前がそんな風に、形振り構わず毒づいているのは」
背後から、低く硬質な声がした。
振り返ると、開いた扉にもたれかかるようにして、ガルディアが腕を組んで立っていた。見回りの途中だったのか、その眼差しには諦めと、どこか嬉しそうな温かさがある。
「副団長……。まだ、戻られていなかったのですか」
「お前が今にも王都の使者を闇討ちでもしそうな顔をして残業している以上、上司も心配で寝られんさ」
ガルディアは少しからかうように苦笑しながら、ゆっくりと机の前まで歩いてくると、ルークの前に置かれた、未だ宛名しか書かれていない実家への書状の束を指先でトントンと叩いた。
「ずいぶん難しい顔だな。先ほどは『無理です』とあんなに威勢よく突っぱねた割には、ペンを握る手だけはやる気満々のようだが?」
「……皮肉を言わないでください」
ルークは椅子から静かに立ち上がり、悔しさを押し殺すように視線を落とした。
「自分の傲慢さは理解しています。ですが、俺が綺麗事を言っている間に彼女が連れ去られるなど……やはり、耐えられない。俺のすべてを賭けてでも、彼女を失わないと決めました。……ただ」
「彼女への切り出し方と、実家をどう説得するかに頭を抱えている、か」
図星を指され、ルークは言葉を詰まらせた。
頭では「手段を選ばない」と決めたはずなのに、侯爵家という強すぎる力でリンネを傷つけまい、怯えさせまいとする「模範的な騎士」としての理性が、どうしても手元を鈍らせるのだ。
しばらくの間、部屋には虫の音だけが流れる重い沈黙が続いた。
やがて、ガルディアが応接用の椅子へドサリと腰掛け、深く息を吐き出した。
「なあ、ルーク。ここからはただの、男としての言葉だ」
その声からは、先ほどまでの「副団長」としての鋭さが完全に消えていた。
同じ道を歩んできた、一人の人生の先輩としての静かな響きだった。
「もし彼女が明日、すべての事情を察して、自らの意思で『皆に迷惑をかけたくないから、王都へ行く』と言ったら――お前は、どうする?」
「っ……!?」
ルークの肩が、目に見えて大きく震えた。
もし彼女が、あの自己評価の低さと健気さで、笑顔で身を引こうとしたら。
その身に秘めた力ゆえに、自分が行くしかないのだと思い込み、誰にも迷惑をかけまいと王都の馬車へ乗り込もうとしたら。
想像しただけで、脳裏を支配したのは凶暴なまでの独占欲だった。他の男に触れさせたくない。王都の権力者たちの道具にさせたらたまらない。自分の目の届かない場所へ、彼女を連れ去られるなど――。
「……その手を掴んで、引き留めます」
長い沈黙の末、ようやく絞り出したルークの声は、低く、しかし二度と揺らぐことのない地響きのような本音だった。
「嫌われても構わない。……いや、本当は怖い。だが、それでも彼女を失う方が、何倍も恐ろしい」
言わば、ただの我が儘だ。騎士の規律を汚す、泥臭い執着。
だが、その本音を言葉にした瞬間、ルークの瞳には迷いのない熱量が宿っていた。
そんな弟子の姿を見て、ガルディアはふっと優しく目を細めた。
「ずいぶん人間らしく、不格好に育ったじゃないか」
「……真剣に悩んでいるんです」
「からかってはいないさ」
ガルディアは座り直すと、ゆっくりと立ち上がり、まっすぐにルークを見据えた。
「ルーク。人間はな、本当に大切な相手ができた時、初めて弱くなる。失うことがどうしようもなく怖くなって、格好をつけていられなくなるんだ。だがな、自分の弱さも醜い執着も全部知って、不格好に足掻ける男こそが、本当に強いんだ」
ガルディアの言葉には、彼自身の人生経験という重みが、静かに宿っていた。
「実家への書状なら、俺の副申書も添えて、最優先の伝令鳥で王都へ送ってやる。お前の親父殿なら、この緊急事態と、お前のその『必死な顔』を見れば、喜んで力を貸してくれるさ」
扉に向かってゆっくりと歩きながら、ガルディアは最後に一度だけ振り返る。
「覚えておけ。綺麗事の騎士でいるうちは、一人の中身の詰まった人間を幸せにはできんぞ。隣で支え合う覚悟を決めてこい。」
カチャリと、静かに扉が閉まる。
執務室には、再び元の静寂が戻ってきた。
ルークは一人、机の上に戻り、真っ白な便箋とペンを手に取った。
迷いの消えた手つきでインクを浸し、王都の両親へ宛てて一気にペンを走らせる。その筆跡には、かつての生真面目さだけではなく、一人の男としての揺るぎない決意が力強く刻まれていた。
(まずは婚約を申し込もう。
彼女に未来を押しつけるためではない。
俺もまた、彼女と共に歩む未来を望んでいるのだと、その想いを正面から伝えるために)
必ず彼女の隣へ辿り着く。
その濁りのない純粋な想いを胸に、ルークは夜が明けるまで書状を書き続けた。
夜明けとともに、その書状はガルディアの副申書とともに、一羽の伝令鳥へ託された。
その一羽が運ぶのは、侯爵家への願いだけではない。
一人の騎士が、一人の女性と未来を歩むと決めた覚悟、そのものだった。




