第43話 迫る王都と揺れる決意
国教を束ねる精霊協会の主任研究神官・ハンスがラウノの街に到着し、リンネに接触したその日の夕方。
ルークはラウノ駐屯所の執務室で、中央騎士団副団長であり、自身の入団時から目をかけ、公私ともに厳しく指導してくれた恩師でもあるガルディアへ対面での緊急報告を行っていた。
ガルディアが王都を離れ、この辺境の街ラウノに長期滞在しているのには重い理由がある。数週間前に起きた事件――それは単なる鉱山事故ではなく、黒化精霊鉱を人工的に生成し、利用するという国家を揺るがす大罪の全貌が隠された、極めて危険な事件だった。その現地直接指揮と、未だ燻る不穏な影の処理のため、副団長である彼自らがこの地に腰を据えていたのだ。
「――以上が、本日昼前に起きた精霊協会との接触の全容です。主任研究神官を名乗るハンスという男は、国家の安全と今後の精霊研究のため、という名目を掲げてラウノに滞在する構えです。力ずくの拉致ではありませんが、拒絶する大義名分をこちらから奪い、じわじわと外堀を埋める算段かと」
ルークの張り詰めた報告を静かに聞いていたガルディアは、組んだ両手の上に顎を乗せ、厳しい双眸をさらに細めた。
「……やはり動いたか。最大勢力の宗教組織が掲げる『大真面目な正論』、それが一番厄介だな。だがルーク、お前の報告に、さらに悪い報せを上乗せせねばならん。先ほど王都からの極秘伝令が、現地指揮を執る俺の元に直接届いた」
ガルディアが重々しく机の上へ置いたのは、重厚な革の筒だった。
中から引き出された書状を目にした瞬間、ルークの息が止まる。
そこに押されていたのは、王国の最高権威を示す【王国印】。
正式な手続きを経て押された、国教である精霊協会の【精霊協会印】。
王権と国教の二大巨頭が共同で発行した、事実上の最高強制力を持つ文書。
そこに記されていたのは「招聘」などという生ぬるい言葉ではなかった。
『対象:付与術師リンネ。これより国家保護対象に指定し、速やかに王都へ移送すべし』
「国家保護対象……!? そんな……。お店も、この街での暮らしもあるのに、王都へ連行する気ですか……!?」
青ざめるルークに対し、ガルディアは大人の残酷な現実感を宿した声で告げる。
「国家と協会そのものが動いたのだ。現地指揮官の俺や、ただの一騎士の独断で拒絶することはできん。あの娘はどこまでも無力な一平民に過ぎず、この『召喚状』から彼女の身の安全を完全に保護するための法的根拠が、今の騎士団には存在しない」
ハンスたちがラウノの宿を数ヶ月分確保したのも、本隊がリンネを法的に縛り付けるこの書類が届くまでの、ほんの数日間の時間稼ぎに過ぎなかったのだ。
「では、どうすれば……! 俺は、彼女の平穏を守ると誓ったのです!」
思わず感情を爆発させた部下を、ガルディアは静かに見据えた。
「落ち着け。現在の彼女に、平穏なままでいられる道など用意されていない。現状、お前たちが進める道は三つだ」
「……三つ、ですか」
ガルディアは淡々と指を立てた。
「一つ目。王国と精霊協会の決定に従い、彼女を王都へ引き渡す。当然、お前の言う平穏など失われる。
二つ目。我々騎士団が反抗し、彼女を匿う。だが、国家と国教に逆らえば内乱になる。このラウノの街もタダでは済まん」
ルークは拳を握りしめ、言葉を失う。どちらも選べるはずがない。
ガルディアは最後に、三本目の指を立てた。
「そして三つ目。彼女の平穏を本当に守り、誰も手を出せない立場にする方法だ」
「誰も……手を出せない?」
「国家と協会の決定を覆すには、国家や協会すらも黙らせる圧倒的な『身分』による庇護が必要だ」
「身分による庇護……まさか」
ルークの呟きに、ガルディアは静かに頷いた。
「そうだ。ルーク、お前は名門ヴァンディール侯爵家の三男だろう。お前の婚約者として迎え入れろ。そうすれば、彼女は侯爵家の庇護下に入る。高位貴族の庇護を得た以上、精霊協会とておいそれと手出しはできん。実家の名を使え」
「っ……!」
ルークに激しい衝撃が走った。
実家であるヴァンディール侯爵家との関係は良好だ。両親も兄たちも、ルークが「一人の女性を守るために力を貸してほしい」と頭を下げれば、決して無下に断るような家族ではない。
だが、婚約という重い言葉を突きつけられた瞬間、ルークの脳裏をよぎったのは、昨夜、食堂の影で聞いたリンネの切なげな言葉だった。
『私なんかには、もったいない方です。きっと、もっと素敵な方がいらっしゃいますから』
「……副団長、それは無理です。彼女の心を無視した暴論だ」
ルークは激しく首を振り、苦渋に満ちた声を絞り出した。
「彼女は、自分の力で立っていたい人です。貴族だろうが騎士だろうが、その立場を利用して踏み込めば、きっと迷わず一歩引くでしょう。だから俺は、それだけはしたくないんです」
ルークの銀灰色の瞳が、悲痛に揺れる。
「いくら実家が協力の手を差し伸べてくれたとしても、高位貴族からの婚約打診など、平民にとっては命令と同じだ。……それが、嫌だった。守るためという大義名分を言い訳にして、俺の都合で偽りの婚約を迫るなど、俺の傲慢だ。大切な彼女の人生を、俺の道具にしたくない!」
好きではないからではない。
彼女を、好きすぎたから。
だからこそ、その圧倒的な身分の差が彼女を追い詰める刃になることを恐れて、告白することさえ自分に禁じていたのだ。
そんな不器用で、頑なな部下を見つめ、ガルディアは深くため息をついた。
その張り詰めた副団長の仮面が外れ、一人の妻と娘を持つ、優しくも厳格な父親の顔になる。
ガルディアはルークの前に立ち、傷の痕がいたるところに残る温かい手を彼の肩に置いた。
「ルーク」
「……はい」
「騎士は民を守る。夫は、一人を幸せにする。お前はどちらになりたい」
ガルディアの言葉が、ルークの胸の最深部へと突き刺さる。
「騎士は剣を振るう。……夫は、隣で老いる。お前はどちらになりたい」
「…………っ」
「守る覚悟より、一緒に生きる覚悟の方が何倍も重い。お前はあの娘を傷つけまいとするあまり、自分が傷つくことのない安全な場所――『騎士』という便利な肩書の裏から、ただ手を伸ばそうとしているだけではないのか?」
ガルディアは、それ以上何も言わなかった。
「婚約しろ」とも命令しない。ただ、
「胸に聞け。答えはお前が一生背負うものだ」
そう重く語り残して、ガルディアは静かに執務室を去っていった。現地での指揮を執る彼の背中には、この街と、かつて自ら育て上げた気鋭の若き騎士の未来を背負う覚悟が滲んでいた。
一人残された薄暗い執務室で、ルークは呆然と立ち尽くしていた。
なぜ自分は、彼女の店に他の男たちが群がっているのを見て、胸が引き裂かれるような、狂おしいほどの嫉妬を覚えていたのか。
なぜ彼女が「もったいない」と言ったのを聞いて、あれほど絶望したのか。
自分は「侯爵家の人間」ではなく、「ただの騎士」という安全な場所へ逃げていた。
ガルディアにその本音を見抜かれ、胸の奥に押し込めていた感情が、静かに揺らぎ始める。
ルークはゆっくりと胸に手を当てた。
ドクドクと、うるさいほどに脈打つ心臓が、答えを叫びたがっている。
夜風がラウノの街を静かに吹き抜けていく。
見上げる空には星が瞬き、遠くに見えるリンネ小物店の窓には、まだ小さな明かりが灯っていた。
あの窓の向こうで、リンネは何を考えているのだろう。
ルークが眩しすぎる高位貴族だからこそ、彼女は「自分なんて彼の人生の邪魔になってはいけない」と、今この瞬間も、一人で物分かりよく身を引こうとしているのではないか。
ルークは窓の灯りを見つめながら、静かに呟いた。
「……笑っていてほしい」
ただ、それだけだった。
彼女が笑える未来なら、それでいい。
その笑顔の隣に、自分がいられるなら。
騎士でもいい。婚約者でもいい。侯爵家の名を背負う男でもいい。
その時、初めてルークは気付いた。
自分は、彼女を「守りたい」のではない。
彼女の「隣で生きたい」のだと。
その熱い決意だけを胸に、ルークは静かに歩み出した。
その一歩が、二人の運命を大きく変えることになるとは、まだ誰も知らなかった。




