第42話 すれ違う二人と静かに迫る影
(――ルークさん)
胸の中でその名前を呟くだけで、視界がじんわりと熱くなる。
恋という感情をはっきりと自覚した日から、リンネの目に映る世界は色を変えていた。
街の若い男性たちがどれほど熱心に言葉を尽くして誘ってくれても、彼らを受け入れる隙間など、自分の心にはひとかけらも残っていない。
しかし、想いが深まれば深まるほど、同時に、彼との間にある「身分」という巨大な壁が、リンネの心を重く縛り付けるのだった。
彼は中央騎士団の将来を嘱望されるエリート騎士であり、自分は街の片隅で小さな店を営む、ただの平民。
その残酷な現実が、彼女の恋心にそっと冷たい影を落としていた。
そんなもどかしい空気のなか、リンネ小物店にやってきた、あまりにも異様な来訪者たち。
精霊協会の最高位神官服をまとった美貌の主任研究神官・ハンスは、店に一歩足を踏み入れるなり、店先にいた白いわんこ精霊に完全に心を奪われていた。
挨拶もそこそこに地べたに膝をつき、「未知の個体だ」と若草色の目を爛々と輝かせて肉球の有無を確かめようとする彼の頭の中は、純粋すぎる研究者の歓喜で占められていた。
しかし、同行してきた精霊協会の神官たちは、若き天才主任の天然ぶりを慣れた様子でスルーし、大真面目な顔で本来の目的をリンネに突きつけた。
ハンスが深く頭を下げた後を追うように、一歩前へ出た神官が厳かに告げる。
「あなたのお力は、一人の才能では終わらせてはならない奇跡です。同じ悲劇を二度と起こさないためにも。どうか、人々の未来へ、その知識をお貸しください」
悪意がないからこその、重すぎる正論。
最大勢力の宗教組織からこれだけ真っ直ぐに世界の未来を向けられては、ただの平民であるリンネには、拒絶する言葉が見つからなかった。
きゅっと麻のエプロンの裾を握りしめ、その権威に気圧されそうになった、その時。
カラン、と店のドアベルが激しく鳴り響いた。
屋根を蹴った銀髪の影が、一瞬で地面へ降り立つ。ためらうことなく扉を押し開けると、ルークは店内に押し入り、遮るようにリンネの前に立ちはだかった。
ルーク・ヴァンディールである。
ハンスのリンネへの過剰な距離の詰め方を上空から目撃し、内心の警戒度と嫉妬を最高潮に跳ね上げていた彼は、ハンスを鋭い銀灰色の瞳で激しく牽制しながら、毅然と言い放った。
「……リンネさんは事件の被害者です。心身ともに落ち着くまで、静かな生活を送る権利があります」
ルークにとっては、国家の未来や協会の意向よりも、目の前のリンネという一人の女性の尊厳と平穏が、何よりも最優先だった。
だが、ハンスは困ったように眉を下げて、どこまでも優しく微笑む。
その薄緑の瞳は、いまだにルークの背後、リンネの足元からチラチラと覗く、淡く青白く輝く白い毛並みを未練がましく追っていた。
「もちろんです。だからこそ我々は、彼女の生活を妨げない形で、このラウノに『滞在』してお話を伺いたい。決して無理に王都へ連れて行くような野蛮な真似はしません」
ハンス自身はただ精霊の観察がしたいだけなのだが、その物腰柔らかで無垢な態度が、結果として逃げ道を完璧に塞ぐようにルークをも追い詰めていく。
彼らは力ずくでリンネを奪おうとはしない。
ただ、「大真面目な正論」という最高に断りにくい武器を掲げて居座り、じわじわと外堀を埋めようとしているのだ。
「しばらくラウノに滞在する予定です。ご迷惑にならないよう、すでに街の宿を確保しております。正式なお話は明日以降、場を改めて。では、また明日お邪魔させていただきますね」
ハンスは聖職者らしい優雅さで深々と一礼して店を出て行った。
去り際、わんこ精霊に向けて(また明日……必ず……その肉球を……)と言わんばかりの、別の意味で熱い視線を残して。
彼らが去った後、店内に残されたのは重い沈黙だった。
「……助かりました、ルークさん」
「いえ。……彼らは悪人ではありませんが、正論を武器にする。少し、気を付けた方がいい。……俺は任務中ですので、これで」
それだけ言うと、ルークはこれ以上ここにいては私情が漏れ出してしまいそうだと自分に言い聞かせるように、踵を返して足早に去っていった。
その日の夜。
昼間の緊張と、じわじわと迫る精霊協会の応対で少し疲れ果てたリンネは、気分転換を兼ねてオルガ食堂へと足を運んでいた。
初秋の夜風は少し冷え込み、温かいものが恋しくなる季節だ。
「はいよ、リンネちゃん! 特製の野菜シチューだよ、しっかり食べな!」
なじみのオルガ食堂の女将が、湯気の立つ具だくさんの器を威勢よくテーブルに置く。
「ありがとうございます、オルガさん」
「それにしてもさぁ、昼間もまた店の前に若い男たちが行列作ってたんだって? モテモテだねぇ。でもさ、リンネちゃんもそろそろ、誰かいい人とお付き合いすることくらい考えなきゃ。いっそのこと、あのいつも街を巡回してる格好いい騎士様……ほら、ルーク様だっけ? あの方と恋人になっちゃえばいいのに!」
「ふぇっ!?」
熱いスープを口に含んだばかりのリンネは、激しくむせ返りながら顔を真っ赤にした。
「お、お付き合いだなんて、そんな……っ!」
「あら、お似合いだと思うけどねぇ? あんたが困ってるときはいつだって飛んできてくれるじゃないさ」
オルガはケラケラと笑うが、リンネの胸には、不意に昼間の切ない現実が突き刺さる。
「……ルークさんは……」
少しだけ、言葉が詰まる。
リンネは寂しさを隠すように無理に微笑んだ。だが、その瞳はまったく笑えていない。
「私なんかには、もったいない方です。きっと、もっと素敵な方がいらっしゃいますから」
それは、自分の「身分違いの恋」という本音を必死に隠した、痛切な嘘だった。
しかし、その言葉を、まさか本人が聞いているとは夢にも思わなかった。
食堂の入り口近く、薄暗い壁の影。
密かな護衛任務の一環として、気配を完全に殺して店内に視線を走らせていたルークは、リンネの口から紡がれた言葉に、胸を深く抉られるような衝撃を受けていた。
(俺のような騎士が近づけば、彼女は周囲から余計な噂に晒されるだけだ。やはり俺は、彼女の平穏を乱す存在でしかない……)
ルークの銀灰色の瞳が、悲痛に揺れる。
本当は、彼女に群がる男たちに狂おしいほどの嫉妬を覚えている。
任務という大義名分がなければ、今すぐにでも彼女の隣にいたいと、騎士の理性をすり減らしながら耐えている。
恋愛経験の乏しい生真面目な騎士は、その胸の痛みの正体をすべて「拒絶」だと誤解し、ただ自嘲気味に俯くしかなかった。
(俺は……リンネさんにとって、ただの「信頼できる騎士」でしかないのか。それ以上の存在に、なれるはずもないか……)
互いに相手を深く想いながらも、相手を尊重しすぎる性格ゆえに、二人の心は全力ですれ違っていく。
そんな二人の様子を、食堂の足元から見上げていた、白いわんこ精霊。
彼は、もどかしそうにリンネを見る。
次に暗がりのルークを見る。
さらに、もう一度リンネを見る。
「……うー」
困ったように、パタンと耳を伏せた。
(あるじも。るーくも。おなじ、きもちなのに。なんで?)
小さく首をかしげ、深い不満の溜息を漏らす。「お前が真ん中に入って言ってこい!」と、思わずツッコミを入れたくなるような、もどかしい視線を向けられていることにも、当の二人は気づかない。
想いは届かず、善意は静かに距離を詰める。
二人が踏み出せないまま、運命だけがゆっくりと動き始めていた。




