第41話 ぬくもりの居場所と善意の来訪者
秋の気配を感じる柔らかな風が、ラウノの石畳をゆっくりと吹き抜けていく。
黒化精霊鉱事件から、数週間。
あれほど慌ただしかった街は、まるで何事もなかったかのように穏やかな日常を取り戻していた。
坑道へ向かう鉱夫たちの小気味よい足音と快活な笑い声。市場からは焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂い、果物屋の主人が秋の瑞々しい果実を並べながら威勢よく客を呼び込んでいる。
大人たちは、木剣を振り回して「騎士ごっこ」に夢中になる子どもたちを笑いながら見守っていた。
その光景を、高い屋根の上から静かに見つめる者がいた。
風に揺れる銀髪に、鋭くもどこか憂いを帯びた銀灰色の瞳。中央騎士団所属、ルーク・ヴァンディール。
周囲の建物の影へ完全に身を潜める彼の姿には、地上の誰一人として気付かない。これは直属の上官である副団長ガルディアから下された極秘任務。
「本人に悟られるな」「気付かれず守れ」。それだけを命じられている。
ルークは通りの向こう、「リンネ小物店」の看板を掲げた小さな店先へ静かに視線を向けた。
爽やかな麻のエプロン姿で棚の魔道具を整えるリンネ。街の人と親しげに笑い合い、通りかかる子どもへ優しく手を振るその表情は、事件の前よりもずっと柔らかく、生き生きとしていた。
(……よかった)
あの日、薄暗い地下の最深部で見つめ合った、あの泣きそうな横顔。誰かの犠牲の上に生きることを拒み、涙を拭って未来を勝ち取った女性は、もうそこにはいない。
今はこうして、心地よい秋の光の中で笑っている。それだけで、影に徹する苦労などいくらでも報われる気がした。
「……今日も平和ですね」
誰に聞かせるでもない独り言。危険がないことを確認し、何も起きなければ姿を消す。それが騎士の仕事であり、今の彼に許された距離だった。
だが――。
「リンネさん!」
元気のいい若い男の声が響き、ルークの銀灰色の瞳が自然と細くなった。
声の主は市場で働く青年だった。両手いっぱいに真っ赤な花束を抱え、ガチガチに緊張した面持ちで店先へ向かっている。朝から顔を真っ赤にしながら、突撃するような勢いで花束を差し出した。
「この前は本当に助かりました! よかったら今度の祭り、一緒に……!」
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけいただきますね。今は、お店の仕事がとても忙しくて……ごめんなさい」
柔らかな声だった。けれど、その返事には一切の迷いがない。青年は分かりやすくガクンと肩を落として去っていった。
屋根の上で、ルークは無意識に引き締めていた口元をわずかに緩める。
(……ふむ。不審な男ではないな。彼女への執拗な接触がないか確認しただけだ。当然の任務だ)
胸の奥が少しだけ軽くなったのを、ルークはそう自分に言い聞かせる。
だが、ラウノの男たちは諦めが良くなかった。
次に現れたのは、仕立ての良い服を着た服屋の若旦那だった。
「リンネさん! うちの店に新作が入ったんだ。良ければ今度、お茶でも飲みながら――」
「すみません、今はちょっと余裕がなくて……」
ルークの眉間がわずかに寄る。
(……二人目か。さっきの男より明らかに口が上手い。詐欺師の可能性も考慮し、注視する必要があるな。……よし、断った。賢明な判断だ)
しかし、三人目はさらに強敵だった。なんと、ラウノに駐屯している若い騎士が、私服姿でモジモジとアプローチを始めたのだ。
「リンネ殿! 今度、街の巡回を兼ねて、一緒に食事でもいかがだろうか!」
「お声がけは嬉しいのですが、お気持ちだけいただきますね」
(……騎士まで、だと?)
ルークの銀灰色の瞳から、じわじわと温度が消えていく。
(中央騎士団の規律を何だと思っている。任務を私的に利用するなど言語道断。……いや、俺は今、純粋に騎士団の風紀の乱れを懸念しているのであって、私情は微塵もない。集中しろ。これは任務だ)
ここまで来ても、生真面目な騎士は己の胸のチリチリとした焦燥を「嫉妬」とは認めなかった。それでも、彼の瞳は磁石のようにリンネから離れようとしない。
一方、そんな上空からの熱い視線に気づいた者がいた。
リンネの足元で走り回っていた、小型犬ほどの白いわんこ精霊である。その毛並みは、高位精霊としての強大な魔力をまとい、どこか淡く青白く輝いている。ふと上を見上げた精霊は、屋根の隙間に潜む大好きなルークの姿を鋭くキャッチした。
「るーく!」
「そこー! かくれてる!」
ちぎれんばかりに尻尾をぶんぶん振り、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる。
ルークは内心で大慌てしつつ、影からそっと人差し指を口元へ当てた。
(……静かに。頼むから気付かれないでくれ)
「しー!」
わんこ精霊は慌てて両前足で自分の小さな口をぎゅぎゅっと押さえた。短い手で必死に「しー!」のポーズをする仕草があまりにも愛らしく、ルークは思わずふっと頬を緩めてしまう。
だが、嬉しさを抑えきれない精霊の尻尾だけが、なおも猛烈に左右に振られ、瓦を「カタカタカタ……」と微かに鳴らしていた。
そんな穏やかな空気に、重厚な馬蹄の音が響き渡ったのは、陽が少し傾き始めた頃だった。
立派な馬車はゆっくりと速度を落とし、店先で静かに停車する。
白を基調とした格式高い車体には、この国の国教であり、最大勢力を誇る研究機関でもある「精霊協会」の厳かな紋章。
国家のインフラである精霊契約のライセンスを握り、王権すら凌駕しかねない絶対的な祭祀組織の登場に、街の住民たちが「何事だ」と一瞬で静まり返り、息を呑んで足を止めた。
中から降りてきたのは、銀色の刺繍が施された上質な長衣をまとった、いかめしい護衛の神官たち。だが、最後に馬車から降りてきた一人の青年の姿に、周囲の空気が一瞬で華やいだ。
青年は胸元へ静かに精霊紋へ指を添え、小さく祈りを捧げた。その一つ一つの所作には、長年信仰に身を置いてきた者だけが持つ静かな気品が宿っている。
肩まで届く柔らかな栗色の髪に、若葉を思わせる瑞々しい薄緑の瞳。仕立ての良い純白の神官服をまとったその青年は、柔らかな微笑みを浮かべ、街の女性たちが思わず言葉を失うほどに整った容姿をしていた。
「あの、精霊協会の若い神官様、素敵……」
「まるで絵画から抜け出してきたみたい……」
色めき立つ街の女性の一人が、信仰心と憧れから勇気を出して近づき「あの、神官様……!」と声をかける。
青年は穏やかに目礼だけを返した。
「精霊の祝福がありますように」
神官らしい柔らかな祈りの言葉。
——その次の瞬間だった。
彼の視線が店の隅へ吸い寄せられる。
「…………。」
彼の視線は、店の隅――プランターの陰にいた、小さな白いわんこ精霊にピタリと固定されていた。
「…………。」
先ほどまで慈愛に満ちていた神官の面影は、どこへ消えたのか。
青年は床へ膝をついたまま、一心不乱に白い精霊だけを見つめている。護衛の神官たちは慣れた様子で誰一人として止めず、「始まったか」とでも言いたげな諦め顔である。
「……犬型……?
いや、違う。
この魔力密度は上位精霊……
しかし霊格は幼体に近い……
あり得ない……」
わんこ精霊もまた、不思議そうに首をかしげる。「きゅ?」
青年の若草色の瞳が、ボッと音がしそうなほどの熱量で完全に輝いた。
「耳が丸い……尾が長い……。それに、この魔力循環の自然さは何だ……? 教会のあらゆる聖典や文献に存在しない、未知の神聖個体……!」
そこから五分間。青年は膝をついたまま、一言も発さず、食い入るように白い精霊を見つめ続けた。
「……あの、お客様?」
リンネが恐る恐る声をかけると、青年はハッと我に返ったように立ち上がり、衣服をスマートに整えて完璧な一礼をした。その立ち居振る舞いだけは、どこまでも高貴で優雅だ。
「私は精霊協会・精霊学主任研究神官を務めております、ハンスと申します。精霊を知り、守り、導くこともまた、神官の務めなのです」
「あ, はい……リンネです。どのようなご用件でしょうか?」
ハンスは穏やかに微笑みながら、説明を始めた。
「我が精霊協会には、黒化事件の調査、およびすべての精霊を保護し導く絶対的な責任があります。そこで、あなたの『浄化』の力についてお伺いしたいのです。――少し、失礼いたしますね。精霊が警戒していないか確認したいので、少しだけ近づかせてください」
その瞬間、ハンスの言葉に反応したわんこ精霊が、リンネを守るように彼女の肩へとぴょんと飛び乗った。
「おっと、失礼」
ハンスは丁寧に断りを入れつつも、肩に乗ったわんこ精霊を観察するため、リンネの顔のすぐ横へグッと顔を近づけた。
「ふむ、なるほど。あなたの肩を足場にしている精霊から、浄化後の微細な魔力残滓が確認できます。ですが、あなたの体表には一切の魔力残留(負荷)がない。素晴らしい」
そこにあったのは好奇心ではない。精霊を守るためなら、どんな小さな兆候も見逃すまいとする神官としての責務だった。
あまりの距離感ゼロっぷりに、リンネは赤面しながらも完全にペースを乱されていた。
「あ……ありがとうございます……?」
地上ではそんな微笑ましい(?)光景が繰り広げられていたが、屋根の上では、ルークが手すりの石をギリィ……と凄まじい音を立てて軋ませていた。
(……敵意はない。)
(むしろ、あれは本気で精霊を救おうとしている目だ。)
(だからこそ厄介だ。)
(近い。……近すぎる! いくら国教の高位神官だろうが、護衛対象への過度な接近、および不審な接触だ……! 今すぐ叩き斬るべきか!? いや、落ち着け俺は任務を遂行しているだけだ……!)
上空から突き刺さる強烈な殺気に気づいたわんこ精霊は、ハンスの目の前でバタバタと大騒ぎし始めた。
『るーく、たいへん!』
『あるじ、とられる! るーくおこってるー!』
しかし、ハンス本人には精霊の声は聞こえない。彼は大騒ぎする精霊を見つめ、真顔で呟いた。
「……激しい感情表現だ。リンネ殿、この子の肉球……触ってもよろしいでしょうか?」
「えっ? ええと、どうぞ……?」
リンネだけが「どうしてこんな緊迫した空気に?」と一人困惑していた。
そんな三者三様のすれ違いの中、ハンスの薄緑の瞳が、ふっと真摯な光を帯びる。
彼は再び衣服を正し、今度はまっすぐにリンネの目を見つめた。その瞳にあるのは、組織としての利用や搾取の打算ではない。この驚異的な力があれば、傷つき、消えていく精霊たちを本当に救えるのではないか――その一念だった。
ハンスは信仰の頂点に立つ者としての祈りを込めて、深く頭を下げた。
「私は神官として、多くの精霊へ最後の祈りを捧げてきました。それでも救えなかった命が、数え切れないほどあります。救えなかった命も、数え切れません。だからこそ、あなたの力を希望だと信じています。――リンネ殿。どうか、その力を貸してください」
屋根の上で、ルークは静かに息を呑んだ。
その声には、巨大宗教組織の傲慢さも、私欲も打算もなかった。ただ一つ――精霊を救いたいという、真っ直ぐすぎる願いだけがあった。
足元で、わんこ精霊がそんなハンスをじっと見つめていた。小さな鼻をひくひくと動かしながら、この風変わりで、けれどどこまでも純粋な訪問者の行く末を見守るかのように。
純粋すぎる善意の来訪者。
その願いは偽りなく、だからこそ厄介だった。




