第40話 職人の機嫌を損ねてはならない
王都・魔導研究院。
そこは、国最高峰の頭脳が集まる場所であると同時に、慢性的な睡眠不足と狂気的な労働環境が支配する、生霊たちの巨大な巣窟でもあった。
「……また式が変わった。構築の前提から検証し直しね」
セレスト・ヴァンディールは、自室の机に積み上がった魔導書の山を前に、その美しい顔に深い疲労の影を落としていた。
長時間に及ぶ最高幹部会議を終えたばかりの身体は、鉛のように重い。
徹夜続きで目の奥がジンジンと痛み、複雑な魔導式を何時間も凝視し続けたせいで、視界の端がチカチカと霞んでいる。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「失礼します、セレスト様。ラウノの定期連絡便から、貴女宛てに私的な荷物が届いております」
「ラウノから?」
部下が恭しく差し出した木箱。
その送り主の欄に書かれた文字を見た瞬間、セレストの鋭い眼差しが、ふっと和らいだ。
――『リンネ小物店』
「……あの子ね」
てっきり、あの規格外の力を秘めた女性がまた何かやらかしたのかと一瞬身構えたが、届いたのは小ぶりな木箱だった。
蓋を開けると、中には品のある藍色の布地。
そして、彼女の慎ましやかな人柄が滲み出るような、丁寧な筆跡の手紙が添えられていた。
『セレストさんへ
この前はいろいろと助けていただき、ありがとうございました。
セレストさんのお仕事はとても大変そうだとお聞きしたので、少しでもお役に立てればと思って作ってみました。
眠る時に使ってみてください。少しでもお疲れが取れますように。
リンネ』
「……まったく」
セレストは額を押さえ、小さく苦笑した。
「国家最高機密の報告書をめくる時より、この子の贈り物を開ける時の方が、よっぽど心臓に悪いのだけれど」
箱の底を確認すると、これまた手書きの可愛らしい「説明書」が入っていた。
【めぐり布】
・目元を優しく温めます。
・魔力の流れを整え、心地よい眠りへ導きます。
・※眠る時に装着してください。
「めぐり布、ね。相変わらずおかしな名前をつける子」
セレストは美しい眉をひそめ、藍色の布地を光に透かした。
彼女の卓越した魔力感知能力をもってしても、その布から危険な波動は一切感じられない。
セレストはその夜、半信半疑のまま、ベッドでそのアイマスク――「めぐり布」を着用してみることにした。
目元に当てた、その瞬間。
「……あら? ほんのり暖かい……?」
内蔵された魔導回路が起動したのだろう。
体温よりもわずかに高い、絶妙な温熱がじわりと目元を包み込む。
それから十分もしないうちに、驚くべきことが起きた。
徹夜のせいで頭の奥にこびりついていた、あのズキズキとした偏頭痛が、霧が晴れるように消えていく。
目元の緊張が、お湯に溶けるように解けていく。
(何、これ……心地よす、ぎ……)
思考が急速にシャットダウンし、彼女はここ数年で最も深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
「…………え?」
天蓋付きのベッドの上で、セレストは呆然と己の手のひらを見つめた。
いつもなら目覚めた瞬間に襲ってくる、直接脳を殴られたような重苦しさが一切ない。
頭が驚くほど冴え渡り、首から肩にかけての慢性的な痛みが綺麗に消失している。
鏡の前に立つと、そこには見違えるほどすっきりとした自分の顔があった。
ここ数年、どんな最高級の秘薬を用いても消えなかった目の下の隈が、綺麗さっぱり消え失せている。
「……本物、なの?」
セレストは、ベッドに置かれた藍色の布を二度見した。
それからというもの、彼女は実験的にその「めぐり布」を使い続けた。
ある日は十二時間ぶっ通しで古代魔導式の解析を行ったが、夕方になっても全く目が霞まない。
さすがに異常だった。
(さて……どんな反応を見せるかしら)
セレストの脳裏で、一人の政治家としての回路が高速で回転を始める。
リンネを「国家の戦略兵器」として報告すれば、研究院の老人たちは彼女を拘束し、研究材料として文字通り擦り切れるまで利用しただろう。
だが――「欲望は、最も制御しやすい」。
彼らにとって真に必要なのは、世界のパワーバランスを変える兵器ではない。
迫る締め切り、終わらない査読、それらに耐えうる「健康な肉体」なのだ。
セレストは妖艶な笑みを浮かべ、仕掛けを施すべく立ち上がった。
二日後。
研究院の定期幹部会議の席でのことだ。
「――以上が、今期の防衛魔導壁の更新予算についての報告だ。……ん? セレスト殿」
議長を務める老術師が、怪訝そうに眼鏡を下げてセレストを凝視した。
「何でしょう」
「……お主、最近しっかり寝ているのか?」
「ええ、極めて健康的な睡眠をとっていますが」
セレストが平然と答えると、会議室の老人たちが一斉にざわつき始めた。
何しろ、この修羅場続きの時期に、セレスト一人だけが、まるで極上のリゾート帰りのように肌艶が良く、満ち足りたオーラを放っているのだ。
「おかしい! 先週まで我々と同じ『死人の目』をしていたはずだ!」
「査読期間中だぞ!? なぜそんなに元気なのだ!」
「セレスト殿、頼む、頼むからその秘訣を教えてくれ! ワシは締切前でもう四徹しておるんだ! このままだと古代魔導式を読み解く前にワシの命が尽きる!!」
血走った目で詰め寄ってくる、国の重鎮たる老人たち。
セレストは彼らの哀れな姿を静かに見回したあと、鞄から「それ」を取り出した。
「原因は、これです」
「……布、か?」
「ラウノの付与術師が作った『めぐり布』という休息具です。これを使うだけで、数時間の睡眠で翌朝には頭が完全に冴え渡ります」
会議室が、水を打ったように静まり返る。
国家顧問を務める最長老の術師――ガリレイが、震える手でその布を受け取り、恐る恐る自らの魔力を流した。
その瞬間、ガリレイの老いた目がカッと見開かれる。
「……違う」
会議室の空気が一変した。ガリレイは眼鏡を押し上げ、布を舐めるように凝視する。
「これは休息具じゃない」
沈黙。
「人体を、術式の一部にしている……」
「……そんな馬鹿な」
「人体の魔力循環を利用しているというのか!?」
「神経の伝達まで完全に計算してあるぞ……!」
大魔導師たちの間に、戦慄と興奮のざわめきが爆発する。
「見せろ! ……う、うおお!? 目の奥の痛みが消えていく……ッ!!」
「これがあれば、締切前に三徹しても倒れずに済むわ!!」
「古代魔導式を十八時間連続で読めるぞ!!」
国家の頭脳たちは、一枚の布を巡って、国際会議では決して見せない醜態を晒し始めていた。
「貸せ!」
「返せ、ワシが先じゃ!」
「老人に譲れ!」
「お前も老人だろうが!」
「ワシの方が年長じゃ!」
「欲しい! 私にも一つ!」
「研究室全員分、百個発注だ!」
興奮の坩堝と化した会議室で、セレストは内心の笑みを押し殺し、困ったようにわざとらしく首を振ってみせた。
「――申し訳ありません。それは不可能です」
「何だと!?」
「彼女は職人であり、すべての工程を一人で行っています。大量生産など到底できません」
全員が、凍りついたように静まり返った。
国家最高峰の魔導師たちが、ゴクリと唾を飲み込む。
「……待つ」
ガリレイが、震える声で厳かに言った。
「一年でも、二年でも待つ。職人を急かす者は愚か者だ。彼女の繊細な作業を邪魔するなど、言語道断」
「そうだ! 万が一、重圧でその腕が鈍ったらどうする!」
「彼女の生活環境を完全に保護せねばならん!」
セレストの内心は、狙い通りの反応に会心の笑みで満ちていた。
これでいい。
彼らにとってリンネはもう、「研究対象として拘束する対象」ではない。
「機嫌を損ねたら二度と至高の休息具を作ってくれなくなる、決して機嫌を損ねてはならない職人」になったのだ。
国一番の研究者たちより、ラウノの小さな店主であるリンネの立場が、完全に上になった瞬間だった。
「では、注文は受け付けます。ただし、条件があります」
セレストは厳かな口調で条件を突きつけた。
「彼女は普通の店主です。王都への強制召喚、および身柄の拘束の永久禁止。彼女を『研究対象』として扱うことも認めません。本人の静かな生活を最優先にすること。……異論は?」
「当然だ! 異論などあるはずがない!」
「すぐに特別保護の書類を作ろう。おい、ワシの分の注文書を一番上に挟んでおけ!」
こうして、魔導研究院という国家の怪物は、リンネの「最強の保護者」へと変貌を遂げた。
その頃。
王都から遥か離れたラウノの街。
「……こんな布一枚で、本当に喜んでもらえたかなぁ」
リンネは首を傾げながら、新しく仕入れた布地に針を通していた。
彼女の足元では、ちいさなわんこ精霊が、千切れんばかりに尻尾を振って見上げている。
『あるじ、すごい! あるじのつくったやつ、ぽかぽかして、すっごくいいにおいする!』
「そうかな? セレストさん、いつも目が疲れがちみたいだったから、少しでも楽になってくれたら嬉しいんだけど。……次は、首や肩を温める『ネックピロー』とか、座りっぱなしの人が楽になるクッションとかも作ってみようかな」
『あるじのつくるやつ、ぜんぶすてき!』
「ええへ、ありがとう」
リンネはまだ、何も知らない。
誰かを少しだけ楽にしたい。
その想いが、
いつしか自分の日常を守る盾になろうとしていることを。
深夜。
自室に戻ったセレストは、一人静かにソファへ身体を預けた。
机の上には、すでに研究院の老人たちから預かった、大量の「お願い注文書」が山のように積み上がっている。
セレストは手元に残った藍色の布――「めぐり布」を愛おしそうに見つめると、それをそっと目元に当てた。
じんわりとした温かさが、張り詰めていた彼女の心を優しく解きほぐしていく。
あの子は、自分自身を何一つ変えようとしていないのに。
周りの世界ばかり、少しずつ変えてしまう。
セレストは目を覆っていた布を外し、静かに窓の外の夜空を見上げた。
その表情は政治家のそれではなく、どこか穏やかな姉のような笑みだった。
「……ありがとう、リンネ」




