第39話 休日の買い出し
黒化精霊鉱事件――街の人々には「鉱山事故」とだけ伝えられたあの日から、数週間。
数日間に及ぶ厳しい取り調べや事後処理の任務もようやく落ち着き、緊迫した空気から完全に解放されたラウノの街には、いつも通りの、どこか気の抜けた日常が戻ってきていた。
それは、街の片隅に佇むリンネ小物店も同様である。
変わらない陽だまり。
変わらない棚の並び。
けれど、ただ一つだけ、以前の日常とは決定的に違う点があった。
「るーく!」
パタパタパタ、とせわしない足音が響いた直後、店の入り口へ向かって、小さな身体から淡く青白い魔力の光をまとった塊が、全力のロケット弾よろしく突撃した。
「おっと」
その文字通りの「突撃」を、慣れた手つきで受け止める者が一人。
もともとリンネに懐いていた、通称「わんこ精霊」である。
著しい進化を遂げ、黒化精霊を浄化したほどの強大な力を秘めているのだが、普段は可愛らしい小型犬の姿でリンネにまとわりついていた。
とはいえ、突進の風圧と中身の質量はそれなりにある。
それを片手で涼しく受け止めるのは、さすが現役の騎士だった。
ルークは当然のようにしゃがみ込み、膝の上でちぎれんばかりに尻尾を振る白い毛並みを、大きな手で優しく撫でる。
「こんにちは。今日も元気ですね」
「きゅ〜う!」
うっとりと目を細めて、ルークの指に鼻先を擦り付ける精霊。
その、あまりにも店主を無視した懐きっぷりに、カウンターの奥から冷ややかな声が突き刺さった。
「……完全になついてますね、それ」
頬杖をついたリンネが、じとーっとした目をルークに向ける。
「そうでしょうか。ただじゃれつかれているだけかと」
「それを世間一般では『なついてる』って言うんです。ほら見てくださいよ、あのドヤ顔」
リンネの指摘通り、わんこ精霊はルークの膝の上でこれでもかと胸を張り、小さな前足を突き上げてみせた。
「おれ、あるじの、いちばんこぶん!」
「はいはい、あなたは私の一番の可愛い子分ね」
「るーくは、あるじまもる、にばんこぶん!」
「ぶっ……!? な、何言ってるのよこのバカ犬!」
突拍子もない精霊の格付けに、リンネは盛大に吹き出した。顔が一気にカッと熱くなる。
つまり、この精霊の中では【主:リンネ > 一番の舎弟:わんこ精霊 > 新入りの特攻隊長:ルーク】という組織図が出来上がっているらしい。
「……なるほど。俺は主をお守りする二番目の子分、ということですか」
ルークは否定するどころか、大真面目な顔で深く納得して頷いている。
「ちょっとルークさん、真に受けないでくださいよ! なんであなたまで子分に甘んじてるの!?」
「いえ、リンネさんをお守りするという一点において、俺の立場は『子分』でも何ら差し支えありません。むしろ光栄です」
「〜〜っ! この堅物!」
やれやれと頭を振るものの、リンネの唇からは自然と苦笑が溢れてしまう。
もちろん、リンネは知らない。
王都の最高機密会議にて、ルークが上層部からの命により、「彼女の平穏な一般市民としての日常を絶対に壊すな」という極秘の護衛任務を帯びていることを。
だからこそルークは私用を装って店に頻繁に顔を出しているのだが、リンネから見れば、彼はただの「驚くほど義理堅くて真面目な、ちょっと過保護な知り合いの騎士様」だった。
リンネはぱっと手元の帳簿を閉じると、ふと思い出したように彼を見上げた。
「ところでルークさん、今日はお仕事ですか?」
「いいえ、本日は非番……完全に私用です」
「あ、お休みなんだ。じゃあ……何でここにいるんですか?」
「……」
途端に、ルークの口がへの字に結ばれた。
「極秘護衛任務です」とは口が裂けても言えない。しかし、臨機応変な嘘が苦手な彼は、私的に会いに来る気の利いた言い訳がとっさに思い浮かばないらしい。
「なんで黙るんですか」
「……近くを通りました」
「毎回ですけど?」
「……偶然です」
「週四回偶然来る人います?」
完全に気まずくなったのか、ルークはわずかに視線を逸らし、わんこ精霊の頭を無意味に撫で回し始めた。わんこ精霊は「よしよし、もっと励めよ弟分」とでも言いたげに、偉そうに目を細めている。
お休みの日なのに、用もないのに真っ先にウチに来てくれる。そんなルークの不器用で、だけどまっすぐな態度に、リンネの胸の奥が、なんだかくすぶるような温かいもので満たされていく。
「まあ、ちょうどいいです。午後から買い出しに行こうと思ってたんですよ。今日の晩ご飯はカレーにしようと思って。ルークさん、付き合ってください」
「……っ。はい、喜んでお守り……いえ、お供します」
「今、お守りって言おうとしたでしょ!?」
あからさまにホッとした表情を浮かべるルークに、リンネはクスリと笑った。
店の外へ出ると、活気に満ちた市場には色鮮やかな野菜や果物、珍しい雑貨の香りが立ち込めていた。いつも通りの賑やかな日常の光景だ。
しかし、隣を歩くルークの視線は、楽しげに並ぶ露店や人混みだけではなく、周囲の建物の屋根の上や、薄暗い路地裏の奥にまで、鋭く、静かに走っていた。
(ルークさんの視線、ちょっと鋭すぎない……?)
数週間前までなら、ただの優秀な騎士の職業病だと思えただろう。
だが、現在のルークの意識の奥底には、「彼女の日常を守れ。決して牙を剥かせるな、牙を剥かれる状況も作るな」という命令が、深く刻み込まれていた。
「……一応確認なんですけど、なんでただの買い出しにそんなに警戒してるんですか?」
「いえ、反射的に。……癖のようなものです」
「ただの市場ですよ?」
「ですが、何があるか分かりませんから。あなたをお守りするのが俺の……」
「まだ子分設定引きずってるの!?」
さらりと真面目な顔でセリフを吐くルークに、リンネは小さく呆れる。
リンネが品定めをしながら、カレーに使う肉や野菜、いくつかのスパイスを買い求めると、それをすかさずルークの手が回収していった。
「ちょっと、それ私の買い物なんですけど。私が持ちます」
「危険です。荷物で前が見えなくなり、リンネさんが転ぶ可能性があります」
ルークはリンネから紙袋を受け取ると、大きな荷物だけを自分の左手にまとめた。
そして、人混みを避けるように歩くルークの手が、一瞬だけリンネの背中へそっと添えられる。
――人波が過ぎると、何事もなかったように手は離れた。
ルーク本人はあくまで「護衛としての距離感」のつもりだったが、リンネは(いま……触れた?)と、心臓が跳ねるのを必死で抑える。
右手を完全に空けたルークは、何食わぬ顔で荷物を持ち直した。
「重い物は俺が持ちます。リンネさんはその小さい袋だけお願いします」
「え、でも……」
「万一転びそうになった時、支えられませんから」
「そんなに心配しなくても転びませんって」
そう言いながらも、リンネは小さな紙袋を一つだけ抱えた。
ルークにとって本当の理由は別だった。護衛対象にも護衛者にも、最低でも片手の自由は必要――それが長年の訓練で染みついた習慣だ。
左手には荷物をまとめ、右手は自然に空けて歩く。歩く位置も半歩だけリンネの斜め後ろ。本人は無意識だが、それは騎士団で培われた完璧な護衛の立ち位置だった。
「そこまで運動音痴じゃないです!」
ぷくーっと頬を膨らめるリンネ。丁寧な口調を崩さない真面目さと、抱えている買い物袋の生活感のギャップが、どこか可笑しい。
そんな二人のやり取りの最中、スパイスを扱う露店の隣で、中央から来たらしい商人が大きな荷物を下ろしていた。その商人は、ふとルークの姿を認めると、はっと目を見張って声を上げた。
「失礼ですが……その徽章、その立ち居振る舞い。もしや、ヴァンディール侯爵家のルーク様ではございませんか。以前、王都で侯爵家へ品を納めた折、お見かけしたことがありまして」
ルークはぴくりと動きを止め、静かに振り返ると、軽く会釈した。
「ええ。ご存じでしたか」
「やはり! まさかこんな辺境のラウノでお目にかかれるとは思いませんでした」
思いがけない言葉に、リンネは思わず持っていた紙袋を抱え直したまま、動きを止めた。
「……侯爵家?」
商人はしまったという顔をして頭を掻く。
「おや、失礼しました。ご存じありませんでしたか」
ルークは少しだけ困ったように、けれど隠し立てしない穏やかな笑みを浮かべた。
「お話しする機会がありませんでしたので」
「えっ、本当に?」
リンネは丸い目をさらに見開き、ルークの顔を凝視した。
「ルークさんって……侯爵家の方なんですか?」
「はい。ヴァンディール侯爵家の三男です」
「……えぇぇっ!?」
あまりの予想外の返答に、リンネの声が市場の喧騒の中に裏返って響いた。
周囲で聞き耳を立てていた店主たちも、「あの真面目な兄ちゃんが貴族様だったのか?」と一斉にざわめき立つ。ラウノの街の住人にとっても、それは初めて知る驚きの真実だった。
リンネはルークの隣を歩きながら、さっきまでと同じ距離のはずなのに、どこか遠く感じてしまう自分に戸惑っていた。
(侯爵家……)
王都でも名の知られた大貴族。
自分とは住む世界が違う人。
そんな人が、どうしてこんな辺境の小さな店へ、何度も足を運んでくれるのだろう。
ルークは何も変わっていない。
変わってしまったのは、その事実を知ってしまった自分のほうだった。
「あ、あの……ルークさん、隠してたわけじゃないんでしょうけど、その、びっくりして……」
「驚かせてしまってすみません。話す機会がないまま今日まで来てしまいました。それに……身分を知れば、あなたが今まで通りに接しづらくなるかもしれないと思っていました」
言葉は続かない。
驚きも戸惑いもある。
けれど、それ以上に――今までと同じように接していいのか、その答えが見つからなかった。
そんな二人の間に流れた、ほんの少しだけぎこちない沈黙を――
「わーい!」
能天気な声が、あっさりと吹き飛ばした。
淡く青白い光をまとったわんこ精霊が、ぴょーんとルークの足元へ飛びつく。
「るーく!」
「っ!? わんこ、急に飛び出したら危な――」
「あるじ、るーく、なかよし! えがお!」
尻尾をぶんぶん振って跳ね回る精霊に、リンネは思わず吹き出した。
先ほどの重い空気が嘘のように霧散していく。
「もう! そんなにはしゃがないの!」
もちろん、周囲の人々には、リンネが何もない場所へ向かって慌てているようにしか見えていない。
「ふふっ、若いっていいわねぇ」
「騎士様も優しい顔して見てるじゃない」
「照れてるのねぇ」
生暖かい視線が一斉に向けられ、リンネはハッと我に返る。
「ち、違いますからっ!」
顔を真っ赤にしたリンネは、慌ててルークの袖をぐいっと引っ張った。
「ル、ルークさん! 行きますよ! ここから離れましょう!!」
「は、はい……!」
市場の喧騒から逃げ出した二人は、気づけば街の外れにある、小高い丘へとたどり着いていた。
ここはラウノの街並みが一望できる、普段は人通りの少ない静かな場所だ。
二人は丘の上の大きな木のふもとに腰を下ろした。
流れる風が、熱を持った二人の頬を優しく撫でていく。
ルークは前を向いたまま一言も喋らないが、その耳の先は未だに赤く染まっている。その少し前では、お仕置きを免れてご機嫌な青白い精霊が跳ね回っていた。
リンネは未だに引けない顔の熱さを両手で押さえながら、ふと、隣に座るルークへと視線を向けた。
ルークは、丘の下に広がるラウノの街並みを静かに見つめていた。
「……リンネさん」
ルークが静かに口を開いた。
「休日というものは、これまで訓練に充てる時間だと思っていました」
「……ルークさん?」
「ですが……あなたと過ごす時間を知ってしまうと、一人で過ごす休日には戻れそうにありません」
それは、お世辞も飾りの言葉もない、彼の素真面目な、けれど確かな本心だった。
だからこそ、まっすぐにリンネの心へ届く。
リンネの胸が小さく疼く。
(侯爵家とか、そんなの関係なく……そんなことを言われたら困るよ)
前世のあの頃は、冷え切った暗い部屋でただ独りきりで夜を迎え、誰かとこうして穏やかな休日を過ごす未来なんて想像もしなかったのだから。
身分違いの壁を意識してしまった直後だからこそ、彼のその真っ直ぐな言葉が、嬉しさと切なさを同時に連れてくる。
それなのに、今は。
この心地よい時間が、ずっと終わらなければいいのにと願ってしまう。
「……私もですよ、ルークさん」
リンネは熱い頬を隠すように、わざとそっぽを向きながら、けれど嬉しさを隠しきれずに口元を緩めた。
夕暮れに染まるラウノ。
笑い合いながら歩く帰り道。
二人だけに見える青白い小さな精霊は、嬉しそうに尻尾を振りながら、その少し前を駆けていた。
それはまだ恋とは呼べない。
けれど二人にとって、この場所は少しずつ――帰りたい場所になり始めていた。




