閑話④:リンネの夢
夢を見た。
それは、もう二度と帰れない場所の記憶だった。
すべてがオレンジ色に染まる、どこか物悲しい夕暮れ時。
喧騒をかき消すような車の走行音、規則正しく変わる信号機、遠くでカンカンと鳴り響く踏切の音。
そこは、かつて生きていた――前世の世界。
重い足取りで、コンクリート造りのマンションの無機質な階段を上っていた。
口から漏れるのは、ため息ばかり。
今日も終電一歩手前だった。
書類が詰まった重い鞄が肩に食い込み、ヒールの高いパンプスで一日中歩き回った足はとうに限界を迎えている。
おまけに、駅前のコンビニで買った惣菜の袋が手首に赤く跡を作っていて、地味に痛い。
気づけば三十を過ぎても、一人暮らしは変わらない。
冷え切った暗い部屋には、誰も待っているはずがない。
……はずだった。
ガチャリ、と鍵を開けてドアを押し開けた、まさにその瞬間。
『――ぱたぱたぱたぱたっ!!』
フローリングを肉球で叩く、凄まじい勢いの足音が廊下の奥から響いてくる。
「わっ、ちょっと!?」
次の瞬間、視界に飛び込んできたのは、ぽんぽんと弾むような白い毛玉だった。
「こらっ、危ないってば!」
それは、可愛らしい小型犬だった。
白くて、少しふわふわとしていて、ちぎれんばかりに尻尾を全力で左右に振っている。
膝にちんまりと前脚をかけながら、嬉しそうにきゅん、きゅんと鼻を鳴らした。
「……ただいま」
気づけば、口元から自然と笑みがこぼれていた。
たったそれだけ。
たったそれだけのことで、身体に泥のように張り付いていた一日の疲れが、すうっと軽くなっていくのが分かる。
声に応えるように、犬は嬉しそうにその場でくるくると回った。
「待って待って、足元にいたら転んじゃう」
とりあえずコンビニの袋を床に置くと、犬はその周りをぴょこぴょこと楽しそうに跳ね回る。
完全に「ねえ、早く遊ぼうよ!」のポーズだ。
「はいはい、分かったから」
苦笑しながらその場にしゃがみ込むと、犬は待ってましたとばかりに、胸へと勢いよく飛び込んできた。
温かい。
とても、小さい。
けれど、腕の中に確かな命の重みを感じる。
愛おしさに耐えかねて、自然とその小さな身体をぎゅっと抱き締めていた。
「寂しかった?」
問いかけると、お返しとばかりにペロリと頬を舐められた。
「あはは……もう、くすぐったいってば」
声を出して笑う。
こういう何気ない時間がたまらなく好きだった。
誰かと特別な会話をするわけでもない。
贅沢なご馳走があるわけでもない。
ただ、この子がそこにいてくれるだけで、ただの四角いコンクリートの部屋が、自分にとってのちゃんとした帰る場所になっていたのだ。
夜。
テレビの音を小さく流したままの静かなリビング。
ソファに背を預けた状態で、疲れ果てて半分眠りに落ちていた。
犬は、足の間にすっぽりと収まって、綺麗に丸くなってすやすやと眠っている。
小さな寝息。規則正しい胸の上下。時折、夢でも見ているのかピクピクと動く三角形の耳。
「……本当、かわいいなぁ……」
ぽつりと、心の声が漏れた。
すると、犬の耳がぴこんと微かに動く。
「あ、起きてるでしょ、あなた」
声をかけると、目を開けることすら面倒くさそうに、トントンと尻尾だけがソファのクッションを叩いた。
「ふふっ」
その柔らかな、絹のような毛並みをそっと撫でる。
人生は、決して楽なことばかりじゃなかった。
仕事はいつも忙しくて余裕がなかったし、将来への漠然とした不安は常にあった。
周囲の友人は次々と結婚して家庭を持ち、実家の両親からの連絡も少し気まずかった。
恋愛だって、結局よく分からないままここまで来てしまった。
でも。
それでも。
どんなに惨めで、どんなに辛い一日があっても、家に帰ればこの子がいた。
この子が待っていてくれた。
だから、明日も頑張ろうと思えた。
「……いつも、ありがとね」
小さく呟くと、犬は眠そうに、けれどしっかりと見上げるために目を開けた。
ガラス玉のような、綺麗な黒い瞳。
真っ直ぐで、どこまでも優しくて。
世界中で一番、自分のことを無条件で信じてくれている瞳だった。
――不意に、世界の色彩が切り替わる。
視界が一瞬で白に染まった。
呼吸が、恐怖でぴたりと止まる。
「あ――……」
そこだけは、今でも呪いのように鮮明に覚えている。
病気で痩せ細ってしまった身体。
弱々しく、今にも消えてしまいそうな呼吸。
自慢だった綺麗な白い毛並みは艶を失い、もう自力で立ち上がることすらできなくなった、小さな小さな身体。
「大丈夫だよ……」
ボロボロと溢れそうになる涙を必死に堪えながら、その身体を優しく撫で続けた。
本当は。
全然、大丈夫なんかじゃなかった。
分かっていた。もう長くないこと。あと数時間、あるいは数分で、永遠のお別れが来てしまうということ。
でも、認めれば本当に消えてしまいそうで、認めたくなかった。
犬は、声を聞いて、本当に弱々しく、一度だけ尻尾を揺らした。
最後の最後まで。まるで、泣きそうな自分を安心させようと気を使っているみたいに。
「なんで……っ」
声が、情けなく震える。
「なんで、そっちが気を使うのよ……! バカ……っ」
堪えきれなくなった涙がポロポロと静かに落ちて、白い毛並みへと染み込んでいく。
その小さな身体を、壊れ物を扱うようにそっと抱き締めた。
まだ、温かかった。
でも、祈りも虚しく――少しずつ。
本当に、少しずつ。
愛しい体温が、遠くへ、遠くへと離れていく。
「やだ……っ」
狂ったように首を振る。
「置いていかないで……お願いだから、一人にしないで……!」
掠れた声で叫んでも、奇跡は起きない。
犬は、静かに、ただ穏やかに見つめていた。
そして――本当に弱々しく、最期に一度だけ、満足したように尻尾を振って、静かに瞳を閉じた。
――そこで、意識がぷつりと途切れた。
「――っ!?」
弾かれたように目を覚ます。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた木造の天井。
朝だった。
厚手のカーテンの隙間から、瑞々しい朝の光が部屋の中に差し込んでいる。
胸の奥が、締め付けられるように痛かった。呼吸が浅い。
まだ、あの夢の圧倒的な余韻が、胸の内でぐるぐると渦巻いている。
「……夢、か……」
ぽつりと呟いた自分の声が、妙に湿り気を帯びていた。
指先で頬に触れると、冷たい感触。眠りながら泣いていたらしい。
ぼんやりと天井を見つめる。
胸の奥が、ぎゅうっと苦しい。
あまりにも懐かしくて、温かくて――だからこそ、もう手が届かないことが痛い。
その時だった。
――もぞ。
布団の上で、何かがもぞもぞと動く奇妙な感触が伝わってきた。
「……え?」
涙で潤んだ視線を、ゆっくりと下に向ける。
そこには――。
透き通るような美しい青白色の、小さなわんこ精霊が、身体にこれでもかとぴったりくっついて丸くなっていた。
「…………」
声も出せず、ただ何度も瞬きを繰り返した。
視線に気づいたのか、わんこ精霊は眠そうに、けれど愛らしい黒い瞳をうっすらと開けた。
そして。
「きゅう……」
と、切なげに、小さく鳴いたのだ。
それはまるで。
『もう泣かないで』と、慰めてくれているかのように。
「……ずるい、よ」
声が、再び震え出す。
わんこ精霊は、言葉に応えるように、さらにぐいぐいと身体を擦り寄せてきた。
その仕草があまりにも記憶のままで、胸の奥がいっぱいになる。
「……もう。本当にずるいんだから」
涙を流しながらも、ふっと愛おしさに口元を緩めた。
触れた部分から、心地よい温かさが伝わってくる。
あの日、最後まで抱き締めていた温もりと、あまりによく似ていた。
「……本当に、あなたなの?」
問いかけても、もちろん人間の言葉の返事はない。
だけど、わんこ精霊は顔を見て、嬉しそうに、ちぎれんばかりにその短い尻尾をパタパタと振った。
その青白い綺麗な身体を、壊さないようにそっと両腕で抱き寄せた。
精霊は安心したように細い目をさらに細めて、胸にちょこんと顎を乗せる。
窓の外からは、朝の賑わいが、少しずつ聞こえ始めていた。
市場へと急ぐ人々の話し声。
ガラガラと石畳を駆ける荷車の音。
いつも通りの、優しい日常。
あの日、白い部屋で完全に止まってしまっていた時間が。
今、この場所で。
少しずつ、本当に少しずつ、確かな足取りで前へと進み始めていた。




