閑話②:ガルディアの休日
中央騎士団本部。
石造りで構成されたその巨大建築は、今日もまた、静かに騎士たちの熱量を呑み込んでいた。
規律、沈黙、そして果たすべき責務。
鏡のように磨き抜かれた白銀の床は、高窓から差し込む朝光を冷ややかに反射している。
どこまでも整然としていて、どこまでも非情。
まるで建物そのものが中央騎士団という巨大な国家の刃、その意志を体現しているかのようだった。
そのなかでも奥まった場所に位置する副団長室。
常人なら見ただけで眩暈を覚えそうなほど、大量の書類がうず高く積み上げられた机を前に、ガルディアは深く息を吐いた。
「……終わらんな」
ぽつりと漏れた声には、鉄のような重みが滲んでいた。
彼は壮年の男だった。
短く整えられた白髪混じりの黒髪に、すべてを見透かすような鋭い琥珀の瞳。
年齢を重ねた者だけが持つ落ち着きと、長年最前線で血を流し続けてきた騎士特有の圧倒的な圧が、その肉体には宿っている。
だが、それは決して暴虐な威圧ではない。
ただ背筋を伸ばしてそこに佇むだけで、誰もが「この男は守る側の人間だ」と直感的に理解できる。そんな絶対的な信頼感を放つ男こそが、中央騎士団副団長ガルディアだった。
「副団長」
ノックの音と共に、副官が静かに声をかける。
手元のスケジュール帳に視線を落としたまま、事務的な口調で告げた。
「本日の予定ですが――」
「休みだ」
「はい?」
副官のペンがピタリと止まる。
ガルディアは至って無表情のまま、ずしりと椅子から立ち上がった。
「……え、本当に? 本気で言ってます?」
「なんだその、化け物でも見たかのような反応は」
「いえ……だってあなたがまともに休暇を取るの、たしか半年ぶりくらいですよ?」
「そんなにか」
「そんなにです。というか、前回も半日で出勤して書類仕事してましたよね?」
ガルディアは少しだけ視線を泳がせ、思考した。
……否定できない。
数日前の夜、疲れ果てて帰宅した際、妻から微笑みながら「死ぬ前に休んでね?」と釘を刺された。
その横で、まだ幼い娘には「おとうさん、またおしごと? おうち、きらい?」とボロボロ涙を流して泣かれた。
流石の鉄血騎士といえど、あれは胸に刺さかった。大いに反省した。
「……とにかく、今日は上がる。何かあれば呼べ」
「呼びたくても、『副団長を絶対に休ませろ、呼び出したら減給だ』って、団長から厳命されてるんですよ。書類はこっちと団長で無理やり回しますから」
「そうか」
「今日はちゃんと家に帰る。いいですね?」
「ああ、ちゃんと帰る」
「……明日は槍でも降るんですかね?」
「減給するぞ」
「ひえっ」と慌てて敬礼を繰り出す副官を背に、ガルディアはどこか居心地の悪さを感じながら執務室を後にした。
王都西区。
騎士団官舎の物々しい雰囲気から少し離れた、緑の豊かな落ち着いた住宅街。
ガルディアが自宅の重い木製の扉を開けた、まさにその瞬間だった。
「おとうさーーーん!!」
ドタドタと小気味よい足音が響いたかと思うと、小さな影が全力のトップスピードで視界に飛び込んできた。
「うおっ」
流石のガルディアも、その体当たりには一歩よろめく。
腰のあたりに遠慮なくがっしりと抱きついてきたのは、愛くるしい我が娘だ。
「帰ってきた! おとうさん、帰ってきた!」
「ああ、ただいま」
「ほんもの!?」
「……留守中に偽物が来るような物騒な家にした覚えはないぞ」
むくれたように言うと、娘はきゃっきゃと鈴を転がすような声で笑った。
ガルディアの厳格な顔が、ふっと柔らかく綻ぶ。
彼は自然な動作で、その小さな身体を愛おしそうに抱き上げた。
もしこの場に部下たちがいたら、記憶喪失を疑うレベルの優しい父親の顔だ。
「今日はお仕事ない? ずっといる?」
「いる。今日は一日中ここにいる」
「ほんと!? うそじゃない!?」
「本当だ。嘘は吐かん」
「おかあさーーーん!! おとうさんいる! 本物のおとうさんいるよー!!」
「はいはい、聞こえてるわよ」
家の奥から、くすくすと笑いながら妻が顔を出した。
おっとりとした、周囲の空気を穏やかにする不思議な佇まいの女性だ。
柔らかな茶髪をゆるくまとめ、呆れ半分、嬉しさ半分の瞳で夫を見つめてくる。
「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
「ふふ、ちゃんと休む気になったのね。奇跡かと思ったわ」
「……努力はしている」
「また無茶したでしょう。書類、意地でも片付けようとしたんじゃない?」
「してない」
「顔に出てるわよ」
即答だった。
ガルディアはぐっと言葉に詰まり、沈黙する。
妻は昔からこうだ。付き合いが長いというのもあるが、少し顔の筋肉の動きを見ただけで、こちらのコンディションを大体見抜いてしまう。
「特に、目の下」
「……何かあるか?」
「ものすごーく濃い隈。鏡、見てないでしょう?」
すると、抱かれていた娘が、ちいさな手を伸ばしてガルディアの頬をぺたぺたと触り始めた。
「おとうさん、おつかれ?」
「……まあ、少しな」
「じゃあ、よしよし! よしよししてあげる!」
小さな、温かい手のひらが、戦場で幾多の修羅場をくぐり抜けてきた彼の頭を不器用に撫でる。
ガルディアは数秒間、完全に固まった後――片手で静かに顔を覆った。
「……敵わんな」
「でしょうね?」
勝ち誇ったように、けれど愛おしそうに微笑む妻の顔が、ひどく眩しかった。
昼食後。
久々に過ごす我が家は、ガルディアにとって妙に落ち着かない空間だった。
一言で言えば――静かすぎる。
騎士団本部であれば、四方八方から常に怒号混じりの報告、慌ただしい軍靴の足音、甲冑が擦れ合う金属音、緊張感の走る指示が飛び交っている。それがガルディアにとっての「日常」だった。
だが、ここにあるのは、妻が淹れてくれた紅茶の芳醇な香りと、娘が絨毯の上で楽しそうにおもちゃを動かす小さな音だけ。
「……平和だな」
「何よ急に、そのしみじみとした感想は」
お茶請けのクッキーを並べながら、妻が呆れたように笑う。
ガルディアは深いソファに背を預け、身体の芯から緊張が抜けていくのを感じながら、小さく息を吐いた。
そのすぐ横では、娘が今度は絵本を広げて夢中になっている。
(守りたい、な……)
柄にもなく、そんなことを思う。
この穏やかな時間を。何の脅威にも怯えなくていい、こんな当たり前の日常を。
――だからこそ、自分はあの血臭い騎士団の最前線にいるのだと、改めて己の使命を確認する。
その時だった。
妻がカップをトレイに置き、ふと思いついたように口を開いた。
「そういえば。最近のルーク様は、どうされているの?」
ピクリ、とガルディアの眉がわずかに動く。
「……なぜ、今その名を出す」
「なんとなく? あなたがそんな風に、遠い目をしてお茶を飲む時は大体あの方のことを心配している時だからよ。違った?」
「勘か」
「妻の勘よ」
昔からこれだ。この妻には悪いことは絶対にできない。
ガルディアは苦笑を漏らした。
「……変わったよ、あいつは」
「へぇ?」
「本人は上手く隠しているつもりだろうがな。我々の目は誤魔化せん」
よく分かってしまうのだ。何せ、入団当初のひよっこの頃からずっと見てきた男だ。
名門貴族の三男坊。中身のない顔立ちばかりを周囲に褒めちぎられ、反発するように自分の実力を証明したくて必死だった、ただの尖った若造。
あいつは、優しげで人当たりのいい顔をしているくせに、誰よりも無茶をする性質だった。
他人を守るためなら、天秤に自分の命を載せることすら躊躇わない。自分を削ることに何の疑問も持たない、ある種の欠陥を抱えていた。
だが、最近のあいつの剣筋は、あいつの瞳は違う。
「死ぬ気で動いてるわけじゃない。生きるために、剣を振るっている」
妻がぱちくりと瞬きをした。
「それって、とってもいい変化じゃない。ルーク様も、少しは大人になられたのね」
「……ああ」
以前のルークは危うかった。いつか自滅するのではないかと、どこかで肝を冷やしていた。自分という存在を軽視していたからだ。
だが、今は違う。
守るべきものを、――いや、「帰るべき場所」を明確に見据えている、強い人間の顔をしている。
「ふーん。もしかして、素敵な方でもできたのかしら?」
ガルディアは、あえて数秒の沈黙を挟んだ。
「……たぶんな」
「ふふ、あの生真面目なルーク様も、やっと春が来たのかしら」
妻が実に楽しそうに、悪戯っぽく笑う。
「で? どんな方なの? やっぱり王都の令嬢?」
「いや。辺境の付与術師だ。年はルークとそう変わらん女性らしいが……」
「らしいが?」
「常に、最悪な厄介事の中心にいるような人だ。あいつの話を聞く限り、とても落ち着いて暮らせるような御仁ではなさそうだ」
「あらまあ。ルーク様も苦労されているのね」
「本人は『静かに田舎で暮らしたい』などと抜かしているらしいがな」
「……無理そうね」
「無理だな」
夫婦の声が見事に重なった。
二人の会話のトーンが変わったのを察したのか、絨毯の上の娘が不思議そうに顔を上げる。
「るーくにいさま? るーくにいさま、こんどくる?」
「……どうだろうな。今頃振り回されているかもしれん」
ガルディアは静かに琥珀色の瞳を細め、胸の奥底にある、古い痛みを伴う記憶を呼び起こす。
「せめて」
ぽつりと、誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
「あいつは、何も失わずに済むといいがな」
それは、かつて何かを失った自分への悔恨か。それとも、未来を行く部下への祈りか。
窓から差し込む暖かな光の中で、ガルディア自身にも、それは分からなかった。
ガルディアは、視線を娘から窓の外へと移した。
遮るもののない、どこまでも青く広がる王都の空。
一見すれば、これ以上ないほど平和に見える。
だがその裏では、まだ本人だけが知らないところで、世界は静かに彼女へ近づき始めていた。
その奔流は、やがてルークをも巻き込んでいく。




