第37話 リンネ小物店の明日
――あの激動の夜から、数日後。
市場には活気ある呼び声が戻り、子どもたちが笑いながら石畳を駆け回る。
鍛冶屋からは心地よい槌音が響き、焼きたてのパンの香りが爽やかな風に乗って街中を包み込んでいた。
あの地下で何が起きていたのか、その真実を知る者はごく一部の人間だけだ。
けれど、世界を覆いかけていた見えない澱は消え失せ、ラウノの街には確かに平穏な日常が戻っていた。
カラン、コロン。
昼下がりの穏やかな時間、リンネ小物店の扉に取り付けられた真鍮のベルが、涼やかな音を立てた。
窓から差し込む柔らかな午後の日差しが、店内の埃をキラキラと金色に光らせている。
壁の棚に並ぶ細々とした魔導具、使い込まれた作業机、散らばる工具。
どれもが愛おしい、いつもの景色だ。
「いらっしゃいませー」
リンネは机に向かって前かがみになったまま、視線も上げずにのんびりとした声を出す。
手元では、新作の保温ポットの底面に、細いペンで微細な術式を書き込んでいる最中だった。
「……また怪しげな魔導具が増えていますね」
聞き馴染みのある、少し低くて心地よい声。
リンネがハッと顔を上げると、そこには見慣れた銀髪の青年が立っていた。
「あ、ルークさん。こんにちは」
「こんにちは、リンネさん」
ルークは穏やかな微笑みを浮かべていたが、その綺麗な目の下には、うっすらと抜けない隈が刻まれている。
事件の後処理、報告書の作成、騎士団の差配など、連日不眠不休で飛び回っていたのだろう。
「お仕事はいいんですか? そんなに顔色が悪いですけど……」
「……副団長に、半ば力ずくで部屋から追い出されまして」
「追い出された?」
「ええ。『お前のその幽霊のような顔を見ていると士気が下がる、今すぐ休め』と」
大真面目な顔で語るルークに、リンネは思わず、ふふっと吹き出してしまった。
「あはは、よかったじゃないですか。ちゃんと休んでくださいね」
「宿舎に戻る途中で姉上にも捕まりまして、『早く彼女の顔でも見て癒やされてきなさい』と背中を蹴飛ばされました」
「お姉様、相変わらずですね……」
「本当に、相変わらずです」
ルークが困ったように、けれどどこか嬉しそうに苦笑する。
その時だった。
棚の陰から、楽しげな足音と共に青白い光の塊が飛び出してきた。
「わぅん!」
わんこ精霊だ。
すっかり大型犬サイズになった身体を揺らし、嬉しそうにルークの元へと駆け寄る。
そして、当然の権利だと言わんばかりに、ルークの足元へぴたりと座り込んだ。
「…………」
「…………」
リンネはジト目で精霊を見つめる。
当の精霊は、ルークを見上げて尻尾をブンブンとちぎれんばかりに振っていた。
「……あの、ルークさん。それ、一応私の契約精霊なんですけど」
「たぶん、そうですね」
「なんで私よりルークさんに懐いてるんですか?」
「さあ……俺にもよく分かりませんが」
ルークは困惑しつつも、慣れた手つきでわんこ精霊の大きな頭を優しく撫でる。
精霊は気持ちよさそうに目を細め、ルークの膝に顎を乗せた。
普通に考えれば、あり得ない光景だ。
誇り高き精霊が人間にここまで懐くなど前代未聞だし、ましてや自然に触れ合うなど、おとぎ話でも聞いたことがない。
それなのに、この店の中では、それがいつの間にか当たり前の日常として溶け込んでいる。
「……慣れって、本当に怖いですね」
「そうですね。ですが、悪くない」
静かで、優しい時間が店内に流れる。
事件が起きる前なら、こんな時間は想像もできなかった。
前世の記憶に縛られ、他者と深く関わることを恐れていた自分が、誰かと一緒にいることを、こんなにも自然に、心地よいと感じるなんて。
リンネは手元の作業机に視線を落とした。
小さな小物店。大好きな付与術。温かいラウノの街。大切な仲間たち。
そして――目の前で不器用に精霊を撫でている、一人の騎士。
(いつの間にか……私の中にも、守りたいものがこんなに増えてたんだな)
「リンネさん」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。
ルークが、その真っ直ぐで誠実な瞳で、こちらをじっと見つめていた。
「これからも、私は貴女の隣で、貴女の守りたいものを共に守ります。……何があっても」
低く、けれど芯の通った静かな声。
それは騎士としての公的な誓いであると同時に、それ以上の、個人的で不器用な情熱が滲んでいるように思えた。
「っ――」
リンネの心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
急に顔が熱くなるのを感じた。
だが、当のルークはそんな大真面目な台詞を口にした直後、急に我に返ったように、耳を赤くしてふいと視線を逸らしてしまった。
どうやら、自分の言葉の破壊力に今更気づいたらしい。
(もう……本当に不器用なんだから)
リンネは可笑しさが込み上げてきて、悪戯っぽく、けれど心からの親愛を込めて微笑んだ。
「はい。……よろしくお願いしますね、ルークさん」
その返事を聞いて、ルークはホッとしたように笑顔を浮かべた。
窓の外を見れば、夕日がラウノの街を茜色に染め始めている。
大きな事件は終わった。街に平穏は戻ってきた。
少なくとも今は。そう信じたかった。
だが――。
わんこ精霊が、ぴくりと耳を立てる。
嬉しそうだった尻尾が、不意に止まった。
その視線は、遥か遠くの夜空へ。何かを感じ取ったように。
しかし次の瞬間には、
「わぅん」
と何事もなかったようにリンネへ擦り寄る。
「もう、甘えん坊なんだから」
リンネは笑ってその大きな頭を撫でた。
わんこ精霊は安心したように目を細める。
その視線の先にある未来を、まだ誰も知らない。
それでも、今この瞬間だけは。
リンネは大切な人たちの温もりに囲まれ、穏やかに微笑む。
毎日が騒がしくて、面倒事ばかり舞い込んできて。
それでも、自分の命に代えても守りたいと思える、大切な私の居場所。
――ただいま、と言える場所がある。
だから、明日もまた歩いていける。




